選ぶ者、選ばれる者
補償審査が始まってから、町の空気は少しずつ変わった。
水門の前に立つ人々の顔から、諦めの影が薄れていた。失われた部品の数が確認され、農地ごとの損害が記録され、誰がどの工事を担当していたのかが表にまとめられていく。まだ返ってきていないものは多かったが、少なくとも、被害が誰かの都合で消されることはなくなった。
工房では、朝から晩まで修理の音が響いていた。
マルタは回収された弁の検査を行い、ニコは納品記録を二重に写している。双子は新しい部品棚を組み立て、壊れた荷車の車輪まで直していた。忙しさは以前と変わらない。けれど、誰か一人の判断に全員が従うのではなく、仕事は細かく分けられ、確認の印が三つずつ必要になった。
リゼットは作業台の上で、小さな調整ねじを磨いていた。
そのとき、工房の扉が開いた。
入ってきたのは、王都の紋章が刻まれた制服を着た役人だった。手には封蝋の押された筒がある。
「水路監督官エドガル・ハルトをお探しです」
「こちらです」
エドガルは奥の机で図面を見ていた。役人から筒を受け取ると、封を切り、紙を広げる。
リゼットは手を止めた。
「何かありましたか」
「王都からの辞令だ」
エドガルは淡々と言ったが、紙を持つ指がわずかに強くなった。
「水利監督局の副官に任命された。来月から王都勤務だそうだ」
工房の音が一斉に途切れた。
マルタが顔を上げ、ニコが持っていた鉛筆を落とす。双子は組み立て途中の棚を挟んで、互いの顔を見た。
王都の副官。誰もが知る、安定した地位と高い給与だった。エドガルが長年積み重ねてきた仕事に対する、当然の評価でもある。
「おめでとうございます」
リゼットは言った。
声は、自分で思っていたよりも平らだった。
エドガルは彼女を見た。
「君はそう言うと思った」
「断る理由はありません。あなたの働きが認められたのですから」
「君は?」
「私ですか」
「私が王都へ行ったら、工房はどうする」
リゼットは磨いていたねじを布の上へ置いた。
「続けます。補償審査も、新しい水門の計画も、まだ途中です。ここを必要とする人がいる限り、私は仕事を続けます」
「そうか」
エドガルは辞令へ視線を落とした。
リゼットはその横顔を見ながら、胸の奥に沈んだ重さを感じていた。彼が王都へ行けば、今までのように隣の机で図面を広げることはできない。夕方、水路を歩きながらその日の判断を話すこともなくなる。
けれど、だからといって引き留めてはいけない。
誰かの選択を、自分の不安で狭めたくなかった。
「王都で働けば、より多くの水路を直せます」
リゼットは続けた。
「こちらで得た経験を、広い場所で役立てられるでしょう。あなたが望むなら、行くべきです」
「君は、私が望んでいると思うのか」
「分かりません」
正直に答えると、エドガルは少しだけ目を細めた。
「なら、決めつけないでくれ」
「決めつけているつもりはありません」
「君はいつも、私が正しい選択をすることを期待している」
その言葉は穏やかだったが、リゼットの胸に鋭く刺さった。
「違います。あなたの人生を、私が選べると思っていないだけです」
「それは私も同じだ」
エドガルは辞令を机へ置いた。
「君が工房を続けるか、王都へ行くか、誰と働くか。私が決めることではない。だが、君の隣で働きたいと思うことまで、隠す必要はないだろう」
工房の奥で、誰かが息をのんだ。
リゼットは彼を見つめた。エドガルの表情は、いつものように落ち着いていた。けれど、その声には仕事の報告にはない揺らぎがあった。
「私は、あなたを必要としているから隣にいてほしいのではありません」
「分かっている」
「あなたがいなくても、工房は続けます」
「それも分かっている」
「それでも?」
「ああ」
エドガルは一歩近づいた。
「君が一人で立てるからこそ、私は君と並んで歩きたい。君を守るためでも、君に選ばせるためでもない。私自身が、君と同じ計画を選びたい」
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
リゼットは修復した道具から聞こえる声を思い出した。果たされなかった約束は、いつも短い言葉で残る。待っている。戻ってきて。守ってほしい。
けれど今、目の前にあるのは道具の記憶ではなかった。エドガル自身の意志だった。
「王都の辞令を断るのですか」
「すぐには決めない。条件を交渉する」
「条件?」
「この町の新しい水門網を完成させるまで、ここで働く許可を得る。その後は、監督官の職を辞める」
リゼットは驚いて目を見開いた。
「辞めて、何をするのですか」
「君の工房と対等に契約できる水利設計所を作る」
エドガルは図面を指した。
「監督する側と修理する側が、同じ机で計画を立てられる仕組みだ。君が身分や家名に頼らず働けるように、私も肩書に頼らない仕事を選ぶ」
それは、簡単な道ではなかった。王都で得られる地位も、安定も、手放すことになる。
だからこそ、リゼットはすぐに答えを返せなかった。
エドガルはしばらく黙ったあと、懐から小さな箱を取り出した。蓋を開けると、銀色の細い指輪が入っている。飾り気のない輪の内側に、水門の刻印があった。
「これは?」
「職人街の銀細工師に頼んだ。急がせたつもりはなかったが、完成が早かった」
「ずいぶん準備がいいのですね」
「準備しなければ、君には伝わらないと思った」
リゼットは思わず笑った。
「何をですか」
エドガルは指輪を手に取り、まっすぐ彼女を見る。
「リゼット。私と結婚してほしい」
工房の誰かが小さく咳き込んだ。
リゼットは指輪ではなく、エドガルの目を見た。
「私は男爵令嬢ではありません。家も、あなたを出世させる後ろ盾もない」
「望んでいない」
「工房をやめるつもりもありません。あなたの仕事に合わせて暮らすつもりもない」
「私も、君に合わせさせるつもりはない」
「意見が合わないときは、また別々に調べます」
「そのあとで、同じ机に戻る」
リゼットの目に、熱いものが滲んだ。
「私は、あなたを選びます。けれど、あなたのために自分を変えるのではありません」
「それでいい」
「あなたも、私を選ぶのですか」
「何度でも」
エドガルが差し出した指輪を、リゼットは受け取った。
銀の輪は、手のひらの中で静かに光った。壊れた道具の声は聞こえない。代わりに、工房の外から町の音が届いていた。水路を流れる水。荷車の軋み。誰かの笑い声。まだ途中にある仕事を知らせる、確かな生活の音。
リゼットは指輪を左手にはめた。
「では、最初の共同計画を始めましょう」
「結婚の返事が、それか」
「結婚も仕事も、途中で放り出さない約束です」
エドガルは、ようやく笑った。
「承知した」
机の上には、これから作る水門網の白紙の図面が広がっていた。
二人は並んで椅子に座り、最初の線を引き始めた。選ぶことも、選ばれることも、誰かに運命を委ねることではない。自分の足で立ったまま、同じ未来へ向かう相手を決めることなのだと、リゼットは思った。




