表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【夕刊シチ】デイリー両晋南北朝  作者: ヘツポツ斎
【〇七月】四五一年一二月~四八一年〇五月

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
201/239

【19日 469年01月】明帝針の筵! 北も宮城も

【469年01月】

資治通鑑原文1117文字(305/365位)


【登場人物】

・メインキャスト

 7/1-蕭道成-8/1

 7/5-馮太后-8/10

 7/17-拓跋宏-8/19

・準メインキャスト

 6/27-劉彧-7/22

 7/16-蕭賾-8/14


【あらまし】

 東陽城の陥落により、青州が完全に北魏の手に落ちました。また建康では無能であった明帝の兄を担いでの謀反が立ち上がりかけます。明帝、針のむしろ過ぎます。



【できごと】


 北魏に包囲されている東陽での攻防が続いています。この城の守将は沈文秀。しかし宋の軍事史を語ろうとすると呉興沈氏祭になっていますね。誰が誰やらで混乱しそうです。ひとまずここにいる沈文秀は相当の求心力を持った将であったようで、三年間の防衛戦で装備が痛んだりシラミがわいたりしても、それでも兵らが戦意を阻喪することがなかった、と紹介されます。とは言え、ついに陥落。この時沈文秀はとらえられ、慕容白曜のもとへとひっ立てられると、特に頭を下げようともしません。その理由は「我らともにそれぞれの国の臣であろう」とのこと。その意気に感嘆した慕容白曜は礼遇の上平城に送致しました。平城では献文帝が「北魏を煩わせたこと」を糾弾しますが、やはりここでも動じません。ついには臣下として抱えるに至ります。宋は青州・冀州の地とともに、この名将をも喪失してしまった、というわけです。なおこの戦いのあと、ようやく宋は北魏との国交を正式に開始したそうです。ただし宋書の書き方は「遣使献方物」と、まるで属国からの献上扱いです。そういうとこだぞまじで。


 北魏による南方侵攻も、ここでひと段落です。その作戦を主導した慕容白曜の爵位は王に進められました。その統治は非常に優れたものであり、新たに獲得した国土の民を大いに安んじたそうです。また献文帝はこの兵役のひと段落をきっかけに、租税を見直し、その徴収を緩めました。ここまでに飢饉や干ばつも頻繁に発生していたということですので、新たな国土の獲得はこうした災害で困窮した民の食い扶持を稼ぐ、という意味合いもあったのかもしれません。あわせて沙門統の曇曜が仏寺における貯蓄を状況に応じて民に分配したり、重罪を犯した官吏などを寺院での小間使いとして用いたい、と上奏し、承認されています。この内容からするに、北魏は宋よりもやや寺院と朝廷の距離が近かったのかもしれません。そして、拓跋宏が太子に立てられます。なお資治通鑑には載っていませんが、当たり前のように拓跋宏の生母である李氏は子貴母死の慣例に基づき殺されています。殺す人が違う気もしますが、まぁまぁまぁ。


 さて、宋では明帝の兄、劉禕が謀反を企んでいます。このひとは文帝諸子の中で最も凡庸と評されており、ともなれば劉義宣のごとくおだてられ担がれた、と見なすのが良いのでしょう。目論見はすぐに露見、劉禕も降格ののち追放、そして自殺させられます。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ