寵愛の造形(2)
産まれてきた嘉孝は、大人から見ても聡明な子だった。幼い頃から言い付けは必ず守り、物腰も同年の子と比べて遥かに落ち着いていた。だからといって人情の薄い冷徹な子に育つこともなく、友人を気遣うことのできる心優しい子であると、小学校の職員の間でも好評だと耳にしている。
嘉孝は今春で最高学年になる。学校だけでは満足のいく教育を受けされないと考えたため、二年ほど前から市内で一番の塾へと通わせている。そこでの成績も卓抜したもので、このときばかりは心の底から夫に感謝したものである。
ここ最近、口調が夫に似てきているところが気になるが、それは息子の品行方正さを鑑みれば十分に目を瞑れるものだった。
出産や育児の想い出が走馬灯のような勢いをもって良子の脳裏を奔り、追想に耽っていた意識は大きな環を描いて現在へと接合した。
片手に掃除機を持ち直し、良子は書斎を後にする。階段を下りてその裏側にある収納に掃除機を仕舞い、リビングに取って返して時計を見上げたと同時に、キッチンの炊飯機から電子音が鳴った。
今日は塾が早く終わる曜日であるから、もうそろそろ嘉孝が帰ってきてもいい時間である。最近は住宅地を野良犬が徘徊しているという物騒な噂もあり、良子はキッチンとリビングを忙しなく行き来しながら息子の帰宅を待った。
彼女の杞憂はそれだけではなかった。
近頃、息子が落ち着きを欠いて座り悪そうにしている場面を見るようになった。こそこそと二階を行き来しているかと思えば、食事中に出し抜けに夫の話題を振ってくることもある。主人は多感な時期だからそっと見守っておいてやれと言っていたが、親心としてはもし悩みがあるのならその深憂の針を取り除いて上げたいと思う。
いや。息子の悩みの種が何であるか、その推測くらい立っている。
エプロンのポケットで揺れた携帯電話を取り出した良子は、ディスプレイに表示された『今日は遅くなる』という短い文章を読んでそう思った。
もう見飽きた夫からの返信を押し潰すようにして携帯電話を折り畳み、キッチンの椅子に座って卓上の料理に目を通した良子は、着火音のような舌打ちをする。
何時からだろうか。
メールの返信が『今日は食べてくる』から『今日は遅くなる』に変化したのは。
取りとめのない些細な変化のように思われるが、良子の女性的嗅覚はこの文章の微細な変容から夫に情婦ができたことを嗅ぎ取っていた。
今更そのようなことで嫉妬をするほど夫との関係は温暖ではない。良子が苛立っているのは、それが嘉孝の悩みの原因になっているということであった。
きっと嘉孝は図鑑などを借りに書斎へ行ったときにでも、夫の淫蕩の証拠を見つけてしまったのだ。そうでなければ、大人よりも物腰が落ち着いていた嘉孝がああも不可解な挙動を取るようになった説明がつかない。
どうしよう。嘉孝のためにならないのなら、夫との離婚も考えなければならない。
文字通り頭を抱えた良子は、玄関先から聞こえた開錠の音に飛び上がらんばかりの驚きを示した。が、すぐに息子が帰宅してきたのだと理解し、玄関まで出迎えに向かった。
出迎えに現れた良子を見た嘉孝は、青ざめた顔になり子犬のように萎縮して良子から目を逸らす。これだ、と良子は思う。以前は帰宅してもこのようなビクついた態度を取ることはなかった。
「お帰りなさい」
良子が柔和な表情で言うと、嘉孝はやや緊張を孕んだ声で、「ただいま」と口にした。
「ご飯、もう出来てるから早く食べちゃいなさい」
「分かった」
そう短く答えて階段を上がっていく息子を見送り、良子はキッチンに戻って炊き上がった白米を茶碗によそう。二人分の茶碗を食卓に並べ着席した良子は、目の前の卓に広がった夕食を眺め、これらの料理の正体に息子は気付いているのだろうかと改めて考えてみた。
ここにあるほぼすべての料理が購買品であると直接告げたことはないけれど、聡い息子のことだから薄々は感づいていると思う。それでも毎食、愚痴の一つも言わず食している息子の姿は、思い返してみると不気味でもある。いや、嘉孝が生まれたときからこの食卓は完成していたのだから、息子にとってはこの風景が通常であるのだ。息子にとっての家庭料理とは、惣菜や冷凍食品のことを指すのだ。
そんなことより――と、良子は夫との離縁について今一度思索を巡らせる。
幼少期の環境が成人してからの人間性や能力の形成に密接に関係すると、この前隣家の奥さんが立ち話をしていたときに口にしていた。一家の大黒柱でもある父親の不貞を知ってしまうことは、どれほど影響を与えるものなのだろう。嘉孝の将来を思えば家庭の後ろ暗いところは早いうちに排除するのが適切なのかもしれない。しかし、離婚すること自体も悪影響を与えてしまうのではないだろうか?
良子は、父親の浮気と父親との離縁を天秤に載せる。左右の天秤皿は均整が保たれ、どちらにも傾倒しない。正解はないということなのだろうか?
息子の未来について、あれやこれやと考えを回らせていた良子は、その本人がなかなか下りてこないことを不審に思う。今しがた息子のことを考えていたこともあり、底知れない杞憂が募り始めた良子は矢も盾もたまらず様子を見に行くことにした。
重い足取りで階段を半分ほど上がっていくと、二階からどたばたと慌ただしい足音が聞こえた。息子が何かしているのだろうか? 怪訝に思いつつ良子は上階へ到達する。それと同時に扉が閉まる音がして書斎から嘉孝が現れた。
「あら、何か本でも返しに行ってたの?」
書斎の扉の前でもじもじとしている嘉孝に良子は訊ねた。
「うん、ちょっと」
煮え切らない返答をした嘉孝は、追及を恐れるようにして良子の横を通り抜けて階下へと向かっていった。その対応に拭えない不安を抱きながら、良子も階段を下りていく。
「いただきます」
食卓に着いた嘉孝は、隙間なく両手を合わせて礼儀正しく食事の挨拶を述べてから箸を料理に付けた。一縷の隙もないほど洗練された息子の箸運びに、やはりこの子には後ろめたいものを抱えて欲しくないと良子は静々と思う。
塾の授業の進行具合や学校での話を聞きながら、ふと思い立った良子は、「美味しい?」と嘉孝に訊ねた。それは、息子が料理の正体を見抜いているのか試そうとした他意のある問いではなく、純粋に今食べているものが美味しいか、という意味合いで訊ねたのだが、その問いを受けた嘉孝は緩やかな川流れのように動かしていた箸をぴたりと停めた。
数秒の間、嘉孝は良子の瞳を見つめ、やがて口内で咀嚼されていたものを音もなく飲みこんでから微笑を浮かべた。
「うん、美味しいよ」
その返答を聞いてから、良子は自分が何気なくしてしまった質問の意味を知り、息子はどのような心境で返答したのかを想像して心を痛めた。
息子は、すべてを知りながらも私のことを気遣ってあのように言ったのだ。たとえそれが何の手も加わっていない料理だったとしても、母親が用意してくれたものにケチを付けるようなことをこの子は嘘でも口にできなかったのだ。
良子は息子の優しさに密かに打ち震える。そして、惣菜を嚥下するその胸では、夫と別れる決意を着々と固め始めていた。
料理を不貞の証拠に見立て、それを糾弾するようにして強く箸で摘まむ。騒ぎ立つ弁論に耳を貸さず、口のなかに放り込んで噛み潰す。耳の奥で鳴る不快な咀嚼音をいち早く遠ざけるため、ほとんど丸のみの形で胃の腑へと突き落す。その作業をルーチンワークのように淡々とこなしていく。同情や憐憫などの感情は決して挟んではいけない。ただ機械のように不合を探して処理していく。淡々と、淡々と――。
「お母さん?」
息子の声で良子はハッと我に返った。
「顔色悪いけど……大丈夫?」
本心から心配している様子を湛えた顔で嘉孝は言った。
「大丈夫。ちょっと疲れているだけ」
そう言ってみたはいいものの冷徹な塊が胸中をいまだに占領しており、良子は言葉に感情をこめることができなかった。
「そう、体に気を付けてね」
察しの良い嘉孝は母の機嫌がどことなく悪いことを見取ったのか、箸のペースを上げてさっさと食事を終えた。再び両の手の平を合わせ、「ごちそうさま」と呟いて椅子から立った。
後味の悪さを感じた良子はキッチンから立ち去ろうとする嘉孝に、「お風呂もう沸いてるからね」と、せめてもの気遣いを口にした。
嘉孝はキッチンとリビングを繋ぐ敷居を跨いだところで振り返る。ぼんやりと灯った白熱灯がその表情を靄のように薄曇らせ、どことない陰りを持たせていた。
「うん、分かった」
顔に掛かった靄を払うような清涼な声を残し、嘉孝は自室へと向かっていった。
どんな些細なことにも律儀に対応してくれるあの子にも、そのうち反抗期というものが来てしまうだろうか。汚い言葉遣いで私を忌み嫌う日が来てしまうだろうか。
息子のことを思えば思うほど胸で様々な憂慮が渦を巻き、器官の内壁を削り、組織をこそぎ落とし、細胞を分断する。この内側からの侵食に気付くことができるのは、世界中を探しても自分だけ。その自分ですら、虫歯のようにじんわりと拡張する内傷にいつの間にか慣れてしまい痛覚を鈍麻させる。そして痛みに気付いたときには、もう手遅れになってしまっている。
良子は先ほど嘉孝が座っていた席を見つめ、そっと胸に手を当ててみる。
呼吸とともに僅かに持ち上がる乳房。手の平に神経を集中させてみれば、微かに拍動を感じることができる。その奥に痛みはまだない。それは、本当に痛みがないだけなのか、痛みに飼い慣らされてしまい無痛であると錯覚してしまっているのか。
良子は胸から手を離し、食べかけの料理が乗った皿を持ってシンクへ向かう。嘉孝の皿は綺麗だが、自分と夫の皿にはまだ料理が食べられることを待っている。
良子はその待ち望んでいる料理たちを臆面もなく三角コーナーに捨てる。そうすることが贖罪であるかのように、そうすることで目を背けるかのように、そうすれば何もかも洗い流せるかのように。
すべての料理を処理し食器を洗い終えた良子は、卓上を軽く水拭きする。そして、畳んでおいた洗濯物をタンスへと仕舞うためキッチンからリビングへと移動する。
薄暗いリビングに明かりを灯すと、ヒノキ材のフローリングに敷かれたベルギー製絨毯の柄が複雑な波紋のように浮かび上がる。
四〇インチの薄型テレビ。調度品がまとめておかれた丸机。黒光りした革張りのソファー。どれも買ったときは真新しく胸躍らせる物品であったはずだが、今では遊び飽きた玩具のように感じられた。
良子は洗濯物を置いた個所に向かったが、そこに洗濯物はなかった。
瞬きの間だけ良子の頭のなかを間隙が満たしたが、すぐに息子が片付けてくれたのだと知れる。そしてその息子の優しさは、良子が親元を離れてから弛まぬように張っていた神経の糸を切断する最後の刃となった。
良子の全身は熱湯に通されたかのようにさっと熱を帯びた。全身を隈なく廻る血液は激しく膨縮する心臓で加熱されて血管へと吐き出され、熱湯のような刺激を伴いながら再び全身を巡っていく。一巡するごとに体温が一度上昇する。血管の内壁が灼熱に焼かれたかのように痺れだし、沸点に達した血液は生臭い蒸気を発しながら脳へと流れ込む。突如として襲ってきた血生臭さに脳は金切り声のような叫びを上げる。絶叫は頭蓋で増幅され、頭痛となって彼女に襲いかかった。
もしかしたら、息子に指摘された通り本当に体調が悪いのかも知れない。
そう思えば思うほど関節は鈍く痛みだし全身に重みが増す。今日はいろいろなことを考えすぎて知恵熱でも出たのだろう。良子は痛むこめかみを撫でながらそう臆断し、仮眠を取るため覚束ない足取りで自室へ向かう。その際にキッチンとリビングの明かりを落とすのを忘れなかったのは主婦の哀しい習性と言えるかもしれない。
普段、階段の昇降の際に感じていた膝の痛みは火傷のような関節痛に暈かされていて知覚されなかった。それでも、いつにも増して階段を上るのに良子は苦労した。何度か段差に足を取られながらやっとの思いで二階へ到着する。肺から出る吐息は熱風となり喉を焼き爛れさせて外気に吐き出される。意識の手綱を握りしめていないと今にも気を失いそうであった。床の冷たさと息子の優しさだけが現状の彼女を支えていた。
体当たりをするようにして寝室の扉を開け、その勢いを殺さずに良子はベッドの上へと倒れ込む。燃えるような体内と隙間なく全身を覆った汗は、地獄にある大釜で溺れているかのようなイメージを寄越した。良子は朦朧としながら額に浮き出した玉のような汗を手の甲で拭い、その手を力なく放り出す。
こんな不作法な寝方ではシーツに皺が付いてしまう。あと、汗の臭いも。
どうでもいい心配事ばかりが蒸された頭を過ぎり、彼女は早く眠りに落ちて楽になることを切に願った。その願いは半ば叶えられ、半ば裏切られた。体温の上昇に耐え切れなくなった脳が危険を察知して意図的に意識を落とし、彼女は眠るようにして気絶した。
鼓膜を殴りつけられたかのような激音により、昏睡していた良子は覚醒した。
樹液の風呂に浸かったかのように体中が粘ついていたが、燃え上がるような体温は大分鎮まっていた。
良子は熱でぼやけた頭を振り、サイドテーブルにあるデジタル時計をのぞく。そこにはデジタル特有の簡潔な文字表記で、03:09と示されていた。
上体を起こしてシーツに手をやると、自分が寝ていた場所だけ豪雨に振られたかのように濡れそぼっていた。渇いた喉を潤すため部屋から出ようとして、サイドテーブルに置かれたガラスの灰皿に吸い殻が残っているのが目に付いた。
この灰皿は昼間の掃除のときに綺麗にしたはずである。どうやら熱でうなされていた間に夫が帰ってきてここで一服したようだ。
熱で苦しんでいた私の姿を眺めながら……。
沸々と湧き立つ夫への怒りを押し殺し、良子はその灰皿を持って寝室の扉にそっと手を掛ける。灰皿からこぼれ落ちた吸い殻が濃紺の絨毯に降り落ちて汚れてしまう。そのようなことなど意に介さず、夫は書斎にこもって何らかの作業にでも勤しんでいるのだろうか? それとも不貞の証拠を隠しているのか? と彼女は思考して、音が鳴らないよう慎重に扉を開いた。
深夜の冷気が戸の隙間からこぼれ出す。それを吸い込みながら手にした灰皿に力をこめ、彼女は部屋から廊下へと素早く移動した。
書斎の扉は閉じられていて明かりが灯っている様子もなかった。夫は一階で酒でも呑んでいるのだろうか? 良子は足音を殺して廊下を進み一階をのぞき込んだが、そこにも明かりが点いている気配はなかった。
なにか――変だ。
良子はようやく、夜気に紛れて家内で充溢している不穏な空気を嗅ぎ取ることができた。しかしその正体は一向に分からず、焦燥と不安が綯い交ぜになった重油のような気持ち悪さだけが胸に溜まっていく。夫の名を呼んでみようかと思い立ったが、深夜という時間帯を慮った彼女の良識がそれをさせなかった。
冷たい廊下を行きつ戻りつしていると、ほんの微かな呻き声が夜気の隙間を縫って彼女の鼓膜を振動させた。
その微音が契機となって、物思いに耽る余裕を彼女に与える。
私が目覚める切欠になった、あの、鼓膜を叩かれたかのような音は夢のなかで聞いたものだったのだろうか?
再び聞こえてきた呻き声を耳でたどると、それは夫の書斎から洩れ出ているようだった。先ほどまで怒りをこめて握りしめていた灰皿を、まるで心の拠り所であるかのように胸に抱いて良子は書斎へと爪先を向ける。
冷たいドアノブに手を添えて、戦々恐々としながら扉を開く。
開かれた先の光景を観た彼女の胸に、底知れない安堵が宿った。
訪れるたびに感じていた居心地の悪さが、現在の書斎から一切取り払われていた。
あれほどまで歪であった空間が、今では統一性を持って目の前に広がっている。その理由は一目瞭然で、瓦解間近であった書籍棚から各種の書籍が吐瀉物のように床中に吐き出され、小奇麗に片付いていたはずの作業机の周辺を押し潰すようにして部屋全体へと雪崩れているのであった。
窓から射し込んだ月明かりによってほんのり青く照らし出されたその室内は、雪崩を催した雪山にも見え、良子はときめきすら覚えたが、三度目の呻き声ですぐに正気を取り戻した。
呻吟の声は次第に力を失っているようだった。声を頼りにして薄暗い室内を進んでいく。床に散らばった書籍に躓きそうになりながら、一段と本が雪崩れている書き物机へと行き着く。呻き声はその周辺から出ていた。持っていた灰皿を床に置き、五冊ほどその山から本を取り去ると、厖大な本に埋没していた夫の顔が姿を現した。
良子は自分が決行しようとしていた悪辣な行為も忘れて取り乱した。夫に覆いかぶさった書籍を次々退かしていき、やっと上半身が姿を見せて安心し掛けた矢先であった。
己の手を粘質な液体が濡らしていることに気付き、その液体は本が除かれたことで床中に広がり始めていることを知った。
書籍による箍が外れた血溜まりは、彼女が履いている靴下を汚して床を蝕むようにして拡がっていく。
――お母さん。
突然の呼び掛けに、良子の全身の毛穴が申し合わせたかのように拡張した。
「お母さん」
繰り返されたその声が嘉孝のものであると知って肌のざわめきは収まったものの、胸は未だに強張り、喉は凍りついたかのように声を発することができなかった。
「お母さん」
良子は声の出所を探すため、立ち上がって視界の悪い室内をゆっくりと見回す。その間にも自分を呼ぶ声は止まらずに反響を繰り返す。胸で暴れた心臓が今にも口から飛び出してきそうだった。
月光に照らされた室内に散乱する書籍。獰猛な犬が暴れたかのように乱れた書き物机。良子は、月の目を忍ぶようにして陰った部屋の隅に佇んでいる人影を見付けた。
彼女を呼ぶ声はその影が発していた。暗闇に瞳が慣れだして影が少しずつ取れていくと、そこに壊れそうなほどの笑みを浮かべた嘉孝の顔が浮き出した。
「お母さん」
壊れそうなほど幸せな声で嘉孝は良子に言った。
「これでもう、大丈夫だよ」
良子は、散在する書籍の上を覚束ない足取りで進み、部屋の角で置き忘れられた蛹のように佇んでいる息子の元まで歩み寄る。そして微かに震えていた彼の身体に腕を回し、そっと抱き寄せてその身震いを停めた。
彼女の暖かい胸に閉じ込められた嘉孝は、見開いていた目蓋を閉じる。暗転した視界には一筋の光もなく、何もかもが姿を無くしていた。
それでもその場所には、嘉孝がずっと欲しかったものが確かな形を持っていた。彼はそこで静かに眠りに落ち、止まらない時を止めた。




