第69話 泣かないで
次の団体と交代するため、客席はしばらく休憩時間となる。その旨の放送が流れると、緞帳の向こうのざわめきがぐっと大きくなった。
すぐ、緞帳のこちら側では里奈がピアノの椅子を持って下手へと消え、愛と千尋はそれぞれ指揮台と譜面台の片付けにかかる。残った5人でピアノを押して、下手へ押し込む。
撤収の準備は、すぐにできた。
「よし、みんな行こう。急いで」
陽和の声に、みな急いで上手へ向かう。別に時間が押しているわけではないが、速やかに交代した方が時間に余裕ができるし遅れが生じにくくなる。やることが済んだ俺たちは足早に去るだけだ。
・・・・・・
上手側の出入口から体育館の外へ出ると、いくつもの楽器と共に器楽部が待機していた。
並んだ器楽部員を見て、思わず目をそらす。その目をそらした先に見えるのは、前を行く7人の合唱部員たちの背中。
これを同じ「ステージ発表団体」とひとくくりにしていいのだろうか……そう思うくらいに、規模が違う。この後器楽部の演奏が始またら、客席のお客さんは「賑やかで文化祭らしくていいね」と思いでもするだろうか。
合唱……これはカラオケで歌ったり口ずさんだりしてみんなが親しんでいるのとは別種の歌。これを合唱関係者以外が聴いて心から楽しめるものだろうか。
……実際人気がないから、新入部員が来ないんだろう。もし人気だったのなら、うちは今頃50人くらいの部員を抱えていてもおかしくないはずだ。
ステージ発表の中で、いちばん退屈だったな――そんな声が勝手に聞こえて、思わず頭を振った。
並んで待機する器楽部の横を、水色のパーカーを着た合唱部員たちが静かに歩いていく。舞台上で妙な不調を起こした愛は琴音に手を添えられて、絵里さんに突っつかれたり、ぽんぽんと肩をたたかれたりしながら力なく歩いてく。
俺は逸らした視線を戻して、器楽部の部員たちの中を探す。素通りなどしない。そこにいるんだろう?
……いた。
短髪でさわやかな表情をしたそいつ。
向こうもこちらを見ていた。互いの眼差しがぴたりと合った。
少しだけ手を挙げうなづいた俺に、同じように手を挙げうなづきを返す明。「お疲れ」「しっかりやれよ」――無音の言葉が交わる。
そうして合唱部は、1日目の舞台から去った。
・・・・・・
「すみません、すみません……」
そう言いながら、床に座り込んで両手で顔を覆う愛。誰の言葉にもただ、首を振るばかり。
舞台が終わって、「多目的室111・112」に戻ってきた途端に、愛は泣き崩れた。
理由は単純明快だった。今日、最初の歌で歌詞を間違え全体を止めかけたのは、愛だったのだ。
異常なまでの不調を起こし、台詞が滅茶苦茶になったのもそのせいだった。
歌うことが専門の合唱部員が本番で歌詞を間違えて、歌が途絶えかける――それは合唱部員としては大失態であり、いったい今まで何を練習してきたんだと非難されても当然のこと。
クラスで歌う学校内の合唱コンクールでも、そんな事はなかなかない。それを合唱部員がやらかすなんて、ありえない。
それをよく分かっているから、愛は誰の声も聞かずひたすら謝り続け泣き止まない。
この後は、ステージ発表が全て終わり昼休みに入るまで軽く練習する予定になっていた。
ただ、この状態では練習のしようがない。いま愛を立たせて列に入れ歌わせても、まずまともに歌えないし、そうかといって愛を外したらメゾが1人だけになってしまう。
それに外された愛がどう感じるかを考えると、外して歌うなどということはできない。
それで練習は取り止めとなった。今日の練習は昼休みの後、部展・クラス展を回れる時間が終わってクラスの点呼が済んでから、放課後の時間に少しだけ――そう決められた。
・・・・・・
愛はその場に座り込んだまま、手で顔を覆って泣き止まない。
その姿はまるで、床に落とされた花瓶のよう。活けられていた花は水に濡れ、バラバラに割れた破片が差し伸べられる手を拒絶する。
いつものやさしい仲間に囲まれているのに、その誰をも寄せ付けない。
そんな愛を見ながら立ったままでいると、ちょんと右肘をつつかれた。
見ると、そば陽和が立っていた。
「……輝、どうしよう」
小声でそう聞く陽和の表情は険しい。
「うん……どうしようかな」
特に利益のない言葉が、交わされる。どうにかしなければならないが、互いにどうすればいいのか考えがない。
「いーんだよ、愛。まだ明日があるんだし。ね」
「すみません……」
何度目か分からない絵里さんのやさしい言葉に、愛は応じない。
だめだな――今の愛は受け入れない。絵里さんがこれだけ声をかけてだめなんだから、だめだ。
……。
じゃあ――
俺は座り込んだ愛の前に、進み出た。
「愛、ちょっと来てもらっていい? 反省点、きちんと確認しよう」
「ちょ、ちょっと待って」
「待って、輝!」
絵里さんと琴音が慌てて止めに入ってくる。
俺は愛がまだ顔を手で覆っているのを見てから、ふたりに向かって小さくうなづいた。
大丈夫、きついことは言わない――そういう意味合いを込めたが、伝わっているだろうか。
「愛、どう? 来ないの?」
そう声をかけると――
「輝、だめ!」
「……はい、行きます」
琴音が重ねて止めに入ろうとしたが、ついに愛は両手の下から、くぐもった小さな声で答えてきた。
両手を顔から離した愛は、泣き腫らした目でこちらを見ながら立ち上がった。
「よし、じゃちょっと外へ来て……1人だけで」
愛は幽霊のように力なくドアの方へ向かって歩き出した。俺もその後に続いていく。
「輝、待って! それはだめ!」
駆け寄ってきた琴音に、がしっと左腕をつかまれた。
……。
振り払おうと思えばできるが……思いがけず強い琴音の力に、振り払うのをためらう。
とりあえず……
「愛、先に出てて」
「はい」
「輝!」
左腕が少し痛かったが、とりあえず愛だけ先に行かせた。愛は白いドアを静かに開いて、ふらりと外へ出るとドアを閉めた。
「琴音、いいから」
「よくない!」
つかまれた左腕が痛む。
俺はそんな琴音に、顔を寄せた。
「……大丈夫、きついことはしないよ。なんとかうまく……うまくやるから」
「うまくやる、って?」
……。
「えっと、その……臨機応変、に? ……絶対、いつも通りに笑わせてから戻る」
「……」
自分で言っておいてなんだけど、頼りない台詞だ。「臨機応変に」って、具体的に何するんだよ。俺もまだ考えてないよ。
つかまれた左腕に、もっと強く力が込められた。
「……本当に? ちゃんと愛をいつも通りにできるの?」
「やる。無理なことはしない。大丈夫」
琴音はつかんだ手にさらに力を込めてくる。
「……お願い、ね。絶対に」
その言葉に、小さくうなづく。
するり、と琴音は手を放した。
「それじゃ……」
みんなに背を向け、愛が待つドア向こうへ。
俺はドアノブに手をかけた。
・・・・・・
外に出ると、愛はドアの陰に隠れるように立っていた。
「行こう」
「はい」
短いやりとりだけで、歩き出すふたり。愛はどこへ行くのか、聞きもしない。
1階の長い廊下を歩いていく。今日この階は関係者以外立入禁止だから、余計な人と出会う心配はない。
……確か、この辺りだったな。
俺が立ち止まると、愛も真後ろでぴたりと止まった。
確かこの辺りが、昨日愛と話した場所。
愛が、つっとひと筋の涙をみせた場所。
振り向くと、今日の愛はぼろぼろに泣いて見る影もない。
「愛――」
「はい」
小さく返事をする愛。
「もし、校内の合唱コンクールで、模範演奏として合唱部が歌ったら――その時、ひとりが歌詞を間違えて歌が完全に止まったら、どう思う?」
「情けないです。模範として歌うくせに、合唱部のくせに、歌詞間違えて止まるなんて。ありえないです、迷惑です。合唱部員の資格がありません」
そう言いながら愛は、ぽろぽろと涙を流す。
……ずいぶん、きつい事を言うな。
「あの、何というかその……もうちょっとこうオブラートに包んで、ね」
「必要ないです」
無慈悲にそう返された。
本人は、自分に言ってるつもりなんだろう。実際、俺がそう解釈するようにミスリードしたんだから。
「あの……今の、俺の話なんだけど。さすがにちょっと傷付くっていうか、何というか」
「輝さんは今日間違えてません。……私をかばうつもりですか」
素っ気ない答え。まだ、気付かないでいる。
気付いても、まだ同じことを俺に言えるか――?
「今日の話じゃくて、俺が中1の時の。校内の合唱コンクールで、合唱部が模範演奏で出て――俺がでかい声で歌詞間違えて、全校生徒の前で歌止まった」
「……」
愛は何も言わなくなった。
そうだ、俺も昔やらかした。あれは冷や汗とかそういうレベルではなかった。世界が終わったと思った。
「で――さっきの台詞、もう一度貰える? オブラートに包んでないやつ」
「……すみません」
愛はようやく気付いて、謝った。俺はこう見えてだいぶ繊細なんだから、もっとやさしくしてくれないとへこたれるぞ。
顔を上げた愛の、涙に濡れたまつ毛。いい顔をしているのに、こんなにして。
「俺は前科一犯。愛も今日で前科一犯。お揃いだよ、喜んで」
「いえ、それは……」
乗ってこない。まだ、打ちひしがれている。
そんな愛に、さらに言葉をかける。
「愛ってさ、俺のこと、好き?」
「へ――?」
・・・・・・
話題の急転換に、さすがに素っ頓狂な声を上げる愛。
歌詞間違いの件はもう片付いたし、もうこれ以上言うことはない。
それより――せっかくふたりきり、誰の耳もない所にいるのだから、聞いてみたい。
「昨日の話的に、愛も俺のこと好きだったのかな、って。どうなの?」
なんだか自意識過剰な奴になってる気がして、自分から言い出したくせに緊張して台詞を噛みそうになる。
愛はしばらく視線を下に向けていたが、やがてそのまま言った。
「はい、好きでした」
そっか。
いつからだろう。俺のどこがよかったんだろう。
「それなら――なにかしてほしいこと、ある? 今なら何でもするよ。なぐさめてほしい、とか、頭なでてほしい、とか」
……。
今、俺はたぶん……いや、間違いなくよくない事をしている。
俺は昨日、もう陽和と互いを受け入れ合ったのに――
「『付き合え』っていうのも……いや、付き合ってほしいって思うなら、俺の方から付き合うけど」
「ちょっと――!」
急に顔を上げた愛のまつ毛から、小さなしずくがいくつか飛んだ。
「二股……いや、最大七股になるのを許してくれれば、ね?」
そう言いながら、陽和の顔が頭にちらつく。
『私はどうしても輝が欲しかったの。だから私は先に手を付けた』
『明日のかおる祭、頑張ろうね。それから――』
『今まで以上に仲良くしよ。ずーっと』
絡ませ合った、互いの小指。結び合った仲。
これは――今しようとしているこれは、裏切り。
でも――みんなの気持ちを知った今、どうしても陽和ひとりだけを見ることができない。陽和だけを見ようとすると、かえって他のみんなの顔がちらつく。
昨日は夜までずっと、そうだった。
うわべだけ取り繕ったとしても、もう気持ちの上では「最大七股」状態なんだろう。ただ、言葉で確かめ合っていないだけで。
甲斐性なしと言われれば……ああ、そうなんだ。実際俺は、初めから甲斐性なしなんだ。だから、他のみんなが気になって陽和ひとりだけを見ることができない。
どうせ気持ちはもう「最大七股」状態なんだ。今の段階で既に、陽和の気持ちを裏切っている。
どうせ、そうなるのなら――
「どう、愛? これなら昨日言った『みんなその気のまま舞台に出られる』ってのも、いけるよ」
「輝さん、だめです。陽和さんをどうするんですか。確かに昨日私たちはショックでしたけど、陽和さんは一番にちゃんと告白して、ちゃんと輝さんと付き合ってるんですよ」
そう言われると、決心がまた鈍るが……
でも、もうアウトだ。
「愛、さっき俺が『俺の方から付き合う』って言った時点で、それはもうダメになってる。愛がどう答えようと、俺が陽和と付き合ってるにも関わらず愛に『付き合う』って言った事実は変わらない。……分かるでしょ?」
「……そう、ですね」
分かってくれた。愛の頭の回転の速さには、いつも助けられる。
「実は昨日から、みんなのことが頭から離れない。結局、俺はそういう奴なんだよな」
昨日までは俺も知らなかった。そういう奴だったって。
「それを知って嫌いになるならそれもいい。けど、もし嫌いにならないでいてくれるなら――『最大七股』にして、今はみんな同じラインに立とうよ。今までより、ひとつ先のラインに」
「すみません、答えられないです」
そう言いつつも、愛はまっすぐに俺を見ている。
「……考えます。また後で、ふたりで話す時間がほしいです」
……そうか。
そうだな、それがいいだろう。
「分かった。そうする。そちらから声をかけて。いつでもいい」
さて――
「それで、話を戻すけど。歌詞の件、ね――」
「はい」
ぐっと表情を険しくする愛。
……そんなにしなくていい。
「まず、気にはしなくていい。愛は十分反省しているし、なによりみんなが怒ってない。あんなに愛のことを心配してたんだ」
「はい」
愛の返事は素早く、明瞭だ。
そう、こういうのがいつもの愛だ。
まだ目が腫れて、涙の痕が幾筋も見えるけれど。
それでも、いつも通りの受け答えに戻ってくれている。
「間違えた歌詞は、今日中にきっちり確認して。でないと明日、たぶん同じところで怖くなる。それ以外は確認しなくていい。ただいつも通りに歌うだけでいいよ」
「……どうしてですか? 他も間違えるかもしれません。今日の反省の意味も込めて、ひと通りは確認すべきとだ思いますが」
今日の反省……なんだか懲罰的な意味が込められてる気がするけど。
「いい。現に今日、あの1ヶ所以外は間違えなかった。問題なく歌えてたんだ。それに次の本番までもう24時間もない。今から頑張っても……その頑張る時間が、もうないでしょ」
「……そうですね。分かりました、そうします」
はっきりと答える愛。いい答えだ。
「……どうする? もう戻る? まだ一緒にいる?」
もう少し落ち着いていさせたいが、部屋に残ったみんなも心配しているだろう。時間がかかればかかるほど、みんなの不安は増していく。早めに戻りたい。
「輝さんだけ、先に戻っててください。私、たぶん顔ひどいので。みんなの前、出られないです。もう少しましな顔になったら戻ります」
愛の泣き腫らした顔は、まだ元に戻っていない。確かにみんなにはあんまり見られたくないだろう。
でも……その下の表情は、もういつもみたいにいい感じ。
「分かった、先に戻ってる。……ハンカチ貸す?」
「持ってます、そんな輝さんみたいにガサツじゃないです」
「え、どこがガサツ?」
「いっつも同じハンカチじゃないですか。洗ってないでしょう?」
……。
「どうして分かった?」
「分かりますよ」
ふたりで顔を見合わせて、声を出して笑う。
やっぱりこうしている時が、いちばん楽しい。
愛は好きなだけ笑ってから、まっすぐに俺の顔を見た。
「輝さん、今日はありがとうございました。おかげでなんとかなりそうです」
そう言って、少しはにかむ。
「……私がこんな顔で話せるの、輝さんだけです。光栄に思ってくださいね」




