守りたいのは工房だけではない
翌朝、組合の倉庫には鍵が三つ掛かっていた。
ひとつは水利組合長ヴァルドの管理する大扉の鍵。ひとつは役所が保管する封印鍵。そして最後のひとつは、倉庫番の老人が首から下げている予備鍵だった。
リゼットとエドガルが倉庫へ着くと、扉の前にはヴァルドが立っていた。
「何の用だ」
「部品の納品記録と現物を照合します」
リゼットが答えると、ヴァルドは鼻で笑った。
「工房の娘が、組合の倉庫を勝手に調べるつもりか」
「役所からの調査許可があります」
エドガルが書面を示す。
ヴァルドはそれを一瞥しただけで、腕を組んだ。
「調査など必要ない。先日の騒ぎで、工房の信用は失われた。職人たちも同じだ。水利組合に関わる資格を取り上げる」
リゼットの背後で、工房から来た職人たちが息を呑んだ。
鍛冶師のマルタ。帳簿を預かる見習いのニコ。荷運びを手伝う双子の兄弟。彼らは皆、リゼットの工房が共同事業になってから、わずかながらも安定した賃金を得ていた。
「私の資格だけを問題にしてください」
リゼットは一歩前へ出た。
「彼らは関係ありません」
「関係がない? 君の名で集められた者たちだ。君が責任を取れぬなら、全員を解雇する」
ヴァルドの言葉に、マルタが拳を握った。
「私たちは、誰かに雇われているだけの飾りではありません」
「黙れ。仕事を失いたくなければ、工房から離れろ」
空気が凍った。
リゼットは自分の胸の奥に、古い感覚が戻ってくるのを覚えた。前世、工房を守るために一人で納期を抱え、誰にも助けを求めず、最後には修理を誤った。あのときも、手を止めればすべてが崩れると思っていた。
だから今回も、同じように考えた。
自分が責任を負えばいい。自分が工房を閉じれば、彼らは巻き込まれずに済む。
「分かりました」
リゼットは静かに言った。
「工房の契約を私個人の責任に戻します。職人たちの雇用は――」
「リゼット」
エドガルの声が、言葉を遮った。
低い声だった。怒鳴ってはいない。それでも、彼女の足をその場に留めた。
「それは守ることではない」
「でも、私が責任を負えば、彼らは――」
「彼らの意思を奪うことになる」
リゼットは振り返った。
マルタがこちらを見ていた。ニコも、双子も、誰も逃げようとしていない。
「あなたは一人で工房を守れると思っている」
エドガルは続けた。
「だが、工房は建物でも、契約書でもない。働く人間の集まりだ。君が一人で責任を背負えば、彼らは守られるのではなく、戦う場所を失う」
「私は、皆を危険にさらしたくないのです」
「危険を引き受けるかどうかは、彼ら自身が決めることだ」
厳しい言葉だった。
けれど、彼が彼女の代わりに決めようとしていないことだけは分かった。
マルタが前へ出た。
「私は残ります」
彼女はヴァルドをまっすぐに見た。
「この工房で働くのは、リゼット様に拾われたからだけではありません。自分で作った部品が水門を動かし、人の暮らしを支えている。それが誇りだからです」
「私も残ります」
ニコが声を上げた。
「帳簿の書き方を教えてもらいました。改ざんされた記録を見つける仕事は、僕にできます」
双子も頷いた。
「荷車の跡なら覚えています」
「どの倉庫へ何を運んだか、二人で話せます」
リゼットは息を詰めた。
自分が守らなければと思っていたものが、すでに自分の手だけで支えられているのではないと、初めてはっきり感じた。
「……分かりました」
彼女は皆に向き直った。
「では、私一人の責任にはしません。調査記録は全員で確認し、契約上の責任も分担します。誰か一人を切り捨てて工房を残すことはしない」
「勝手に決めるな!」
ヴァルドが怒鳴った。
「組合の規則では、雇用を停止する権限は組合長にある!」
「停止の理由と対象者を記録してください」
エドガルが帳面を開いた。
「規則第十七条には、組合長の判断に異議を申し立てる場合、職人の署名を添えて審査を請求できるとある」
ヴァルドの顔色が変わった。
「そんな細則を……」
「あなたが作った規則です」
リゼットは言った。
マルタたちが順に署名する。震える手もあった。けれど、一人も筆を置かなかった。
そのとき、倉庫番の老人が予備鍵を取り出した。
「調査許可があるなら、開けるのが決まりだ」
ヴァルドが止めようとしたが、エドガルが扉の前に立った。
鍵が回り、重い扉が軋む。
内部には水門用の歯車、弁の部品、封印された木箱が積まれていた。ニコが納品帳を開き、双子が荷札を確認する。マルタは部品の刻印を照らし合わせた。
仕事が始まると、誰もが自分の役割を知っていた。
リゼットはその光景を見つめ、胸の内でほどけていくものを感じていた。
自立とは、誰にも頼らないことではない。
互いの力を認め、必要なときに手を差し出し、差し出された手を拒まないことなのだ。
夕方、倉庫の奥から、帳簿にない部品箱が見つかった。箱の底には、例の黒い印が押されている。
エドガルが封を確認し、リゼットが蓋に触れた。
冷たい金属の奥から、かすかな声がした。
「届かなかった分を、別の名で埋めろ」
短い言葉だった。
リゼットはすぐに皆へ告げなかった。まず聞き取った内容を書き、聞き間違いの可能性を横に記した。
「声がしたのですか」
ニコが尋ねる。
「ええ。でも、声だけでは決めません。箱の番号、帳簿、印、運んだ人の証言を全部照合します」
マルタが頷いた。
「それが、私たちのやり方ですね」
「そうです」
リゼットは箱の隣に、共同調査の印を置いた。
倉庫を出るころには、空が暗くなっていた。エドガルが彼女の隣を歩く。
「さっきは、止めてくれてありがとう」
「君が一人で抱え込む顔をしていたから」
「そんな顔が分かるのですか」
「長く見ている」
何気ない言葉に、リゼットの歩みが少しだけ乱れた。
「私も、あなたが一人で責任を負おうとするときは止めます」
「頼む」
二人の後ろでは、職人たちが見つけた箱を運んでいる。
工房へ戻る灯りは、いつもより多かった。机も、手も、声も一つではない。
リゼットは扉を開けながら思った。
守りたいのは、工房だけではない。
ここで働く人々が、自分の名で立ち、自分の意思で未来を選べる場所。そのためにこそ、彼女は皆と並んで戦うのだ。




