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第68話 終わった

 目がくらみそうなほどの光の中へ、足を踏み入れた。

 光の中でいちど目を閉じてから、客席を向く。


 辺りは真っ白、そしてその向こうは何も見えない。


 少し会場にざわつきが感じられるので、何もせずそのまま待つ。静かに、静かに……


 ……。


 足を肩幅に開き、つま先から腹部までを土台としどっしりと。バランスは前後左右均等、ぴたりと真ん中に。その上に胸・肩・首・頭を静かに乗せる。どこにも力は入れない。


 音を立てぬようゆっくり息を吐いて――


・・・・・・


 どん、と腹の底に当たるような目一杯のブレス。

 いまマイクは切れているはずだ、リハーサルで俺が言った通りに。


 行くぞ――



  う さ ぎ お い し  か の や ま



 出だしは、よし。特に飾らない、素朴な合唱の声を歌に乗せて。


 ただ、初めの方にある低い音は響きづらいので、正直つらい。せっかく吸った息が会場にばらまかれてしまう。誤解を恐れずにいうと、「燃費が悪い」。

 今回この歌は、強弱を基本的につけないことにしてある。この広さの体育館、音楽ホールでないこの会場でマイクを切っての演奏――純粋な俺の声だけではたぶん強弱をつけるのは無理だ。


 歌は、先へ――



  こ ぶ な つ り し  か の か わ



 反響は――会場の壁からの反響は?


 ……わからない。感じられない。俺の声は、響いていないのか?



  ゆ め は い ま も  め ぐ り て


   わ す れ が た き  ふ る さ と



 これで1番は終わり。すぐ2番へ。

 指揮者はいない、伴奏者もいない。他の仲間(メンバー)も、ここに立っていない。全ては、俺の裁量次第――



  い か に い ま す  ち ち は は


   つ つ が な し や  と も が き



 1番とは少し雰囲気を変えて、あえて声の震わせ(ビブラート)を多用しながら単調に聞こえないよう努める。ビブラートは昔から好きでよくやっていた。やや演技派なこの歌い方に、ようやく身体が目を覚まし歌に力を添え始めた。



  あ め に か ぜ に  つ け て も


   お も い い づ る  ふ る さ と ……



 ――!


 息が続かなかった――

 フレーズの最後が、しぼむように消えた。つい調子に乗って、後で使う分まで途中で出してしまった。


 いやいい、もういい。忘れろ。まだ3番が残ってる。


 カラになった身体に、目一杯のブレスで息を満たす。3番、ここが一番負担がかかる。



  こ こ ろ ざ し を  は た し て


   い つ の ひ に か  か へ ら ん



 これで最後。壮大な雰囲気に聞こえるよう、全身全霊を込めた限界一杯の声量まで上げて歌う。吸い込んだ空気に、目一杯の声を乗せて送り出す。


 額に感じる汗の感触。鼻の頭からも、汗のしずくが落ちそうに感じる。服と背中の肌の間を、汗がつっと流れた気がした。

 拭いたい。今すぐ拭いたいが、ここでそれはできない。



  や ま は あ お き  ふ る さ と



 次のフレーズで、終わり――

 歌の終わりは……特に、難しい。



  み ず は き よ き


      ふ   る   さ   と



 楽譜にはないが「だんだん遅く(リタルダンド)」をかけて、ゆっくり、じっくりと余韻を残して……慎重に、音を切った。


 ……。


 両足を揃え、深く一礼する。


 ……どこかで誰かが、手を叩いた。

 そこからザーッと広がるように、拍手の音が会場全体に連鎖していく。


 これで……よかった、のか? とりあえず、拍手はもらえたが。


 頭を下げたまま、客席から見えないように乱れた息を整えた。


・・・・・・


 頭を上げて、俺は両手を広げて見せた。

 客席に――ではなく、その向こうの調光室に。


 この動作を合図に、強烈に俺を照らしていたピンスポの光が消えて舞台の照明が100%で点灯する。「ふつうの舞台」が、戻ってきた。

 上手(かみて)下手(しもて)から、ハケていた女声パートが戻ってくる。いつもの仲間たち(メンバー)が、戻ってくる。

 俺は、立ち続けていた舞台の真ん中から離れて、戻ってきたみんなの列に加わった。


 ここまで、4曲。

 残り、1曲。


「皆さん、いかがでしたか? 今回は――」


 花菜さんの台詞に入る。聞く限り、練習通りだ。


「――初の男声パートがあるということで、男声の独唱をお聴きいただきました」


「また――」


 絵里さんが次の台詞を言いかけたが、ここでもう一度拍手が入った。

 ここで拍手……? それっぽい台詞に聞こえてしまっただろうか。


 拍手を止むのを待ってから、絵里さんが改めて台詞を言う。


「また、1曲目はあえて男声パートのない女声合唱をお届けしました。それぞれの雰囲気の違いがよく出たかなと思います」


 台詞はもう一度、花菜さんへ。続けて絵里さんに変わる。


「さて、それでは次が最後の曲となります。もう少し、歌っていたかったですが……」


「その気持ちを全て、この曲に込めよう! 思い出を胸に秘めてそれぞれの道へ歩みだす――そんなこの歌で、今年の合唱部の発表『アニマート!』を締めくくります!」


 ひと呼吸、間があって――


「それでは――」

「――どうぞ!」


 ふたりの声に、全身に力をみなぎらせる。

 さあ――5曲目(さいご)だ。


・・・・・・


 下手(しもて)から山口先生と岩村先生が入ってくる。岩村先生はピアノの前へ座り、かすかに笑みを浮かべた山口先生はまっすぐに指揮台の脇まで来て、客席へ向け一礼した。


 湧き起こる拍手、俺は指揮台に立った山口先生を注視しつつ歌う体勢を整える。


 最後の1曲は、別れの歌。ちょっと聴いただけなら、いい感じの合唱曲に聞こえるだろう。

 でも――「前を向きなよ」で始まるこの歌は、今年で解散し離ればなれになってしまう仲間たち(みんな)のための、別れの寂しさを拭うための歌だ。


 高く挙げられた山口先生の右手に全神経を集中させる。この曲がいちばん長い。まだ気持ちは緩められない。


 ふわりと動いたその手に、岩村先生の伴奏がそっとついていく。エンディングの始まりのような、少しの寂しさと純真さをはらんだその旋律。


 ここでブレス、そして――


 ♪――


 大人しく始まった歌。穏やかにピアノの旋律が寄り添ってくる。


 相変わらず声が小さめだが、一度ハケて落ち着けたこともあってか、1曲目での歌詞間違いの影響はあまりないようだ。

 まだここは声を強めるところではない。山口先生の指示がない限り、俺も声量を上げる必要はないだろう。


 みんなで足並みをそろえるように、大人しく、静かに、伴奏と一緒に8人寄り添って進む。


 ……。


 ――変わった。


 サビへ向けて、メロディーは動き出す。別れを歌う合唱曲、大人しいわけがない。感情が、少しずつあふれ出ていく。


 アルトが先行し、ソプラノ・メゾが勢いを持ってそれに続く。感情に揺られながら進む、サビへ向けての上昇軌道。声量を上げ、徐々にブレスが厳しくなる。


 そして――サビ直前、主旋律はメゾヘ。ずっとソプラノと一緒に歌っていた俺は、飛び移るようにメゾの音に移った。

 そのままメゾと一緒にサビへ入る。1拍遅れてソプラノが、他パートと合わせず単独でその高い声を響かせていく。


 やはり少し、ソプラノの声量が足らない。絵里さんが頑張っているが、いつもの里奈の、芯のあるあの声がほしい……

 主旋律から離れたソプラノが独走するこの場所――かつて本当にソプラノで歌っていた俺にとっては、妬ましいほどに羨ましいメロディーだ。ソプラノのみんなが、決して手の届かない高い空を飛んでいるかのよう。声変わりした俺にはもう、飛べない高い空を……


 俺はメゾと声を合わせて主旋律を守り歌っていく。メゾはまだ愛の調子が戻っていないか、パート全体の声量はいつものおよそ4分の3程度に減っている。

 俺が声量を上げ始めると、すぐこちらを向いた山口先生と目が合う。笑顔と、手招き――引き出されるように声を出していく。


 最も感情的に、最も激しく――ここは別れを歌うこの歌が本性を現すところ。俺は全力で主旋律を突き進む。

 すぐ隣でそんな歌い方をされたアルトが自分の音を保つのに必死になっているが、サポートはできない。俺にひとりでふたつの音を出すことはできない。


 1番が終わり、短い間奏が入る。ここで短く息を吸って、深く吐いて――


 すぐにブレス、歌は初めに戻る。


 再びソプラノに移って2番を歌う。やることは1番と同じ、歌詞の違いだけ。

 まず大人しく、みんなで足並みをそろえて――


 そしてまた、サビへ向けての上昇軌道。感情があふれ始めるところ。


 ソプラノを離れ、メゾへ飛び移る。まだ不調が続く愛の声量が足らず厳しい状態のメゾに寄り添って、声を出す。里奈が不調のソプラノは絵里さんが強く引っ張っていく。


 2番のサビを終え、少し長めの間奏に入った。

 慎重に息を整えつつ、次に備える。


 ……。


 それにしても、今朝から調子がよくなかった里奈はともかくとして、愛は急にどうしたのだろう。調子を崩したのは舞台に上がってからに思えるが……なぜ。


 間奏が終わりに近づき、軽く息を吸ってから深く吐く。神経をとがらせながらのブレスの予備動作。ここを歌い切れば、この曲は終わりだ。

 瞬間、ブレスを行い――そのまま、曲の速さ(テンポ)を遅くしつつ、あえて弱くされた主旋律を歌っていく。()()()を予期させながら……


 ゆっくり、弱く歌ってお客さんの注意を引きつけたところで、テンポを元に戻し一気に強く。歌は急激な流れに乗って終わりへと進む。


 歌はサビと同じメロディーへ、ただし音は半音上がる。歌詞は1番とも2番とも違う。

 歌詞も当然、間違えたくないが――ここは音も、難しくなるところ。


 ……いい、これでいい。この歌のなかで一番感情があふれるこの場所、思いっきり歌い切るんだ。みんな一緒に、最後まで――!


 後奏、そして――


 山口先生の右手が、止まった。


・・・・・・


 指揮台を降り一礼した山口先生は、拍手の中をピアノの脇まで移動した。


 すぐ隣の陽和が、一歩前へ出る。


「以上で、合唱部の発表『アニマート!』を終わります。本日は最後までお聴きいただき、ありがとうございました」


 陽和の台詞を聞いてから、全員で声を合わせる。


「ありがとうございました」


 全員で、礼。ゴン、と音がして緞帳(どんちょう)が下がり始めた。


・・・・・・


 再び、ゴンと音がして顔を上げると、緞帳(どんちょう)は一番下まで下がり切っていた。


 ……終わった。


 明日の一般公開でも同じように歌うが、そうじゃなくて……

 全校生徒へ向けて歌える舞台が、いま終わった。


 みんなの歌は……

 俺が歌った「故郷」は……


 だれかのこころを、揺らすことができただろうか。


 「もう一度」は、ない。


 今日の舞台は、これでおしまいだ。

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