5.出会い
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寄せては返す波のざわめきが耳にくすぐったい。
重い瞼をこじ開けた。
頭がぼうっと霞がかっている。
なんだか、ひどく眠かった。
ここは――おれの車の中ではないか。どうやら運転席で、シートを倒したまま眠っていたようだ。
すぐ起き上がるには気力が足りなさすぎる。身体じゅうの節々が強張っていた。
眼を細め、フロントガラスの向こうを見る。
なんの変哲もない海岸線が水平に広がっているだけだ。白い砂浜には人の姿はない。太陽がはるか沖の上で海上を炙っていて、海が煌めいていた。
左右の車窓に眼をやった。
離れたところに南国を思わせるシュロの木が立ち並んでいる。雲ひとつない快晴が一面を覆っている。
眼下のアスファルトには白線がいくつも引かれている。海のそばの屋外駐車場らしい。
見知らぬ土地だった。難儀しながらリアウインドウをふり返っても、民家はポツポツとしか見当たらない。郊外なのかもしれない。
なぜ、こんなところで眠っていたのか。それとも気を失っていたのか。
ところで、おれは誰なんだ? 車の持ち主であるのはわかるが、肝心のおれというアイデンティティが思い出せない。記憶が穴だらけだ。
グローブボックスには車検証があるはず。
それを出して所有者名と住所を見たが、どちらにも心当たりがなかった。
この胸のざわめきを、どう処理すればいい?
そういえば、さっきまで誰かと生きるか死ぬかの狂態を演じたのではなかったか?
おぼろげな記憶が瘡蓋のように張り付いている。
おれはあのAI医師からおぞましい手術を受けた。あわや記憶を根こそぎ吸い取られる寸前だった。
さんざん掠め取られ、すべてを忘却するすんでのところで医師はクラッシュしたのではないか。
あのあと、おれは意識を失い、医師はどうなったのか知る由もない。
病院側は、秘密を知った患者を隠滅すべく、どこかへ置き去りにしたのだとしたら?
ルームミラーで顔を映した。
頭頂部はちゃんとフタがされ、縫い合わせた痕があった。髪の毛の位置も不自然ではない。雑にガーゼで傷口を拭かれたらしく、血の滲みが残っている。
やはり悪夢のような出来事は本当にあったことなんだ……。診察室ではさんざんAI医師が暴れ回っていた。おれの脳みその表面に埃や異物が混入していなければいいが。
――コンコンコン。
サイドウィンドウをノックする音に、おれはふり向いた。
見知らぬ若い女が背を屈め、のぞき込んでいる。
エンジンをかけ、窓を下ろした。
「なんか用?」
おれはぼんやりした口調で訊いた。
「あなたこそ、こんなところで寝てたでしょ。てっきり死んでるのかと心配してたの」と女は言い、白い歯を見せた。ミディアムヘアの前髪をかき上げると額が露わになった。奇しくもおれと同じ横一線の傷がつき、糸で縫われた痕がついていた。「普段は知らない男の人に、声なんかかけないんだけど、なんとなく放っておけなくて」
「心配してくれてありがとう。ちょっと待って、降りるから。外で話そっか」
「うん」
彼女は後ろ手に手を組み、一歩うしろへ下がった。
おれがドアを開け、車外に出るのを待ってくれた。魅力的な笑顔だった。
ひどく疲れていた。まるで脚から骨が引っこ抜かれたみたいに、降り立つと同時に彼女の方へ倒れかけた。
「危ない」
「ごめん……」
女はおれを抱きとめ、支えてくれた。
危うく二人とも地面に倒れ込むところだった。
女はおれの顔をのぞき込んでくる。
「不思議ね。あなた見てると、なんだか初めてじゃない気がするんだけど」
「おれもそう思う。初対面じゃないよな。どこかで会ったことある?」
「まさかまさかの、古い口説き文句」
「そんなつもりは……。君、名前は?」
「いきなり訊く?」
「心配してくれたんだ。お礼がしたい。教えてくれたっていいだろ」
「花菜っていうの」と、若い女は歌うように言い、唇を尖らせた。「菜の花を、逆から書いて花菜」
「さっそくミツバチが寄り付きそうだ」
「まーた、うまいこと、言っちゃって」
おれたちは見つめ合って、ちょっと笑った。
いつまでも彼女に寄りかかるのは申し訳ない気がして、どうにか自分の脚で立って離れた。
まるでスケートリンクではじめて滑る人のように危なっかしい。
花菜は両腕を差し出し、いつでもおれを支えられるように待ち構えている。
「それはそうと、おれが車の中で眠ってたあいだ、君はどこにいたんだ」
「よく憶えてないの。私も気づいたらこの駐車場にいて。まるっきりスクラップでも不法投棄されたみたい」
「いつから?」
「ほんの20分くらい前。そこの木にもたれかかってた。あんな場所で昼寝した憶え、ないのに」
「こっちも同じ境遇だ。なんでこうも、記憶が曖昧なんだか」
言うそばから、身体がふらついた。
あわてて花菜はおれの腕の中にもぐり込み、肩を担いでくれた。
「やっぱり、あなたの匂い、はじめてじゃない気がする。体臭って意味じゃないよ。ホンワリ懐かしい香り。なんでだろ?」
「おれも言おうと思ってた。君のも、前に嗅いだと思うんだ。とくに髪の匂い」と、おれは花菜の顔を間近に見た。子猫みたいな人懐っこさに、心奪われた。いつまでもこうしていたいと思った。「知ってるか? 匂いで懐かしい記憶が甦ることをプルースト効果っていうんだ」
「その蘊蓄、ずっと前、誰かに訊いた気がする」
「これが馴れ初めになるかもな」
「なにそれ」と、花菜はおどけて頬を膨らませた。「私にはれっきとした旦那さまが……いたんじゃなかったっけ? シングルだったか? あれ、そういえば、指輪もない」
「なら、お近づきのしるしに、まずはおれの車でドライブでも行かないか?」
「……こんなフラフラなのに、大丈夫?」
「ちょっと休めば回復するだろ。このあたりは知らない土地だけど、ナビがあるからなんとかなる。うまいパスタ、食える店でも探そ」
「グイグイ押すねえ」と、花菜はおれの胸を軽く小突いた。「ま、いっか。そのうちなにか思い出すかも」
「おかげで君と出会えた」
「かもね。これでよしとしよう」
砂浜で波が砕ける音がくり返されていた。
だけど、おれたちは夢中になりすぎて、お互いの耳に届かなかった。
忘れてしまったのなら、また築けばいい。それが人間なんだから。
了




