表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/89

第28話 ア・テンポ - もとの速さで

 灰色のドアが、内側へ開く――

 廊下を抜けてきた風が、びゅうと音を立てて中へ吹き込んでいく。


 開いたドアが、互いの姿を露わにする。


 レバーを持ったまま風に少し目を細めた里奈――

 中途半端に立ち止まっている俺――


 ふたりの視線が、ぴたりと合った。


 里奈は目を開いて――


 そして、その表情は花が開くように笑顔に変わった。


「輝さん……!」


 ドアの軋みに驚いて、まるで腰が引けたように立っている俺を見ていても、里奈はその表情を変えない。


 見つめあったまま、俺たちはしばらく立っていた。


 ややあって室内から、ととと、と足音が聞こえた。


 里奈が少し身体を引くと、開いたドアからひょこっと部員が顔を出した。今朝見たのと同じツインテールに結んだ髪が、こちらを斜めにのぞいた頭から真下へ垂れて楽しげに揺れる。


「あー、輝さんだー」


 誰か友達にでも話しかけるかのような声色。


 ツインテールの部員は、ドアを抜けて一歩こちらへ踏み出した。


「おかえりなさい、早かったですね」


 ジャージを着て、楽譜を持ったその姿――

 細かくびっしりと書き込みが入った楽譜を、片手で抱くように持って――


「……」


 持っていたのは、今朝盗られた俺の楽譜だった。


 ツインテールの部員は俺の顔を見て、それから手に持った楽譜を見て、俺に視線を戻す。


「あ、楽譜借りてます。何日かしたら返すので、それまで私ので我慢してください」


 たぶん俺は渋い顔をしたのだろう。俺の顔を見ながらツインテールの部員は、にひひと笑った。

 そして、もう一歩踏み出してくる。


 距離が縮まって、俺は思わず一歩下がった。


 ツインテールの部員は悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「さあ輝さん、ここまで来たなら入りましょう」


 そう言って、人質代わりの楽譜をぎゅっと抱きしめてみせた。


 そして俺の目を見て――


「あ、そうだ」


 急に、姿勢を正す。


「私は中3の鈴木(すずき)(あい)です。パートはメゾです」


 こんな所で、自己紹介をされた。


「輝さんのことはもう知ってるので、自己紹介要らないですよー」


 なんだか慣れ慣れしく話しかけてくる。


「おーい」


 室内から、岩村先生の間延びした声がした。


「そろそろ戻ってよ。練習、続き出来ないから」

「輝さんが入らないんです」


 愛、と言った部員は大きな声で室内に向かって返事をする。


 それから俺の方を向いて、また、にひひと笑って――


 半歩、下がった。


「さあ、もう観念してこっち来ましょう」


 愛はさらに半歩下がる。その向こうに、俺に笑顔を向けている里奈が見えている。


「……」


 もう……


 もう、下がれない。


 俺が一歩踏み出すと、愛は一歩下がった。


 一歩、また一歩……


 そうやって愛に引っ張られながら、俺はドアをくぐって――ついに、練習室の床を踏んだ。


「――んっ」


 背後でかすかに里奈の声が聞こえて、風がびゅうと鳴って――


 おそらく力いっぱい、ドアが閉められて――


――ガシャッ


 レバーが、下ろされた。


 俺は合唱部員ふたりの手で、練習室に迎え入れられた。


・・・・・・


「やあ、輝くんじゃないか。昨日ぶりだね」


 ピアノの向こうから、岩村先生の大げさな声が聞こえる。


「……」


 どの面下げて話せばいいか分からない……


 言葉が、出てこない。


「先生、この子ですよ。こないだ話したのは」


 岩村先生は、俺以外の誰かに声をかけた。


 見渡すと、部屋の向こう側――こちらと反対の壁側、中央に置かれた指揮台の上に、背の高い女性が立っている。


 知らない人――年齢はよく分からない。若くはないと思うが、表情の瑞々しさが年齢不詳の美しさをみせている。


「輝くん、ほら」


 岩村先生が、ピアノの向こう側からその女性を手で示した。


「こちら、もうひとりの指導員。お世話になるだろうから、挨拶しといてよ」


 俺に向けて、軽い感じでそう言った。


「……」


 「お世話になる」って、言われても……


 俺は自分の手で、ドアを開けたわけじゃない。

 自分の意思で、ここへ入って来たわけじゃない。


 俺はまだ――


 ――()()、かどうか決めてない。


 ここで挨拶すれば、「やる」に。

 挨拶せず拒絶すれば、「やらない」に。


 そう、決まってしまう。


 ここから約1ヵ月分の未来を、この場で選ばなくてはならない。


「……」


  『輝さん……!』


 ドアを開いて、笑顔をみせてくれた里奈――


  『何日かしたら返すので、それまで私ので我慢してください』


 何日かしないと返してくれないらしい、愛――


 ……。


  『さあ、もう観念して――』


「……」


 目を閉じて、息を吐き、入りっぱなしだった肩の力を抜いて。


 目を開いて――


 中央、指揮台の上を見据える。


「高校1年の、海野輝です。今度のかおる祭まで、一緒に歌わせていただきます。よろしくお願いします」


 声は、練習室に響き渡った。


・・・・・・


 指揮台の上の女性は、少し目を細めた。


「はい、よろしく。指導員の山口(やまぐち)純子(じゅんこ)です。歌の指導と、それから指揮を担当します」


 そう言ってから、ふっと笑顔を見せた。


「……輝くんのことは、岩村先生からよく聞いてるよ。先生、君のこと絶賛してたから、私も練習楽しみにしてきたんだ」


 絶賛してた、か。


「私にも、いいところ見せてね」


 そんなふうに言ってくれた。


 岩村先生、そんなにも俺に――


 俺に――思いっきり、釘を刺してきたか。


 そんなに俺を絶賛したなら、この山口先生は期待をするに決まっている。

 そしてその期待を裏切るのは、合唱をやる者として悔しいことであり――少なくとも、俺にとっては屈辱だ。


 手を抜くんじゃないぞ――岩村先生は、遠回しにそういうメッセージを伝えてきたんだろう。


 いいところ見せてね、か。


 俺は山口先生の顔を見据えた。


「はい」


 明白に、答えた。

 手抜きなどしません、と。


・・・・・・


「どうですか、山口先生。ここは一度パート練習に――」


 岩村先生がそう言いかけたので、俺は急いで遮った。


「先生、待ってください」


 練習に入る前に、絶対にやらなければならないことがあるんだ。


「ちょっとだけ、いいですか?」


「ちょっとだけなら」


 岩村先生がそう答えたので、俺はちょっとだけ時間をもらうことにした。


 並んでいる部員たちを見る。


 並びからみて、手前からソプラノ、メゾソプラノ、アルトの順だろう。高音域が右、左へ行くにつれて低音域に。


 そして手前のソプラノの一員だろう、俺から見て2人目の所に――竹内が立っている。


 目が合うと、竹内は少し表情をゆがめて下を向いた。


 ……。


 ゆっくりと、竹内に歩み寄る。


「竹内……」


 返答は、ない。


「竹内も――」


 緊張が、一気に高まる。


「――()()()()()、見たい?」


 そう、言った。


 竹内の沈黙は、長かった。


 そして、ひと言――


「……うん」


 と、言った。


 まだ下を向いたままの竹内に、俺は言う。


「分かった、頑張る。だから――期待してて」


 言ったからには、早く竹内にも、いいところを見せなければならない。


 その下を向いた顔が上がる頃には、なるべくかっこいい姿を見せられるようにしよう――


 そう、思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ