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【夕刊シチ】デイリー両晋南北朝  作者: ヘツポツ斎
【〇四月】三六五年〇八月~三九四年〇三月

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108/128

【17日 380年10月】嵐の前の静けさ

【380年10月】

資治通鑑原文263文字(358/365位)


【登場人物】

・メインキャスト

 3/4-慕容垂-5/3

 3/15-苻堅-4/22

 3/26-謝安-4/22

 3/29-謝玄-4/25

 4/7-拓跋珪-5/17

・準メインキャスト

 3/17-姚萇-5/1

 3/24-呂光-5/7

 4/3-慕容徳-5/13

 4/9-桓玄-5/11


【あらまし】

 交州、つまり北ベトナムでの反乱が起こった、以外で大きな事件の無い年でした。大きな波が来る前に潮が引く、と言った状態を想起させる、そんな不気味な静けさがあります。



【できごと】


 交州、つまり今で言う北ベトナムあたりで反乱が起きたという話が載ります。「いやそこはベトナム史だろ」と思ってしまうのですが、とは言えこの頃、そのすぐ北にある寧州まで前秦の勢力圏内ですし、北からなんらかの援助をもらって東晋の注意を少しでも南に向けようとした誰かがいた、のかもしれません。もちろんただの反乱だった可能性もあります。

 

 前秦における人事異動の話が書かれます。特に目立つのが都貴を荊州刺史として彭城に、毛当を東豫州刺史として許昌に駐屯させたこと。共に伝統的な州区分から離れています。許昌はむしろ西豫州ですし、彭城に至っては荊州にかすりもしません。この当時の刺史や太守、いわゆる地方長官たちの官位は「征伐した先の土地の責任者」みたいなノリでつけられることも多いのですが、その原則からも離れていて正直よくわかりません。また前秦に囚われていた晋将ら二百人あまりが解放して晋に戻されもしました。とは言え朱序は手放してもらえませんでした。


 対する、晋です。高僧伝を読むと穆帝の時代のあたりから帝室にだいぶ仏教も浸透しているのが見えるのですが、孝武帝の時代になって特にその傾向が甚だしくなった、と紹介されます。宮殿内に寺院を設け、そこに僧侶を住まわせるなどして側近に諫められますが、聞き入れません。資治通鑑は基本的に儒の規範を柱として世界を描きますが、この当時の晋は儒と道と仏がせめぎ合う世界でした。それどころか儒はかなり押し込まれており、こうした部分に太学が上手く機能できなかった背景もありそうです。


 またここで謝安の弟のひとりである謝石が尚書僕射、すなわち宰相格に任じられました。かなり謝氏の勢力が宮中に浸透してきている形です。このあたりについては「謝安の意見を通りやすい体制を組み上げようとした」と考えるのが良いのでしょうか、これだけでの判断は禁物ですけれど。


 そして資治通鑑は、この年、この際だって記述の少ない年に、わざわざ目立つように「日食があった」と紹介しています。まるで何かが起こる予兆であった、とでも言わんばかりに。これ、この先の流れを知っている身とすれば「それはまぁ、確かにそう」としか言いようがありません。まあ、演出と見ておけばいいのかもしれませんけどね。

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