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壊れた水門時計が、私たちの約束を鳴らすまで  作者: 銀細工ナギ


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13/20

優しい言葉の買収

 工房の契約が登録された翌朝、王都から来たという身なりのよい男が、磨かれた馬車から降りた。


 男はセドリックと名乗った。かつてリゼットの婚約者だった商会員である。


「久しぶりだね、リゼット」


 彼は昔と変わらない柔らかな笑みを浮かべた。けれど、その笑みを見た瞬間、リゼットの指先は無意識に工具箱の留め金を探していた。


「何の用かしら」


「そんなに警戒しなくてもいい。今日は君に、よい知らせを持ってきたんだ」


 セドリックは工房を見回した。新しく設置された棚、作業台、壁に並ぶ修理記録。町の職人たちが働く姿を見て、感心したように頷く。


「立派になったね。君がここまでやれるとは思っていなかった」


「用件を聞いているのだけれど」


「相変わらず率直だな」


 彼は苦笑し、封蝋の押された書類を取り出した。


「王都の水利局が、修復技術者を探している。君の名前を推薦しておいた。正式に採用されれば、家名の失墜も帳消しになる。専用の工房と住居が与えられ、王都の貴族たちにも顔が利くようになるだろう」


 工房の中にいた若い職人が、手を止めた。


 リゼットは書類を受け取らなかった。


「私を推薦した見返りは?」


「見返りなどと言うほどのものではないよ」


 セドリックは大げさに手を振った。


「この工房で作った設計図と修理記録を、私の商会に譲ってほしい。王都で君の技術を広めるためだ。商会が販売と管理を引き受ければ、君は面倒な帳簿や交渉から解放される」


「つまり、工房の成果を商会のものにするのね」


「言い方が厳しいな。君は王都で名誉ある仕事に就ける。ここで町人相手に細々と修理を続けるより、ずっと君のためになる」


 優しい言葉だった。


 家名を取り戻せる。面倒から解放される。才能を正しく評価してもらえる。


 どれも、以前のリゼットなら縋りついたかもしれない言葉だった。没落した家を救い、見下されない場所へ戻り、誰かに価値を認めてもらう。そのためなら、何を差し出してもよいと思っていた時期がある。


 だが、今の工房には、失敗した部品を何度も削り直す職人がいる。水路の記録を読み解く農夫がいる。報酬の少ない仕事でも、次の季節を守るために手を動かす人々がいる。


 その成果を、誰かの名前の下へ隠すことはできなかった。


「お断りします」


 セドリックの笑みがわずかに固まった。


「まだ条件を詳しく話していないよ」


「条件は十分に分かりました。設計図と記録を商会へ譲るなら、それは推薦ではなく買収です」


「買収だなんて、穏やかではないな。君の生活をよくするための提案だ」


「私の生活を決めるのは、私です」


 その言葉に、エドガルが帳簿から顔を上げた。けれど、口を挟もうとはしなかった。


 リゼットはそれに気づいた。彼は助けるために言葉を重ねるのではなく、彼女自身の返事を待っている。


「君は、この町に縛られているだけだ」


 セドリックは声を低くした。


「水利組合との契約も、監督官との共同事業も、いつまで続くか分からない。ヴァルドが失脚すれば、組合は君を守らなくなる。エドガル君だって、役所の都合で別の場所へ移されるかもしれない」


 エドガルの名が出たとき、工房の空気が少し硬くなった。


「だから、私にあなたの商会へ頼れと言うの?」


「頼るというより、現実的な選択だよ。君ひとりで工房を背負えるのかい」


「ひとりではありません」


 リゼットは作業台の周りを見た。


「ここには働く人がいて、依頼する人がいて、記録を確認する人がいる。エドガルに頼りきるつもりもないわ」


 エドガルが静かに彼女を見る。


「私の人生を、彼に預けるつもりもありません」


 言葉が落ちたあと、胸の奥に小さな痛みが走った。誤解されたくないと思った。けれど、誤解を恐れて本心を隠すこともできなかった。


「私は、誰かの婚約者や、誰かの保護を受ける令嬢として生きたいのではない。自分の手で直し、自分の判断で契約を結び、自分の名前で責任を負いたいの」


 セドリックはしばらく黙っていた。


「ずいぶん強くなったね」


「強くなったのではなく、選べるようになっただけです」


「王都へ行けば、もっと多くを選べる」


「商会に権利を渡さなければ選べない場所なら、私は行きません」


 彼は書類をしまい、ため息をついた。


「後悔するよ」


「後悔しない選択をするのではなく、後悔したときに直せる選択をします」


 修復職人だった前世の記憶が、手のひらに蘇った。壊れた道具は、元の形に戻るとは限らない。傷跡が残ることもある。それでも、使う人が諦めなければ、別の形で役に立てる。


 セドリックは工房を出る前に、エドガルへ視線を向けた。


「君は彼女を王都へ行かせたほうがいい。ここに留めておけば、彼女の才能を狭い町に閉じ込めることになる」


「決めるのはリゼットだ」


 エドガルは短く答えた。


「私は、彼女の決定を監督する立場にはない」


 その返事に、セドリックは肩をすくめた。


「相変わらず融通が利かないな」


「責任のない親切よりは、ましだろう」


 セドリックは何も言い返さず、馬車へ戻っていった。


 扉が閉まると、工房にいた職人たちが一斉に息を吐いた。


「王都の仕事、もったいなくはないのですか」


 若い職人が尋ねた。


「もったいないと思うわ」


 リゼットは正直に答えた。


「でも、もったいないからという理由だけで、誰かに自分の仕事を渡すことはできない」


 エドガルが帳簿を閉じた。


「君は、私にも頼らないと言った」


「ええ」


「それでいい」


 思いがけない言葉に、リゼットは彼を見た。


「ただし、頼らないことと、共に働かないことは違う。君が自分の人生を選ぶなら、私はその選択を尊重する。私の人生も、私が選ぶ」


「あなたは何を選ぶの?」


 エドガルは少し考えた。


「今日のところは、南門の記録を整理することだ」


「それだけ?」


「それ以上は、まだ決めていない」


 彼の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


 リゼットも笑った。優しい言葉は、ときに鎖になる。けれど、選ぶ権利を互いに返し合う言葉なら、それは人を自由にする。


 工房の窓から、午後の光が差し込んでいた。


 リゼットは新しい帳簿を開き、最初の頁に記した。


 王都からの申し出を断る。工房の設計と記録は、働く者と町の共有財産とする。


 その隣に、エドガルが検査日を書き込んだ。


 二人の名前は、今日も同じ紙の上にあった。


 けれど今度は、どちらかがどちらかを支えるためではない。


 それぞれが自分の足で立ち、同じ方向を選んだ証として、そこに並んでいた。

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