第7話 崩れた人生
第7話 崩れた人生
十一月の冷たい雨が窓を叩いていた。
森田翼は会社の会議室でうなだれて座っていた。
右肩の骨折は回復しつつあったが、まだ腕を完全には動かせない。
病院を退院して一週間。
本来なら現場復帰へ向けて準備を進めているはずだった。
しかし現実は違う。
会議室の空気は重苦しかった。
長机を挟み、向かい側には工事部長と安全管理責任者、それに人事部の課長が並んでいる。
誰も笑っていない。
資料の束だけが無機質に置かれていた。
「事故調査報告書がまとまりました」
安全管理責任者が口を開く。
翼の胃が重くなる。
嫌な予感はしていた。
だが聞きたくはなかった。
「足場崩落の原因は複数あります」
ページをめくる音が響く。
「ですが最大の問題は安全確認手順の省略です」
翼の顔色が変わった。
「待ってください」
「最後まで聞いてください」
冷たい声だった。
「作業開始前点検の記録がありません」
「それは忙しくて――」
「安全帯の確認記録もありません」
「現場が逼迫していて」
「危険箇所への立ち入り許可も口頭指示のみでした」
言葉が続かない。
会議室が静まり返る。
部長が深いため息をついた。
「森田」
「はい」
「何度も言ったよな」
翼は俯いた。
「安全だけは妥協するなって」
「……はい」
「二十人以上の負傷者が出たんだ」
胸が苦しくなる。
あの日の光景が蘇る。
崩れる足場。
悲鳴。
舞い上がる土埃。
そして自分自身も巻き込まれた。
「幸い死者は出なかった」
部長は言った。
「だが紙一重だった」
翼は何も言えなかった。
やがて人事課長が書類を差し出す。
「会社として処分を決定しました」
その一枚を見た瞬間、翼の手が震えた。
降格処分。
現場監督から外される。
さらに賞与大幅減額。
しばらくの間、管理職への昇進も停止。
目の前が暗くなる。
「そんな……」
「当然だ」
部長の声は厳しかった。
「むしろ会社が存続できただけ幸運だ」
翼は唇を噛んだ。
悔しかった。
だが反論できない。
全部事実だからだ。
会議が終わり、翼は廊下へ出た。
すれ違う社員たちが小さく頭を下げる。
以前なら違った。
「森田さん、お疲れ様です」
「現場どうします?」
「相談したいことがありまして」
そう声をかけられていた。
今は違う。
誰も近寄らない。
視線だけ向けて通り過ぎる。
距離を置かれている。
それが痛いほど分かった。
昼休み。
社員食堂へ行く。
以前よく一緒に食べていた同僚たちの姿が見えた。
カレーライス。
生姜焼き定食。
笑い声。
翼は少しだけ安心した。
「おーい」
声をかける。
しかし。
「あ、悪い」
「席埋まってるんだ」
「そうそう」
誰も目を合わせなかった。
明らかな嘘だった。
空席はある。
それでも誘われない。
翼は立ち尽くした。
結局、一人で隅の席へ座る。
唐揚げ定食を頼んだ。
だが味がしない。
周囲の会話だけが耳に入る。
「大変だったらしいな」
「現場めちゃくちゃだって」
「怖いよな」
全部自分の話だ。
食欲が失せた。
半分以上残して席を立つ。
その夜。
帰宅すると玄関には靴が散乱していた。
リビングでは義母の貴美子がテレビを見ている。
「あら、お帰り」
その声だけで疲れが増した。
「ご飯は?」
「まだ」
「まだって」
「買ってきてないもの」
翼は頭を抱えた。
結局、スーパーへ行く。
半額シールの貼られた弁当を二つ買った。
ハンバーグ弁当。
焼き魚弁当。
以前なら凛子が栄養バランスを考えて作っていた。
野菜。
味噌汁。
小鉢。
今はない。
電子レンジの音だけが響く。
義母は弁当を見て顔をしかめた。
「またこれ?」
「仕方ないだろ」
「味が濃いのよ」
「じゃあ食うなよ」
「何その言い方!」
義母が怒鳴る。
翼も怒鳴り返した。
「俺だって疲れてるんだよ!」
「私の方が大変よ!」
「何がだ!」
「病院だってあるし!」
「だったら自分で行け!」
静かなはずの食卓は、今や毎晩戦場だった。
食事が終わる。
洗い物がシンクに積まれる。
洗濯物も山のようだ。
誰もやらない。
やりたくない。
だが放置すると臭う。
翼はため息をつきながら洗濯機を回した。
泡立つ洗剤。
ぐるぐる回る衣類。
以前は何も考えなかった。
ボタンを押せば終わると思っていた。
しかし現実は違う。
干す。
取り込む。
畳む。
しまう。
地味で面倒な作業が延々続く。
「凛子さんはよくやってくれたわね」
義母がぽつりと言った。
翼の手が止まる。
「……」
「毎日働いてたのに」
静かな声だった。
後悔が滲んでいる。
翼は何も言えなかった。
あの日まで。
全部当たり前だと思っていた。
朝食も。
洗濯も。
掃除も。
病院の付き添いも。
弁当も。
全部。
夜。
一人でソファに座る。
部屋は静かだった。
テレビだけが明るい。
翼は無意識にスマートフォンを開く。
凛子とのトーク画面。
最後のメッセージは数か月前だった。
『夜勤だから夕飯は冷蔵庫に入れてあります』
それだけ。
それなのに胸が痛くなる。
病院で見た凛子の姿が頭をよぎる。
スクラブ姿。
迷いのない声。
多くの命を支える背中。
あんな顔をしていたのか。
自分は何も知らなかった。
ただ便利な存在だと思っていた。
窓の外では冷たい雨が降っている。
暗い夜だった。
翼はスマートフォンを握りしめた。
だが連絡する勇気はなかった。
謝る言葉も見つからなかった。
崩れたのは足場だけではない。
自分の人生そのものだった。
そして、そのことをようやく理解し始めていた。




