エール
アドリスの妻・エディットは亡くなった。
不思議だった。
前のテレーゼの人生でエディットは亡くなっていない。
何故、変わったのか私には分からなかった。
しかも、驚くべき噂を耳にしたのだ。
――エディットはアドリスの子を宿していたのだは無い――という心無い噂だ。
エディットが社交界で出逢った若い何処かの子息と深い仲になり、身籠ったと決めつけた噂である。
「酷い! 酷過ぎる誹謗中傷だ!」と一人憤慨している。
一人の女性が恋愛ではなく親が決めた人と結婚して、妊娠出産して子を失ったのだ。
それだけでも出産で弱ったエディットの身体を蝕んだと私は思う。
それなのに……使者に鞭打つ噂である。酷過ぎる。
アドリスは来なくなった。
アドリスの落ち込みが目に見えるようで、私はアドリスに会いたいと思った。
だが、その前に……結婚の申し込みが2件も来てしまった。
シュタウフェンベルク伯爵に断って貰いたいと頼んだ。
可能かどうかは分からない。
第三王子がどのような人か分からないが、私がこの帝国の王子様と結婚など嫌という言葉しか見つからない。
そして、もっと断りたいのはあのカールである。
何故だか今も結婚しておらず、テレーゼを妻にと求められても、私が一番結婚したくない人物である。
どちらにもお断りをしたが、それを受け入れてくれるという返事は来ない。
シュタウフェンベルク伯爵に頑張って貰うしかない。
このまま、日が過ぎていくのか、はたまた陛下からの命で決まってしまうのか、私には分からない。
このまま流されたくはなかった。
シュタウフェンベルク伯爵の元で暮らしたい。この人生の最後まで……。
何よりも全く分かっていないのだから、このまま手を拱いているうちに、あの恐ろしい斬首刑が待っている。
日が過ぎているうちに、カールからお茶会に招かれてしまった。
断ろうとしたが、私は直接お断りをする!と決めた。
そして、会うだけでも恐怖が蘇るカールの元へシュタウフェンベルク伯爵夫妻で向かった。
場所の中でも何度も聞かれた。
「大丈夫なのか?」と案じて聞いてくれた。
私は「傍に居て下さるので大丈夫です。」と答えた。
不安げな二人の顔を前にして、満面の笑顔を作った。
「良く来てくれましたね。 ありがとう。」
「御招き頂き恐悦至極に存じます。」
「さぁ、ごゆっくりお過ごし下さいまし。」
「シュタウフェンベルク伯爵、並びに伯爵夫人。
テレーゼ嬢……お会い出来、嬉しい次第です。」
「ありがとう存じます。」
「テレーゼ嬢は御元気でしたか?」
「はい、恙無く暮らしておりました。」
「まぁ、それは良きことでございますね。
伯爵も伯爵夫人もご安堵成されましたことでしょう。」
「はい、なれど……いつまた体調が芳しくなくなるやもしれません。」
「それが、婚約を何方ともなされぬ理由でございますか?」
「はい。」
「発言をお許しいただけますか?」
「まぁ、何でもお話し下さいませ。
堅苦しくお考えになられませぬよう……テレーゼ嬢。」
「ありがとう存じます。
では、私の心を打ち明けます。」
「其方の心を打ち明ける、とな?」
「はい、本心をお話致します。」
その時、エールが運ばれてきた。
「先にエールで喉を潤しましょう。
如何かな? テレーゼ嬢。
其方の本心を聞く前に………。」
「はい。頂きます。」
グラスを手にしてカールが「今日の良き日を迎えられたこととを祝して、乾杯。」と言った。
そして、カールは飲まずにグラスを置いた。
私も飲まずにグラスを置いた。
カールが「テレーゼ嬢、綺麗な花が咲いたのですよ。」と言い、私の手を取って立ち上がらせた。
そして、庭園内のガゼボに座っていたので、ガゼボから出るだけでカールが「綺麗な花」と言った花を見られた。
「美しいですね。」と言うと、カールは「其方の方が美しい。」と心にも無いことをぬけぬけと言う。
私は⦅どの口が!⦆と思いつつ、「ありがとう存じます。」と言うしかない。
ガゼボに戻ると、カールが私の席に置いてあったグラスを手にして一口飲んでしまった。
私が「あっ! それは………。」と言った瞬間のことだった。
カールがエールを吐き出した。
「毒が………。」と言って、苦しそうに吐き出そうとしている。
私は持って来た炭の粉をシュタウフェンベルク伯爵に出すよう頼んだ。
飲んでも違和感を感じなかった公爵夫人のグラスの中にエールは残っている。
そのグラスを手にして炭の粉を入れた。
混ぜないといけない。
持参したマドラーで混ぜた。
そして、カールに「これを飲んでください。お願い致します。」と言った。
カールの声は小さく……ただ一言………「飲ませてくれ。」と………。
「公爵夫人、これは毒を吸収します。ですので、飲んで頂きます。」とだけ言い、答えを待たずにカールの飲ませた。
「カール様、飲んで下さい。」
「…………………。」
⦅…………やはり胃洗浄しか無いのか………。⦆と医師の資格が無い事を悔やんだ。
どんな人物でも目の前で力尽きようとしているのに、救うことが出来ない自分の知識の無さを恨んだ。
カールはベッドに運ばれた。
それから後は、シュタウフェンベルク伯爵夫妻と公爵閣下が帰宅されるまで公爵家で待って居た。
待って居たという自発的なものではない。
毒を飲ませられたカールにテレーゼが炭を飲ませたからだ。
カールの回復がなければ、これが理由で斬首刑になる可能性が高まった。
私はシュタウフェンベルク伯爵夫妻に心から謝罪した。
「申し訳ありません。
私のせいで………私のせいで………刑に処せられたら…………。
ごめんなさい。」
「テレーゼ………良いのだ。其方は悪くない。」
「テレーゼ………泣かないで頂戴。」
優しく伯爵夫人に抱き締められて、私は泣き続けた。
丸一日が経った。
シュタウフェンベルク伯爵夫妻と共に居た部屋に公爵閣下が入って来た。
「此度は、我が家でカールが毒を盛られるという恐ろしいことが起きた。
その毒はテレーゼ嬢を狙ったものだということだけは分かっている。」
「カール様は! カール様のお具合は?」
「テレーゼ嬢、案じてくれているのだな。ありがとう。
シュタウフェンベルク伯爵夫妻、そしてテレーゼ嬢。
カールが目を覚ましたよ。
目を覚まして直ぐに用を足した。」
「あぁ………良かった。
お父様、カール様が用を足されたと……。
もし、黒い排泄物だったら、毒を吸着して便として体内から出ている可能性もあ
りますわ。」
「テレーゼ! 閣下の御前だぞ。」
「あ…………申し訳ございません。」
「良い良い。黒い便か………カールもそのように言うておった。
そうか毒は身体から出たのだな。」
「あ……………確実という訳ではございません。
ただ暫くの間、この炭の粉をエールに混ぜてお飲み頂くと良いかもしれませ
ん。」
「分かった。頂こう。」
毒が入っていたら味が変わるようだ。
無味無臭の毒ではないようだ。
今回のことで私が知り得たことだ。
上水道に使っている水は大きな湖から勾配をつけてなgしているが、その湖からの最初の水路に水が流れ込む場所に大量の炭を置いて居る。
炭が流れ出ないように柵を作り、それに炭を入れた麻袋を括りつけている。
下水道にも炭を入れている。
それらは粉末の炭ではない。
いつか、エールではなく水を飲み水に出来れば成功だ。
エール……ビールの一種。水は飲めないほど綺麗ではなかったので、ビールよりアルコールが低いエールを水の代わりに老若男女問わず飲んでいた。




