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【夕刊シチ】デイリー両晋南北朝  作者: ヘツポツ斎
【〇五月】三九四年〇二月~四二三年〇六月

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123/129

【2日 395年01月】参合陂の悪夢! 後燕斜陽

【395年01月】

資治通鑑原文2201文字(207/365位)


【登場人物】

・メインキャスト

 3/4-慕容垂-5/3

 4/7-拓跋珪-5/17

・準メインキャスト

 3/24-呂光-5/7

 4/3-慕容徳-5/13

 4/9-桓玄-5/11

 4/28-赫連勃勃-6/3

 4/24-姚興-5/25


【あらまし】

 後燕、北魏に侵攻。しかしこの侵攻は空振りに終わるわ、その帰り際、参合陂にて強襲をくらって壊滅するわで、結果として北魏の勢力を一気に伸張させることとなりました。参合陂の戦いです。東晋では孝武帝と司馬道子の兄弟げんかが政争にまで発展しています。どうしようもねえなしかし。



【できごと】


 時代、変わります。後燕と北魏の直接対決。桓温のときと同じように、決定的敗戦が生じた箇所の地名をもってその名が呼ばれます、すなわち参合陂の戦い。既にここまで書いてきた通り後燕と北魏はその拡張路線がバッティングしていました。後燕内部では「戦うべきではない」という声も大きかったのですが、慕容垂としては到底放置できる相手ではありません。ただし、自分はもう満足に動けない。そこで慕容宝を総大将として北魏に攻め込ませます。その補佐に慕容徳、慕容農、慕容麟までつける、完全撃滅体勢です。


 拓跋珪はこの軍容を見てまずは引き、自国内深くにまで後燕軍をおびき寄せました。そして遠征が長引き、後燕兵が疲弊し始めたところで「慕容垂が死んだ」と虚報を流します。既に慕容垂が病を得ていたのは周知のこと、そこにこの虚報です。将兵らは不安に陥りますし、慕容宝と慕容麟が猜疑しあうにまで至ります。これ以上の遠征が不可能だと悟った後燕軍は撤退しますが、このとき既に拓跋珪は後燕軍の退路に自軍を潜ませていました。そして、後燕軍がなんとか参合陂まで無事に逃れて安心しかけたところで、初めて襲撃。十万いたとされる後燕軍は数千騎しか残らないほどの大惨敗を喫しました。ここで拓跋珪は後燕軍の人士のうち才ある者を取り立てようとしましたが、臣下らの「すべて殺すべきである」という声に押され、捕虜すべてを穴埋めで殺しました。


 晋はこの頃から孝武帝と司馬道子の不和が露見しはじめ、孝武帝が名族出身の人士を取り立てれば、それに逆らうように司馬道子は王国宝のほか、家門によらない抜擢人事で周囲を固めます。ちなみに資治通鑑は書いていませんが、司馬道子が用いた人物をあとひとりだけ特記しておきましょう。孫泰。孫恩、この数年後に会稽を中心として乱を立ち上げることになる人物の叔父です。


 西秦はこの年姜乳と言う群雄に翻弄されたり、後涼から臣属を求められたりしてだいぶ屈辱的な期間を送っています。その後涼では禿髪烏孤が将軍として各地を撃破して回り、勢力拡大。こうした内容を見るに、後涼はなんというか、ずいぶん危うい拡張路線をとっていたようです。



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