寵愛の造形(1)
キッチンの一角に設えられた丸椅子に重川良子は腰をかけていた。
齢四十ながらも彼女の面立ちには粛とした少女らしさが残っており、微笑み一つでその年齢は不明瞭なものになってしまうかのような幼さを保っている。しかし、現状の彼女に笑みはなく、窓先に拡がる茜空をぼんやりと見上げて浮いている紫色の雲の数を何ともなしに数えていた。
一つ目の雲は羊が丸まったような形。二つ目は、その羊の行く手を遮るかのように細く薄く伸びた形。三つ目は、地平線の端にまで進行している雲海。
三つの雲が浮く空から彼女は単純な物語を想像する。
あのぽつねんと浮いた羊雲は、柵の先にある草原を目指している。
けれど、行けども行けども草原にたどり着くことはできず、どうしてか柵との距離も詰めることができない。それでも羊はめげることなく離れていく草原を健気に追っていく。地平線に触れた草原はみるみるうちに吸い込まれ、小さくなって消えていってしまった。やがて柵も地平の果てに姿を失くし、今度は自分の番だと思った羊は慌てて足を止めようとしたが、一度速度に乗ってしまった足はもう何ものにも止めることは叶わない。蹄を空に突き立てて留まろうとした試みも虚しく、羊は地平線に落ちて行きその生涯を終えた。
夢想から帰還した良子は、目にも鮮やかだった茜色の空が気付けば墨色に変わっていたことに僅かな驚きを示す。
都心を外れているとはいえ都内であることに変わりのないこの地域の夜空には、街中から吐き出された排気ガスが天頂に薄曇り、星の瞬きは凝視しなければ見られないほど弱弱しいものだった。
良子は体中に散乱していた意識をかき集め、放心から平常へと復帰する。意識が脳髄に集中すると、やらなければならない数々の事柄が途端に脳内の座を占めた。
先ほど買ってきて机の上に置きっぱなしにしてしまっていた食料品を早く冷蔵庫に仕舞わなければならない。夜風で冷えてしまう前に洗濯物を取り込まなければならない。息子が塾から帰って来るまでに夕食を作っておかなければならないし、帰りの遅い夫に今日の晩ご飯はどうするのか確認を取らなければならない。お風呂の準備もまだであるし、そういえば、昼間に掃除をしたとき夫の書斎に掃除機を置きっぱなしにしてしまっている。
急かしてくる数々の予定を順序立てて整列させ、先頭から順に良子はてきぱきとこなしていく。
食料品を冷蔵庫に収め、それを終えると戸棚から無洗米を取り出し軽く洗米してから炊飯機に入れる。スイッチを押しながら片手で携帯電話を操作して『夕ご飯はどうしますか?』という簡素なメールを夫に送信する。流れるようにリビングへ移動し、そこから庭へと下り立って夜気で冷え始めた洗濯物を手早く取り込む。機械的に衣類を畳み、後で片付けることを忘れないように部屋の隅に寄せておく。次は浴室へと向かい給湯器を起動させ、浴槽に湯を張る。
リビングに取って返した良子は、掛け時計で時刻を確認する。息子が帰って来るまであと一時間ほどあり、それだけの時間があるなら夕食を作るのには十分だった。
作る――。
さもあたり前であるかのように内心で呟かれたその言葉に、良子は今更のように違和感を覚える。その理由は模索するまでもなく明らかなもので、彼女の料理を作るという行為は、スーパーで購入してきた惣菜や冷凍食品を盛り付けるだけだからである。
だからといって、彼女は決して料理が作れない訳ではなかった。貞淑な母親によって小学生の時分から各種の料理法を仕込まれており、一通りのものをこなせる自信はある。けれど彼女は料理を『作る』ことを結婚してから止めてしまった。正しくは、夫と籍を入れて一年と六か月経ってから彼女は料理をしなくなった。
念じても止まることのない時計から目を離し、良子はキッチンへと足を向けて冷蔵庫を開ける。なかには、先ほど買ってきた惣菜が詰められた無色透明のプラスチックケースが重ねられて置かれている。戸を開けたと同時に灯った暖色のライトアップによってプラスチックの無機質さが払われているような気にさせられるが、外に出して白々とした電灯の下に晒せば、たちまちそれは無感動で透明な箱になる。
良子はケースにかけられている輪ゴムを外し、中にあるコロッケを慣れた手つきで大皿に並べる。瀟洒な皿に盛ってしまえば、惣菜のコロッケは丹精を籠めて作られたものであるかのように自分でも見誤ってしまう。
毎食感じるその錯覚に陥らないよう良子は、「これは買ってきた食品だ」と心中で自分に言い聞かせて自制を保つ。この呪文によって欺かれることはないものの、それこそが彼女を蝕む要因にもなっていた。
良子は各種の料理を卓上に並べていく。
山盛りの惣菜コロッケ。即席の味噌汁。解凍されて間もない冷凍食品の数々。彼女の手が加わっているものと言えばこれから炊き上がる白米くらいである。
その卓上を見た彼女の情緒は特に動くことはない。これらは自分で作った料理ではないという自覚が、机に食品を並べるという家庭的な動作からも感情を奪い、食卓にさらなる陰りを落としていた。
食卓を無感動に飾り終えた良子は、プラスチックのように無機質な視線を炊飯ジャーへ向ける。蒸気を噴き上げるジャーに表示されている完了の時刻と、息子の帰宅時間を照らし合わせ、ほぼ予定通りに家事を終えられたことを確認する。
息子の帰宅まで一息吐こうかと考えたところで、夫の書斎に残している掃除機のことを思い出し、椅子に下ろしかけていた腰を止めて二階にある書斎へと向かった。
リビングから板張りの廊下に出、玄関前にある階段に足をかける。
階段を上がる際、膝に襲ってくる鈍い痛みに彼女はどうしても自分の老いを実感してしまう。足を持ち上げる動作にも疲労を覚え、脇にある木製の手摺りにそっと手を添えて脚にかかる負担を少しでも減らすように努める。
二十段の段差を上ると、それを祝う和太鼓のような動悸が心臓を中心にして全身に拡がった。良子は壁に手を付いて呼吸を整える。まだ四十路だというのにこれほどまで体力は衰えてしまうものなのだろうか。彼女にとって体力の衰退は、年々目立ってくる顔のシワと同じくらい屈辱的な老化の証拠だった。
憎しみをもって熱のある吐息を噛み締めて、肉体の衰退に抗うようにして廊下の先へと進んでいく。突き当りに息子の部屋があり、左手に夫婦の寝室、目的の書斎は右手にある。
良子は、もう何年も共にされていないダブルベッドが虚しく設置されている寝室を一瞥してから書斎の扉を開けた。
そこは、利用者の心象を現出させたかのような不均一な部屋だった。
一見すると、掃除の必要性を疑ってしまうほど埃一つの存在も許されていない。右手の窓から取り入れられた陽光がフローリングで反射し、陰りを取り払うかのように部屋中を満たしている。奥部で構えているマホガニー材の書き物机の上には、作業用のラップトップや英和辞典、英字の書籍などが庭師に整備されたかのように置かれており、小奇麗な印象を抱く。
だが、掃除のためにこの書斎を訪れる良子は、決まって居心地の悪さを感じる。
その心因は見るも明らかで、部屋にある壁という壁を隈なく覆った書籍棚の雑駁とした収納ぶりが、整然とした他所との対比によって何とも歪にゆがんで映るのであった。
天井に密着するほどの高さを持った書籍棚は、本来の間取りより手狭に見させる効果も買っており、土砂崩れ寸前の崖の手前にいるかのような緊張感と圧迫感を与えてくる。
通例通りの心地悪さを覚えながら、良子は視線で掃除機の行方を探す。掃除機は飽和状態まで押し詰められた書籍棚の前に放り出されていた。
掃除機のもとまで歩み寄ったところで、ただならぬ予感に襲われた彼女はふいに顔を上げる。目前には厖大な量の書籍。彼女が感じたものとは、これから行う動作が水面下を維持している書籍棚の拮抗を崩してしまうのではないかという予感だった。
その予感は決して信憑性の欠けたものではなかった。今まで全壊はなかったものの小規模な崩落は幾度かあり、その度に夫に小言を口にして危険を喚起していたのだが一向に改善される様子はなかった。夫は所有物の移動を何よりも嫌うため勝手に整頓することもできず、良子も匙を投げたのであった。
もしこの量の書籍が一斉に落下してきたら一溜りもないだろう。本に埋もれて息もできず窒息して命を失くしてしまうという死に様は、本の虫なら嬉々として受け入れる死に方なのかも知れないが、長らく読書から離れている良子にとってその魅力は、大通りを行き交う自動車の車種ほど理解し難かった。
いつ何時崩落してきても回避できるよう身構えながら、良子は中腰になって掃除機に手をやる。五年前に購入したこの掃除機も、最近吸い込みが悪くなってきた。そろそろ買い替え時なのかもしれない。どうやって夫から購入費を頂戴しようか思索しつつ、書籍棚に視線を流す。
書籍棚にある大半の書物は、私立大学で教授の任に就いている夫の専門分野である熱力学を中心とした専門書である。他に並んでいるものは物理や化学の専門書、天文学や微生物学といった畑違いの分野への入門書、著名な哲学書、生物図鑑といった堅苦しいものばかりで、娯楽小説の類いは一切置かれていない。
眺めていると息が詰まってしまう本棚を前にして、良子は夫と出会った十三年前のことを思い出していた。
当時は准教授であった夫との出会いを運命と名付けてしまうほどのロマンチシズムを良子は持ち合わせていない。実験機器の販売を主とする会社に勤めていた彼女は都内の各大学を営業で回ることが多かった。そのため、大学の教職員と接触する機会も一般人より遥かにあった。平均的な容姿を持っていた良子は化粧をするとそれなりの見目を有することができ、それもあってか声を掛けてくる教職員も少なくなかった。その一人に現在の夫が含まれていたというだけの話であった。
食事に誘われ、愛好する小説家が一緒だったことで意気投合し、思ったより会話が弾んだ。それから数度の逢瀬を重ねた末にプロポーズされた。十二歳も年上の男性との婚姻に躊躇いを覚えなかったと言えば嘘になるが、あと三年で三十路という転換期を迎える自分の年齢や彼の将来性などを慮って求婚を受けることにした。
仕事が忙しいという理由で式は挙げなかった。良子もそのことについては賛成だった。自身の仕事も軌道に乗ってきたところであったし、純白のドレスや華やかな結婚式に夢を抱く乙女心は、とうの昔に夜空の果てまで放っていた。子どもをつくることについても互いに同意見で、もう少し機会を待ってからにしようというものだった。
だからといって夫婦間の営みがなかったという訳でもなく、冷めているように見えてそれなりに良好な関係であったと良子は思っていた。
しかし、その微温湯のように心地良い日々も、結婚から半年後、夫が教授へと肩書を変えたとともに終わりを告げた。
会議とゼミが毎日のようにあり、懇意にしている教授たちや共同研究先の企業との会食も頻繁にあり、帰りは決まって深夜近かった。休日は大体書斎に籠って授業の資料作りや小テストの採点、自研究室に所属している院生や学部生に与えた課題に赤を入れるという作業に腐心していて、食事も気が向いたら、というライフスタイルを取るようになったので、食卓を共にすることも次第になくなっていった。
当然、良子と顔を合わせる機会は目に見えて減った。姿を見るのは床に入るときだけであり、それも既にどちらか一方が寝入っていることがほとんどだった。
それでも良子は、夫の会食が急遽中止になったときに備えて毎晩夕食を作り、夫から「今晩は食べてくる」という連絡が来るまで食事に手を付けることなく待っていた。それは夫への深愛から来た行為ではなく、旧態依然とした母親から日々言い聞かされていた作法の一つであった。
その習慣を一年間継続させていた良子であったが、ある日、スーパーの惣菜売り場の前を通りかかった際、試食のために手渡された揚げ物が思っていた以上にしっかりとした味であったことに誘惑されてつい購入したことによって、終わりを告げた。
半ば見下してもいた惣菜という食品を購入してしまった彼女は、多少の罪悪感を覚えながらも捨てる訳にもいかないのでその揚げ物を食卓に加えた。すると、それはもう手作りのものと何ら変わりのない料理となってしまったことに、彼女は俄かな驚愕を顕わにした。
久々に会食のなかった夫が卓に着いてその揚げ物を口に運んだとき、彼女はまるで大罪を犯した少女のような心境で夫の咀嚼を見つめ続けていた。
ぐちゃ、ぐちゃ、と歯で擦り潰されていく揚げ物。疲労からか半眼でぼんやりと嚥下した夫の口からこぼれたのは、「美味しいな」という事務的で無味乾燥な言葉だった。
口にしたその揚げ物が購買品であることを看破して欲しかった訳ではなかったが、今まで手塩をかけて作ってきた料理と、一五〇円で購入した揚げ物が夫にとって同価値であったことを知った彼女は、母から教え込まれていた作法や知識はこの家庭では適応されないことを悟り、その翌日からまるで敵陣に伏兵を忍ばせるかのような巧妙さを用いて手料理のなかに惣菜や冷凍食品を仕込み、ときにはコンビニ弁当の中身をそのまま移し替えることもあった。
月が過ぎていく都度その量は秘密裏に増えていき、結婚からちょうど一年半経った頃には、食卓に並べられている料理に彼女の手が加わっているものはなくなっていた。
購買物だらけの食卓を見下ろした良子の脳裏には、離婚という単語が過ぎりもしたが、そのような気は毛ほどもなかった。けれど、このままの状態でいれば夫への関心は次第に薄れていくだろうと、脳裏にいる自分が警鐘を鳴らして訴えかけていた。
良子は夫婦の将来に危機感を覚えた。仲を取り持つためには、何らかの方策を練ることが必定であった。彼女は子どもをつくろうと思った。そうすれば冷めていく夫への想いにも温度が宿ると思った。
妊娠を機縁に良子は六年間勤めていた会社を退職した。夫の収入だけでも生活するには十分であったということもあったが、キャリアウーマンから専業主婦へと転身することで、より一層家庭へと身を費やすことができ、妊娠してもなお解離を止めない夫への気持ちから目を逸らせると思ったからであった。




