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鳩のオリーブと、七色の約束

今回の「せいけん」は、創世記第7章後半から第8章、そして第9章の『虹の契約』までを取り扱います。

ぜひお楽しみください!

夏空に浮かぶ雲がゆっくりと形を変えていく、放課後の教室。エアコンの心地よい冷風が流れる室内で、いつものように三つの机が寄せ合わされていた。


「よし、本日の『せいけん』を始めるよ。ノアの箱舟の物語、後編だ!」

「はーい、吉岡部長! 待ってましたー!」

「おう! 今日も準備万端だぜ!」


「探求者」吉岡郁夫の掛け声に、「観察者」寺脇彩音と「実践者」日向敦希が元気よく応える。彩音の指先で輝くサマーオレンジのネイルと、敦希のたくましい腕。三人の「三つよりの糸」は、すっかり息の合った空気感を漂わせていた。


「前回は、神様の手によって戸が閉ざされ、舵も帆もない箱舟が四十日四十夜の大雨の中に漂い出したところまでを読んだね。今日はその続き、創世記第7章後半から第8章、そして第9章の『虹の契約』までを探求していこう」


郁夫は丁寧に聖書を開き、静かにテキストを追い始めた。


『水は四十日の間、地上に増し続けた。水は激しく増し、箱舟は水の上に高く浮かんだ。……地上で動いていたすべての肉なるものは息絶えた。ノアと、彼と一緒に箱舟にいたものだけが残った』


重々しい沈黙が教室を包み込む。


「水は百五十日の間、地上に増え続けた。……すべてが水没し、自分たち以外に生きているものが誰もいない世界。想像してみてほしい。箱舟の中のノアたちは、どんな気持ちでその百五十日間を過ごしただろうか」


彩音は自分のマイ聖書のページを指でそっとなぞりながら、ふうっと息を吐いた。


「……ウチなら、途中で心が折れちゃうかも。だって外は見渡す限り一面の海でしょ? 音と言ったら波の音と雨の音だけでさ。神様を信じて箱舟に入ったはいいけど、『ウチら、このまま一生陸地に戻れないのかな……』って、めちゃくちゃ不安になると思う」


敦希も胸の前で腕を組み、深くうなずいた。


「俺もそう思うぜ。暗闇と嵐の中で、いつ終わるとも知れない待ち時間を耐えるってのは、肉体的にも精神的にも一番削られるんだよ。ラグビーでもさ、怪我して復帰の目処が立たないリハビリ期間が一番キツい。動けない中で『俺、本当にまたグラウンドに戻れるのかな』って……ノアたちも、まさにその『果てしない焦り』と闘ってたんじゃないか?」


「二人とも、すごくリアルな感情を汲み出してくれるね」

郁夫は嬉しそうに目を見開いた。


「まさにその焦りと孤独の頂点で、聖書はすごく印象的な一文を刻むんだ。第8章の1節だよ」


郁夫は指を添えて読み上げた。


『しかし、神はノアと、箱舟の中に彼と一緒にいたすべての野の獣、すべての家畜を心に留められた。神が地の上に風を吹かせられると、水は退き始めた』


「『神はノアを心に留められた』……。原文のニュアンスでは『神はノアを思い起こされた』『片時も忘れていなかった』という意味なんだ。人間の目には『神様に見捨てられたんじゃないか』と思える暗闇の百五十日間も、神様は箱舟の中の命を一瞬たりとも忘れていなかったんだよ」


「……あ」

彩音の表情がパッとやわらいだ。


「忘れてなかったんだ……神様。放置されてたんじゃなくて、ちゃんと見守られてたんだね」


「そうなんだよ。そして風が吹き、水が少しずつ引き始め、箱舟はアララテの山の上に止まった。ノアは水が引いたかどうかを確かめるために、まず烏(からす)を放ち、次に鳩(はと)を放った。最初は足の休まる場所がなくて戻ってきた鳩が、二回目に放たれたとき、何を持ち帰ったと思う?」


「オリーブの葉っぱ!」彩音が即座に答えた。「平和の象徴のやつだよね!」


「大正解! 鳩は口に『摘みたてのオリーブの葉』をくわえて戻ってきた。ノアはそれを見て、地上の水が引いたことを知ったんだ。そして三回目に放たれた鳩は、もうノアのところへは戻ってこなかった。新しい世界へ飛び立っていったんだよ」


敦希が感心したように太い首を縦に振った。


「鳩が戻ってこなくなった瞬間か……。それって、ただの確認作業じゃなくて、『新しいスタートを切る合図』だったんだな」


「そうだね、日向くん。そして神様はノアに『箱舟から出なさい』と命じられた。ノアはすべての家族と動物たちを連れて外に出て、まず最初に神様に感謝の祭壇を築いたんだ。そこで神様は、ノアとすべての生き物に対して、永遠の約束を結ばれる」


郁夫は第9章を開き、力強い声で朗読した。


『わたしはあなたがたとの間に、わたしの契約を立てる。……二度と大洪水によってすべての肉なるものが滅ぼされることはない。……わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと地との間の契約のしるしである』


「虹……!」彩音の目が輝いた。


「神様は言われたんだ。『わたしが雲を起こし、雲の中に虹が現れるとき、わたしはあなたがたとの契約を思い出す。二度と水がすべてを滅ぼす洪水となることはない』とね。これが有名な『虹の契約』だ」


「うわぁ……なんか、鳥肌立ってきた」

彩音は両手を頬に当て、窓の外の青空を見上げた。


「大雨のあとに空に架かる虹って、昔から奇跡みたいで綺麗だなって思ってたけど……神様の『もう二度と見捨てないよ、二度と滅ぼさないよ』っていう約束のサインだったんだね。サマーオレンジより鮮やかな、最高のプレゼントじゃん」


郁夫は優しく微笑んだ。


「その通りだよ、彩音さん。でもね、ここで僕が一番心を揺さぶられるのは『神様がなぜ虹を空に置いたのか』という理由なんだ」


「理由?」敦希が身を乗り出す。


「雲の中に虹が架かるとき、神様はこう言われているんだ。『わたしがその虹を見て、わたしと生き物との間の永遠の契約を思い出すためだ』ってね。……ねえ、二人とも。虹を見るのは、人間だけじゃないんだよ」


「え……?」彩音が首を傾げた。


「神様ご自身が、空に浮かぶ虹を見上げるんだ。『そうだ、わたしはあの愛おしい人間たちを二度と滅ぼさないと決めたのだ』と、神様ご自身がご自分の約束を思い出すために、空に虹を架けられた。つまり虹は、人間へのメッセージであると同時に、『神様の自分自身への誓い』なんだよ」


教室に、言葉にならない感動の波が静かに広がっていった。


敦希は自分のたくましい両手を見つめ、静かに呟いた。


「神様が、自分で自分に誓いを立てた……か。……なぁ吉岡、それってさ、究極の覚悟だよな」


「覚悟?」


「ああ。俺たちアスリートもそうなんだよ。『チームのために勝つ』って仲間に約束するのも大事だけど、最後の一踏ん張りの場面で自分を支えるのは『俺は逃げない』って自分自身と交わした誓いなんだ。神様は、人間の弱さも失敗も全部知った上で、それでも『二度と滅ぼさない』って自分自身に誓ってくれたんだろ? そんなの……カッコよすぎるだろ」


敦希の熱い言葉に、郁夫は胸が熱くなった。

「実践者」である敦希は、スポーツマンとしての「誓いと覚悟」の重みを通して、神の絶対的な愛の深さを一瞬で見抜いたのだ。


「日向くんの言う通りだよ。人間は相変わらず弱くて、この後もまた過ちを繰り返してしまう。でも、神様はもう二度と洪水で世界を滅ぼさないと決めた。人間の側の出来不出来に関係なく、神様の側が一方的に愛し続けると決めたんだ。それが『恵み』という言葉の本質なんだよ」


彩音は自分のマイ聖書にそっと指を滑らせ、しみじみと言った。


「なんかさ……ノアの箱舟の話って、最初は『世界が滅びる怖い話』だと思ってたけど、全然違ったね」


「どう感じたかい? 副部長」


「暗闇の中でじっと耐える時間も、神様は絶対ウチらを忘れてないし、嵐が過ぎ去ったあとには、神様自身の命がけの約束みたいな虹が架かる。……人間ってさ、どれだけ孤独になっても、本当は一人じゃないんだなって思った」


「……二人とも、本当に素晴らしい探求をありがとう」

郁夫は心からの感謝を込めて、深く頷いた。


「知識を深めるだけの研究なら、僕一人でもできる。でも、彩音さんの豊かな感性と、日向くんの鍛え抜かれた実感があるからこそ、数千年前の古代のテキストが、今ここで僕たちの生きる希望として新しく息吹き返すんだ」


敦希はガハハと爽やかに笑い、太い腕を組んだ。

「よせや吉岡、照れるじゃねえか! でもマジで食らいついて良かったぜ。部活で疲れた頭が、ここに居るとスッキリ冴えわたるんだよな」


「ウチも! 『三つよりの糸』になってから、せいけんが何倍も面白くなった!」

彩音は弾けるような笑顔で、サマーオレンジのネイルを誇らしげに立ててみせた。


放課後の教室に、心地よい夕風が吹き抜けていく。

窓の外を見上げると、夏の夕空が茜色から深い藍色へと美しくグラデーションを描いていた。


たとえ人生にどんな大雨が降り、暗闇の箱舟の中で孤独に震える日があったとしても。

空を見上げれば、そこには神の誓いである虹が架かり、共に語り合える同志たちが隣にいる。


「さあ、本日の『せいけん』はここまで!」

郁夫が静かに聖書を閉じると、パタンという心地よい音が夕闇の中に響いた。


「よし! じゃあ俺はグラウンドに行って、後半の練習に合流してくるぜ! 虹の誓いを胸に、倒れるまで走ってくる!」

「あはは! 日向くん熱すぎ! 熱中症には気をつけてねー!」


賑やかに立ち上がり、それぞれの日常へと戻っていく三人。

その背中に差し込む夕陽は、まるで空からの祝福のように、あたたかく彼らを照らし続けていた。


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