第52話 輝星
翌、水曜日――
朝は「あの曲」の最初の練習が行われた。
7時45分には「予定通りに2人欠けた」状態で灰色のドアの前に集合し、職員室から鍵を借りてやって来た陽和が鍵を開け、時間通りに練習が始まった。
配られた楽譜は枚数が少なく、確かに昨日陽和が言った通り短い歌だった。
しかも曲の終わりは、サビと全く同じメロディーを繰り返す。これで1番だけ歌えばいいのであれば、練習はだいぶラクだ。
曲そのものも卒業式などで歌われることもあるもので、今回の「歌う目的」にもよく合っている。いい歌だ。
練習を仕切る陽和が、全員に向け昨日話し合った内容を伝えた。ひとまず歌ってみて、簡単に音が取れるのなら朝の練習をなくしてみる、と。
異論は出なかった。
陽和がやや焦り気味に練習を急ぐので、俺が口出しして今日はサビには入らないように言った。陽和は少し嫌がったが、琴音が俺の意見を支持して陽和をなだめ、サビ前までの徹底的な反復練習をして朝の練習は終わった。
・・・・・・
「輝、なんか忙しそうだな」
「ああ、忙しい」
弁当をかっ込みながら明の言葉に応じる。
「これからしばらく……たぶんかおる祭前まで、昼休みはこんな感じだと思う。朝は来週くらいには元通りになるから、なんか言いたい事あったらその時か――それか置き手紙でも置いてって」
「……ああ、とりあえず分かった。こっちはこっちでうまくやるから、お前はそっちのことだけ考えとけ。……かおる祭、あと2週間ちょいしかないからな」
――2週間。
「ありがとう」
そのまま急いで弁当を片付けて、練習室へ向かった。
大した時間はなかったので、朝練習した部分をさらに反復練習してすぐ練習は終わった。
・・・・・・
「かおる祭まであと2週間ちょっとだからね――」
放課後、部活で。
岩村先生も明と同じことを言う。
「歌の練習、がっつりやりたいところだけど……台詞の方もそろそろやらないとまずい。今日は曲の初めと終わりだけ歌って、台詞と立ち位置の練習にするよ」
うちは合唱部であって演劇部ではないから、大した台詞があるわけでなはい。だが舞台上で言うべき台詞がある以上、練習をやらないわけにはいかない。
それに、女声合唱の時には俺がハケて、独唱の時には俺以外全員がハケる。ハケる先は舞台上の俺たちから見て左の「上手」か、右の「下手」か。どのタイミングで戻って来るか。その動きも練習して、さらに独唱のために俺が考えた「演出」にも練習と慣れが必要だった。
あらかじめ台本で分かっていたこと、しかも俺は自分が考案者だったが、1回目から容赦なくやった岩村先生による「演出」にはみんな飛び上がるほど驚いた。
この反応が、客席最後列まで届いてくれれば……
・・・・・・
部活が終わって――
着替えから戻ってくると、立っていた陽和と琴音が歩み寄って来た。
陽和がやわらかな笑顔を俺に向ける。
「輝、ちょっとだけ、いい?」
「ちょっとだけなら」
そう返してみたら、隣の琴音が苦笑いした。
「それじゃあ、ちょっとだけね」
そう言って陽和の方を向き、小声で言う。
「たくさん時間、とってやりましょ」
「……うん。ふふ」
・・・・・・
ふたりの先導で、練習室のすみにある引き戸へ向かう。
この先はいつもキーボードやら何やらを置いてある部屋で、「ライブラリー室」という。どうしてそう名付けられたかは知らない。
琴音がドアを引き開けて、慣れた手つきで棚の向こうに半分隠れたスイッチを入れて電気をつける。どこからか換気扇の音がし始めた。
この部屋は、なんだか異質な空間――
でかいキャスター付きの台に、どでかいブラウン管テレビが乗ったものが、3台ある。そのうち1台は、テレビの下に作られた中段にレコードプレーヤーまで乗っかっている。
たぶん昔の授業で、教室まで引っ張って行って映像でも見るのに使ったのだろう。どでかいテレビの上に積もったホコリの厚さが、使われなくなってからの年月を物語っている。まだ映るのだろうか、このテレビは。
……積もったホコリに、指で「鈴木愛」と落書きしてある。
壁はどの方向を見ても棚ばかり。ビデオテープがずらりと並ぶ。それと何に使うのか分からない、長い望遠レンズのようなものも転がっている。みんな旧校舎から持ってきたもののようで、荷ほどきした後放置したのか、畳まれた段ボール箱がいくつか立てかけてある。
電気をつけてもなんだか薄暗く、淀んだ空気が漂う場所。新校舎なのにこんな雰囲気なのは、もう使われなくなった物たちが集まっているからだろうか。
ここはなんだか、時間が止まっているようにも思える。
合唱部が使う機材も置いてある。いつも楽譜やら何やらが詰めてあるあるカゴと、棚には小物類。あの――99年前のメトロノームも、静かに置かれている。
そして――以前から気になっていたものも。
床に2列に並べられた、キーボード。いつも使っている2台と……全く使わない4台。俺がここに来てから、俺ひとりの練習用に1台だけ使ったが、それ以外はずっと電源も入れられず、音を鳴らされたこともない。
「ねえ、なんでこんなにキーボードあるの? 使う時ある?」
その質問に、陽和は肩をすくめた。
「昔は使ったらしいよ。これ、全部」
「全部?」
3パートしかないのに、どうして。練習室にピアノがあるから、2台で足りるはずなのに。
その答えを、琴音が少し寂し気な笑みを浮かべつつ教えてくれた。
「コンクール、中学の部と高校の部があるのは知っているでしょう?」
ああ、それはもう。
「これは昔、たくさん部員がいた頃の名残り。中学の部員が中学の部に出られていた時の、ね」
「――?」
琴音は俺の表情を見て、付け足した。
「今は人数が足らない。だから、中学と高校を合わせて高校の部に出るの。まあ、今年はそれも……」
……そこまで言わせる前に、察するべきだった。
「そっか――中学と高校で別々にパート練習したら実質6パート……ピアノがあるから使うのは5台、1台は故障か何かの予備で……そっか、これ全部使ってたのか……」
2列に並んだ6台のキーボード……これの大半もこの部屋の「もう使われなくなった物たち」の一員。
合唱部が賑やかだったころ――その頃の記憶を秘めたまま、ここで止まった時間の中を過ごしている……
・・・・・・
「さ、今日の目当てはこっち。来て、輝」
陽和の明るい声に引き戻されて、そちらを見る。大きい段ボール箱と、少し小さい段ボール箱。「合唱部」と書かれている。
これも旧校舎から持って来たなにかの荷物か。大きい段ボール箱はまだ開けられていないが……ずっと、そのまま?
陽和はそれを通り越して、小さい方の箱のそばにぴょんと立った。なんだか嬉しそうに、箱を開く。
「ほら――どう? いいでしょ、これ」
うん……?
中身は、服――?
水色のパーカーが、詰められている。
「今年、思い切って新しくしたんだよ。ほらここ、かわいいでしょ」
そう言って陽和が取り出した1着のパーカーは、左胸の部分に金色の8分音符が描かれている。音符の玉の部分がハートマークだ。
いつの間にか後ろから歩み寄って来た琴音が、俺の肩越しに言う。
「去年まではピンク色だったから、ね。共学化したら……ちょっと、きついでしょう――」
琴音が言い終わる前に、陽和がパーカーを広げて背中側を見せてくる。
「後ろはこんな感じ。輝もこれ、着るんだよ」
背中には金色の文字で「Seichyou Chorus Club」と描かれている。
「それ……合唱部の、服? いつ着るの?」
琴音が左脇に来て、教えてくれる。
「それはもちろん、かおる祭で。これはステージ衣装だから。下は各自でジーパンを用意するの。……陽和、そっちじゃなくて男子用のを出してあげて」
「うんうん……ああ、よかったなあ」
感慨深げな陽和の手に、取り出される同じパーカー。
陽和はそれを俺に差し出した。
「これ1着だけでも――輝が着てくれるんだもん」
……。
同じじゃない。左胸の音符、玉の部分が星マーク。
「星マークが男子用。この箱から合うサイズ探して。……それと、今日ちょっと着てみせて。早く見たいから!」
楽しそうに言う陽和。
「着替えは……ごめんなさい、ここで。私たちは外で待っているから」
いつもの調子で、そう言う琴音。でも、更衣室でなくてここで着替えるよう言う。
……いつにもなく浮かれているのだろうか。
「待ってるよ!」
陽和がそう言って、ふたりは部屋を出て行った。
・・・・・・
……ひとりになった。
ふたりの残り香が、すっと消えていく。
ピンクから水色に変えたという、このステージ衣装。
コンクールは制服で出るはずだから――廃部を回避できなければ、この新しいステージ衣装が着られる機会は1度きり。
デザイン決め――この星マークを描いた時、みんなはどんなに期待に胸を膨らませ、どんなに夢を咲かせていただろう。
両手に収まった、水色のパーカー。金の星マーク。
箱の中で、来ることのない出番を待っていた、男子用ステージ衣装。
「……」
手近にあった「合唱部」と書かれた大きな段ボール箱にパーカーを置いて、制服を脱ぐ。
パーカーを手に取り、そっと袖を通した。
初めて袖を通されたそれは、初めから俺のためにできていたとでも言わんばかりに、ぴたりと身体に合った。
ズボンは制服のままだったが、ふたりは早く見たいと言っていた。このまま行こう。
来ないはずの出番が来たこのステージ衣装のため、これをデザインしたみんなのため――猫背ぎみの背筋を伸ばす。金の星マークが、前を向く。
軽く胸を張って、ひとつ息をついて――引き戸を開き、ライブラリー室を出た。
「あ!」
陽和が振り返って、目を輝かせる。
「わあ……」
「……」
その隣で、何も言わずにただ見ている琴音。
「あ!」
「えっ?」
向こうから声がして、ばたばたと残りの5人が集まってきた。
「そっか、それ輝くんが着るんだ!」
一番早く駆けつけた絵里さんがそう言って頭から足先まで何度も見てくる。
「輝さん――かっこいいです!」
とたとた、とやって来た里奈がきらきらした目で見つめてくる。
「おー、星マーク! いいですよ輝さん、男前ー」
ひやかすように言う愛。
「……男前、ですね」
静かに愛に同調する、千尋。
「そうだったね、今は輝くんがいるんだ。その服で、舞台に上がってくれるんだね」
最後に、落ち着いた足取りでやって来た花菜さん。
7人みんなが、思いを込めてデザインしたであろうこの姿を嬉しそうに見てくれる。
「輝、似合ってるよ。……ありがとう」
ちょっと涙ぐむ陽和。
でも――
「その言葉はまだ早いよ。これ着て舞台に出て――その後に言って」
「うん、うん」
みんなは下校時刻の放送が流れるまで、俺を囲んだまま離れなかった。
・・・・・・
下校時刻ギリギリで練習室を出て、急いで鍵を返しに行く陽和に琴音がついていった。
「輝くーん、帰ろ!」
絵里さんの呼ぶ声。残った5人がこちらを見ている。
……。
「すみません、ちょっと忘れ物があって……先に行っててください」
「はーい! 急いでね」
絵里さんがそう答えた後、5人が階段を下る足音が遠ざかっていくのを、俺はしばらく聞いていた
・・・・・・
誰もいない教室。
夕日が射し込んでいる。明日も晴れかな。
背負った鞄に仕舞った、水色のパーカー……
「一度きり、か」
つぶやいた言葉が、教室の空気に吸い込まれて消える。さっきまで俺を囲っていたみんなは、ここにはいない。
合唱部に関わる前は――自分では気づかなかったけれど、こうしてひとりで立っていたんだ。
俺は合唱部員にはならない。かおる祭までで、その先へは行かない。
だからみんなと結んだつながりも、このひと時で終わってしまう。
いいんだろうか、それで……
『みんなとの思い出が欲しいんです』
『一緒にいた、楽しい思い出が欲しい、って』
――愛は昨日、そう言っていた。
思い出――
それはつまり、「過去のもの」……
なんだか寒々しい――もうすぐ6月なのに。
「今度の土曜……晴れると、いいな」
みんなで行く遊園地。作っておきたい、思い出。
……帰ろう。もう時間がない。
窓に背を向けて、長く伸びる自分の影を踏みながら教室を出た。




