第二十六声「そして、こうも言うそうですよ。待てば海路の日和ありと!」
半壊する武舞台。削られた石床の破片が飛び散り、もうもうと粉煙が立ち上る。観覧席はどよめきに包まれている。
魔王も目を凝らして、存在証明の気配を探った。
姫君はまだ生きている。ジェオンも同様だ。
ただし、心魂の損耗が激しい。気力体力だけの問題ではなく、擦り減っているのは、魂そのもの。
「心を削ぐ闘いか。根本的には至極真っ当な戦略ではあるがな」
「ほほほ。狙いは正確に的を射たのでしょうが、いかんせん傷を負いすぎましたな。ジェオンが心を削がれておらなんだら八つ裂きでしたぞ?」
「だが、結果は視ての通りだ」
もうもうとした塵煙が晴れる。両手を大きく広げて微笑む小さな王女。
王女の肩口には牙、腹部と背部には左右の爪。確かに凶器は肉に食い込み紅河を作り出してはいるが、どれもが驚くほどに浅い。
「あなたも本当に優しい方ですねジェオンさん」
声音は掠れるが、ルインは平静通りに言葉をかけた。
「ご自身の自尊心が傷つかないように守るために力を誇示し、確固たる地位を確立された。並大抵の覚悟ではなかったのでしょうね」
「やめろ」
「あなたを慕うもの、あなたが守るべきものが増えて、より大きな力や地位を得るために嫌われ、憎まれるを恐れず邁進する姿勢を魔王様も評価されているのでしょう」
「だまれ……」
牙と爪が僅かに沈む。
ルインは奥歯を噛みしめながらも、微笑を絶やさない。
それどころか白磁の細腕を獅子の貌に回し、頭を撫でてやる。
動物扱いなどではなく、幼子の、子供の、家族の頑張りを認めるように。優しく、穏やかで、しっかりとした手つきだ。
「愛する方を認識しつつも、それを振り払い本心に蓋をする。それでも求めずにはいられないから傷つける。誰でもありません。あなたが傷つけていたのは、常にあなた自身なのですから」
「やめろぉっ!」
爪が一層深く潜る。あと、ほんの僅かでも指先、爪の先端が動くだけで王女の重要臓器など紙屑同然に破れるのだ。
「どうしましたジェオンさん……あなたの勝利は目前なのです。留まる理由などありはしないでしょう?」
心の震えを指先に伝わらぬように、腕を指を硬直させる。
獣人にも理由はわからない。
自らの心中を勝手に判ったつもりでいる生意気な小娘など。
いや。
判ったのだ。
この世で初めて、知られた人間。
主君たる魔王や賢才魔女にもおそらく悟られてはいない深い場所を。
己でさえ目を向けないようにしていた、隠された心の秘密の部屋。
部屋の隅の、埃を被った箱の奥に隠されたもの。
獣人の、本心だ。
自身でさえも気付かない、気付かない振りをしていた感情を完全に明るみに出した眼前の小娘。少女は、未だに微笑んでいた。
「お前は」
「どうですかジェオンさん。初めて向き合うご自身の心根は? 思っているよりも痛くて恥ずかしくて、温かくて苦しいけど、悪くはないものでしょう?」
ジェオンは後退るように王女より距離を取った。同時に引き抜かれる牙と爪。圧迫されていた傷口より吹き出す血滝は粗末なお仕着せを、首元のストールを真紅のドレスに仕立てていく。
「さぁ……本番はここからですわよジェオンさん」
王女の手に銀扇はない。血濡れのストールを素振りして感触を確認するのみだ。
「そんな体で何ができる!? 闘いはオレの勝ちだ。諦めて舞台を降りな!」
「お断りします。わたくしはまだ負けておりませんし、いくらでも舞えますわ」
「強がるな。もう立って、喋くってるだけでイッパイイッパイだろが!」
「大いなる誤解にして、致命的な勘違いですね。それともジェオンさんが怖いのですか? こんな手負いの、しかも可憐な美王女に攻撃するのが?」
ふらつきながらもルインは笑顔を崩さなかった。
「優しくしてやればつけ上がりやがって! そんなに死にてぇか小娘!」
「王の娘として生まれ、物心ついた頃より死ぬことなど怖れたことはただの一度もありません!」
強い口調に獣人の方がたじろいでしまう。
「そんなことよりも優しくするお相手が全く以て違うことに、いい加減お気づきあそばしたらどうですか!?」
獣人の脳裏に浮かぶ一人の女の姿。呪いに肌を蝕まれて、下女・娼婦の立場にあっても腐らず、前を向いて生きている女が向けてくれる笑顔。
「ご自身の気持ちから逃げる負け犬ごときに、魔王国の清掃担当ルインが負けるはずがありませんわ!」
頭が沸騰した。
最速で最大威力の突進をジェオンは反射で行う。身が沈んだのが見えたから、では思考すらできない刹那。
両脚の爪が地面を抉る。蹴りだした瞬間には血染めの王女の姿は真っ赤な視界で覆われた。
「!!?」
「兵も恋も拙速を尊ぶと言いますが、たまには待つことも必要ですよ!」
ジェオンの視界は真っ赤に染まる。
王女を引き裂いたからではない。なにかが顔に、目を覆い隠しているのだ。鉄錆の、血のべったりと着いた布のようなもの。
「そして、こうも言うそうですよ。待てば海路の日和ありと!」
突進に備えたルインは瞬時に脱力して仰向けになる。
突き抜けた獣人の股の間をくぐり、手を伸ばす。掴んだのは鉄のように硬い尾だ。
「お覚悟を!」
んあっ……と大きく口を開いたルインは獣人の尾を思うさま奥歯の餌食とする。
響き渡る、魔王国が幹部の悲鳴・絶叫・嗚咽。
爪が武舞台を破壊し尽くし、暴れ尽くし、瓦礫の山を生み出した。
何度も打ち付けられようとも、ルインは噛み締める奥歯を緩めることはない。
本気で身の危機を感じ取った獣人の、降伏宣言ととれる言葉を受けてようやく王女は口を開いて、立ち上がった。
観覧席は唖然とし、沈黙に包まれる。
魔王は堪えきれずに、声を上げて歓喜の笑い声を上げてから
「正しき力は魔王国が清掃担当大臣のルインネイス王女だ」宣言する。
王女は真紅のドレスを身に纏い、高らかに拳を掲げてから地へと突っ伏した。




