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第9話 最後の責任転嫁

第9話 最後の責任転嫁


 十二月の風は冷たかった。


 大学病院の救命救急センターを出た森田凛子は、マフラーを首に巻き直しながら夜空を見上げた。


 夜勤明けだった。


 空は澄み切っていて、星がいくつか見えている。


 吐く息は白い。


 身体は疲れているはずなのに、心は以前よりずっと軽かった。


 あおぞらホームへ戻ってから半年近くが過ぎている。


 仕事は忙しい。


 それでも眠れる。


 食事も取れる。


 笑うこともできる。


 それだけで人生は驚くほど変わるのだと知った。


 駅前のパン屋へ立ち寄る。


 焼きたてのクロワッサンとクリームパンを買った。


 真央たちへの差し入れだ。


 袋から漂うバターの香りが心地よい。


 電車に揺られながらスマートフォンを見る。


 その時だった。


 見慣れない通知が表示された。


 メールだった。


 差出人を見た瞬間、凛子の手が止まる。


 森田翼。


 元夫だった。


 離婚後、一度も連絡してこなかった男。


 凛子はしばらく画面を見つめた。


 迷った末にメールを開く。


 長文だった。


『母さんの体調が悪化した』


『心臓の調子もよくない』


『医者からも生活環境を改善しろと言われている』


 そこまではまだよかった。


 だが、その先を読んだ瞬間、凛子は静かに目を閉じた。


『全部お前のせいだ』


『お前が出て行かなければこんなことにはならなかった』


『母さんはお前を本当の娘みたいに思っていた』


『責任を取れ』


『戻ってこい』


 車内アナウンスが流れる。


 乗客たちの話し声も聞こえる。


 だが凛子には何も入ってこなかった。


 ただ画面だけを見つめる。


 不思議だった。


 昔なら泣いていたかもしれない。


 自分を責めていたかもしれない。


 けれど今は違う。


 胸が痛まない。


 罪悪感もない。


 あるのは呆れだけだった。


 どこまで行っても変わらない。


 自分の責任を認めない。


 誰かのせいにする。


 それが翼という人間だった。


 その夜。


 あおぞらホームでは夕食の準備が進んでいた。


 食堂からはいい匂いが漂ってくる。


 クリームシチュー。


 サラダ。


 焼きたてのガーリックトースト。


 子どもたちの笑い声も聞こえる。


「凛子さん帰ってきた!」


 真央が駆け寄ってきた。


「お土産ある?」


「あるよ」


「やった!」


 凛子はパン屋の袋を差し出す。


 真央の顔が輝いた。


「クロワッサン!」


「みんなで食べよう」


 その時だった。


 恵子が凛子の表情に気付く。


「何かあった?」


 凛子は少しだけ迷った。


 だが隠す必要もないと思った。


「翼からメールが来ました」


 食堂の空気が一瞬静かになる。


 恵子は驚かなかった。


「そう」


「戻ってこいって」


「なるほど」


 恵子は頷いた。


 そして静かに尋ねる。


「凛子はどうしたい?」


 その質問が嬉しかった。


 以前の生活では誰も聞かなかった。


 どうしたいのか。


 何を望むのか。


 そんなことは重要ではなかったからだ。


 凛子は少し考えた。


 そして答える。


「戻りません」


「そう」


「絶対に」


 恵子は微笑んだ。


「なら答えは出てるわね」


 その言葉に肩の力が抜ける。


 その時、真央が首を傾げた。


「その人って悪い人?」


 子どもらしい率直な質問だった。


 凛子は少し笑う。


「どうかな」


「嫌な人?」


「うーん」


 少し考える。


「自分の間違いを認めるのが苦手な人かな」


 真央は難しい顔をした。


「それって大人でもいるんだ」


「いるよ」


「子どもみたい」


 食堂に笑いが広がった。


 恵子まで吹き出している。


 凛子も笑った。


 本当にそうかもしれない。


 夕食が始まる。


 シチューの湯気。


 焼きたてのパンの香り。


 賑やかな会話。


 誰かがおかわりを要求している。


 誰かが牛乳をこぼしている。


 そんな何気ない光景が愛しかった。


 食後。


 自室へ戻った凛子はスマートフォンを取り出した。


 メールをもう一度開く。


 読み返す。


 やはり何も感じなかった。


 昔なら違った。


 責任を感じた。


 申し訳なく思った。


 でも今は分かる。


 貴美子の健康は貴美子自身の問題だ。


 翼の人生は翼自身の問題だ。


 それを自分に押し付ける権利は誰にもない。


 窓の外では風が木々を揺らしている。


 静かな夜だった。


 凛子はメールを削除した。


 ゴミ箱へ移動する。


 確認画面が出る。


『削除しますか?』


 迷わない。


 指先で画面を押す。


 メールは消えた。


 続いて連絡先を開く。


 森田翼。


 その名前を見つめる。


 そして。


 ブロックボタンを押した。


 確認画面が表示される。


『この連絡先をブロックしますか?』


「はい」


 小さく呟いて決定した。


 静かな音が鳴る。


 それだけだった。


 だが凛子には分かった。


 今、自分は本当に過去を終わらせたのだと。


 窓の外には冬の星空が広がっている。


 遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてきた。


 凛子は微笑む。


 もう振り返らない。


 自分には帰る場所がある。


 大切な人たちがいる。


 だから。


 もう二度と、誰かの都合のいい人生には戻らなかった。



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