優しい言葉の買収
工房の契約が登録された翌朝、王都から来たという身なりのよい男が、磨かれた馬車から降りた。
男はセドリックと名乗った。かつてリゼットの婚約者だった商会員である。
「久しぶりだね、リゼット」
彼は昔と変わらない柔らかな笑みを浮かべた。けれど、その笑みを見た瞬間、リゼットの指先は無意識に工具箱の留め金を探していた。
「何の用かしら」
「そんなに警戒しなくてもいい。今日は君に、よい知らせを持ってきたんだ」
セドリックは工房を見回した。新しく設置された棚、作業台、壁に並ぶ修理記録。町の職人たちが働く姿を見て、感心したように頷く。
「立派になったね。君がここまでやれるとは思っていなかった」
「用件を聞いているのだけれど」
「相変わらず率直だな」
彼は苦笑し、封蝋の押された書類を取り出した。
「王都の水利局が、修復技術者を探している。君の名前を推薦しておいた。正式に採用されれば、家名の失墜も帳消しになる。専用の工房と住居が与えられ、王都の貴族たちにも顔が利くようになるだろう」
工房の中にいた若い職人が、手を止めた。
リゼットは書類を受け取らなかった。
「私を推薦した見返りは?」
「見返りなどと言うほどのものではないよ」
セドリックは大げさに手を振った。
「この工房で作った設計図と修理記録を、私の商会に譲ってほしい。王都で君の技術を広めるためだ。商会が販売と管理を引き受ければ、君は面倒な帳簿や交渉から解放される」
「つまり、工房の成果を商会のものにするのね」
「言い方が厳しいな。君は王都で名誉ある仕事に就ける。ここで町人相手に細々と修理を続けるより、ずっと君のためになる」
優しい言葉だった。
家名を取り戻せる。面倒から解放される。才能を正しく評価してもらえる。
どれも、以前のリゼットなら縋りついたかもしれない言葉だった。没落した家を救い、見下されない場所へ戻り、誰かに価値を認めてもらう。そのためなら、何を差し出してもよいと思っていた時期がある。
だが、今の工房には、失敗した部品を何度も削り直す職人がいる。水路の記録を読み解く農夫がいる。報酬の少ない仕事でも、次の季節を守るために手を動かす人々がいる。
その成果を、誰かの名前の下へ隠すことはできなかった。
「お断りします」
セドリックの笑みがわずかに固まった。
「まだ条件を詳しく話していないよ」
「条件は十分に分かりました。設計図と記録を商会へ譲るなら、それは推薦ではなく買収です」
「買収だなんて、穏やかではないな。君の生活をよくするための提案だ」
「私の生活を決めるのは、私です」
その言葉に、エドガルが帳簿から顔を上げた。けれど、口を挟もうとはしなかった。
リゼットはそれに気づいた。彼は助けるために言葉を重ねるのではなく、彼女自身の返事を待っている。
「君は、この町に縛られているだけだ」
セドリックは声を低くした。
「水利組合との契約も、監督官との共同事業も、いつまで続くか分からない。ヴァルドが失脚すれば、組合は君を守らなくなる。エドガル君だって、役所の都合で別の場所へ移されるかもしれない」
エドガルの名が出たとき、工房の空気が少し硬くなった。
「だから、私にあなたの商会へ頼れと言うの?」
「頼るというより、現実的な選択だよ。君ひとりで工房を背負えるのかい」
「ひとりではありません」
リゼットは作業台の周りを見た。
「ここには働く人がいて、依頼する人がいて、記録を確認する人がいる。エドガルに頼りきるつもりもないわ」
エドガルが静かに彼女を見る。
「私の人生を、彼に預けるつもりもありません」
言葉が落ちたあと、胸の奥に小さな痛みが走った。誤解されたくないと思った。けれど、誤解を恐れて本心を隠すこともできなかった。
「私は、誰かの婚約者や、誰かの保護を受ける令嬢として生きたいのではない。自分の手で直し、自分の判断で契約を結び、自分の名前で責任を負いたいの」
セドリックはしばらく黙っていた。
「ずいぶん強くなったね」
「強くなったのではなく、選べるようになっただけです」
「王都へ行けば、もっと多くを選べる」
「商会に権利を渡さなければ選べない場所なら、私は行きません」
彼は書類をしまい、ため息をついた。
「後悔するよ」
「後悔しない選択をするのではなく、後悔したときに直せる選択をします」
修復職人だった前世の記憶が、手のひらに蘇った。壊れた道具は、元の形に戻るとは限らない。傷跡が残ることもある。それでも、使う人が諦めなければ、別の形で役に立てる。
セドリックは工房を出る前に、エドガルへ視線を向けた。
「君は彼女を王都へ行かせたほうがいい。ここに留めておけば、彼女の才能を狭い町に閉じ込めることになる」
「決めるのはリゼットだ」
エドガルは短く答えた。
「私は、彼女の決定を監督する立場にはない」
その返事に、セドリックは肩をすくめた。
「相変わらず融通が利かないな」
「責任のない親切よりは、ましだろう」
セドリックは何も言い返さず、馬車へ戻っていった。
扉が閉まると、工房にいた職人たちが一斉に息を吐いた。
「王都の仕事、もったいなくはないのですか」
若い職人が尋ねた。
「もったいないと思うわ」
リゼットは正直に答えた。
「でも、もったいないからという理由だけで、誰かに自分の仕事を渡すことはできない」
エドガルが帳簿を閉じた。
「君は、私にも頼らないと言った」
「ええ」
「それでいい」
思いがけない言葉に、リゼットは彼を見た。
「ただし、頼らないことと、共に働かないことは違う。君が自分の人生を選ぶなら、私はその選択を尊重する。私の人生も、私が選ぶ」
「あなたは何を選ぶの?」
エドガルは少し考えた。
「今日のところは、南門の記録を整理することだ」
「それだけ?」
「それ以上は、まだ決めていない」
彼の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
リゼットも笑った。優しい言葉は、ときに鎖になる。けれど、選ぶ権利を互いに返し合う言葉なら、それは人を自由にする。
工房の窓から、午後の光が差し込んでいた。
リゼットは新しい帳簿を開き、最初の頁に記した。
王都からの申し出を断る。工房の設計と記録は、働く者と町の共有財産とする。
その隣に、エドガルが検査日を書き込んだ。
二人の名前は、今日も同じ紙の上にあった。
けれど今度は、どちらかがどちらかを支えるためではない。
それぞれが自分の足で立ち、同じ方向を選んだ証として、そこに並んでいた。




