第28話 ア・テンポ - もとの速さで
灰色のドアが、内側へ開く――
廊下を抜けてきた風が、びゅうと音を立てて中へ吹き込んでいく。
開いたドアが、互いの姿を露わにする。
レバーを持ったまま風に少し目を細めた里奈――
中途半端に立ち止まっている俺――
ふたりの視線が、ぴたりと合った。
里奈は目を開いて――
そして、その表情は花が開くように笑顔に変わった。
「輝さん……!」
ドアの軋みに驚いて、まるで腰が引けたように立っている俺を見ていても、里奈はその表情を変えない。
見つめあったまま、俺たちはしばらく立っていた。
ややあって室内から、ととと、と足音が聞こえた。
里奈が少し身体を引くと、開いたドアからひょこっと部員が顔を出した。今朝見たのと同じツインテールに結んだ髪が、こちらを斜めにのぞいた頭から真下へ垂れて楽しげに揺れる。
「あー、輝さんだー」
誰か友達にでも話しかけるかのような声色。
ツインテールの部員は、ドアを抜けて一歩こちらへ踏み出した。
「おかえりなさい、早かったですね」
ジャージを着て、楽譜を持ったその姿――
細かくびっしりと書き込みが入った楽譜を、片手で抱くように持って――
「……」
持っていたのは、今朝盗られた俺の楽譜だった。
ツインテールの部員は俺の顔を見て、それから手に持った楽譜を見て、俺に視線を戻す。
「あ、楽譜借りてます。何日かしたら返すので、それまで私ので我慢してください」
たぶん俺は渋い顔をしたのだろう。俺の顔を見ながらツインテールの部員は、にひひと笑った。
そして、もう一歩踏み出してくる。
距離が縮まって、俺は思わず一歩下がった。
ツインテールの部員は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「さあ輝さん、ここまで来たなら入りましょう」
そう言って、人質代わりの楽譜をぎゅっと抱きしめてみせた。
そして俺の目を見て――
「あ、そうだ」
急に、姿勢を正す。
「私は中3の鈴木愛です。パートはメゾです」
こんな所で、自己紹介をされた。
「輝さんのことはもう知ってるので、自己紹介要らないですよー」
なんだか慣れ慣れしく話しかけてくる。
「おーい」
室内から、岩村先生の間延びした声がした。
「そろそろ戻ってよ。練習、続き出来ないから」
「輝さんが入らないんです」
愛、と言った部員は大きな声で室内に向かって返事をする。
それから俺の方を向いて、また、にひひと笑って――
半歩、下がった。
「さあ、もう観念してこっち来ましょう」
愛はさらに半歩下がる。その向こうに、俺に笑顔を向けている里奈が見えている。
「……」
もう……
もう、下がれない。
俺が一歩踏み出すと、愛は一歩下がった。
一歩、また一歩……
そうやって愛に引っ張られながら、俺はドアをくぐって――ついに、練習室の床を踏んだ。
「――んっ」
背後でかすかに里奈の声が聞こえて、風がびゅうと鳴って――
おそらく力いっぱい、ドアが閉められて――
――ガシャッ
レバーが、下ろされた。
俺は合唱部員ふたりの手で、練習室に迎え入れられた。
・・・・・・
「やあ、輝くんじゃないか。昨日ぶりだね」
ピアノの向こうから、岩村先生の大げさな声が聞こえる。
「……」
どの面下げて話せばいいか分からない……
言葉が、出てこない。
「先生、この子ですよ。こないだ話したのは」
岩村先生は、俺以外の誰かに声をかけた。
見渡すと、部屋の向こう側――こちらと反対の壁側、中央に置かれた指揮台の上に、背の高い女性が立っている。
知らない人――年齢はよく分からない。若くはないと思うが、表情の瑞々しさが年齢不詳の美しさをみせている。
「輝くん、ほら」
岩村先生が、ピアノの向こう側からその女性を手で示した。
「こちら、もうひとりの指導員。お世話になるだろうから、挨拶しといてよ」
俺に向けて、軽い感じでそう言った。
「……」
「お世話になる」って、言われても……
俺は自分の手で、ドアを開けたわけじゃない。
自分の意思で、ここへ入って来たわけじゃない。
俺はまだ――
――やる、かどうか決めてない。
ここで挨拶すれば、「やる」に。
挨拶せず拒絶すれば、「やらない」に。
そう、決まってしまう。
ここから約1ヵ月分の未来を、この場で選ばなくてはならない。
「……」
『輝さん……!』
ドアを開いて、笑顔をみせてくれた里奈――
『何日かしたら返すので、それまで私ので我慢してください』
何日かしないと返してくれないらしい、愛――
……。
『さあ、もう観念して――』
「……」
目を閉じて、息を吐き、入りっぱなしだった肩の力を抜いて。
目を開いて――
中央、指揮台の上を見据える。
「高校1年の、海野輝です。今度のかおる祭まで、一緒に歌わせていただきます。よろしくお願いします」
声は、練習室に響き渡った。
・・・・・・
指揮台の上の女性は、少し目を細めた。
「はい、よろしく。指導員の山口純子です。歌の指導と、それから指揮を担当します」
そう言ってから、ふっと笑顔を見せた。
「……輝くんのことは、岩村先生からよく聞いてるよ。先生、君のこと絶賛してたから、私も練習楽しみにしてきたんだ」
絶賛してた、か。
「私にも、いいところ見せてね」
そんなふうに言ってくれた。
岩村先生、そんなにも俺に――
俺に――思いっきり、釘を刺してきたか。
そんなに俺を絶賛したなら、この山口先生は期待をするに決まっている。
そしてその期待を裏切るのは、合唱をやる者として悔しいことであり――少なくとも、俺にとっては屈辱だ。
手を抜くんじゃないぞ――岩村先生は、遠回しにそういうメッセージを伝えてきたんだろう。
いいところ見せてね、か。
俺は山口先生の顔を見据えた。
「はい」
明白に、答えた。
手抜きなどしません、と。
・・・・・・
「どうですか、山口先生。ここは一度パート練習に――」
岩村先生がそう言いかけたので、俺は急いで遮った。
「先生、待ってください」
練習に入る前に、絶対にやらなければならないことがあるんだ。
「ちょっとだけ、いいですか?」
「ちょっとだけなら」
岩村先生がそう答えたので、俺はちょっとだけ時間をもらうことにした。
並んでいる部員たちを見る。
並びからみて、手前からソプラノ、メゾソプラノ、アルトの順だろう。高音域が右、左へ行くにつれて低音域に。
そして手前のソプラノの一員だろう、俺から見て2人目の所に――竹内が立っている。
目が合うと、竹内は少し表情をゆがめて下を向いた。
……。
ゆっくりと、竹内に歩み寄る。
「竹内……」
返答は、ない。
「竹内も――」
緊張が、一気に高まる。
「――いいところ、見たい?」
そう、言った。
竹内の沈黙は、長かった。
そして、ひと言――
「……うん」
と、言った。
まだ下を向いたままの竹内に、俺は言う。
「分かった、頑張る。だから――期待してて」
言ったからには、早く竹内にも、いいところを見せなければならない。
その下を向いた顔が上がる頃には、なるべくかっこいい姿を見せられるようにしよう――
そう、思った。




