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きみの家まで30秒  作者: 柏原みほ
高校2年『きみの家まで』
56/56

きみと、ずっと

 有難くお湯を貰ったあと私は、一枚のドアの前に立ち尽くしていた。小母さんに借りたパジャマに包まれた身体からは未だホカホカと湯気が立っている。

 この引き戸の内側には雄大が居る筈で、同じ部屋で一晩過ごすかと思うと、ノックをする為に軽く握った拳が震えていた。既に心臓が口から出そうなこの状況をどう遣り過ごそうかと、意味も無くその場でウロウロしていると、中からカラリと引き戸が開いた。

「何やってんの」

「う、ううん、あの別に……」

 思わずしどろもどろになった私は、ふっと笑われて「どうぞ」と室内に招き入れられた。お邪魔します、と呟いて其処に入ると、目の前の床には布団が敷いてある。その奥にはベッドが有って、布団の頭側の傍には机が有った。

「狭くてごめん」

「あ、ううん」

 確かに、無理やり布団を詰め込んだ感じで全体的にギュッと詰まっているけれども、突然来た私が悪いので何も文句は無い。

「布団とベッド、どっちがいい?」

「え?」

「ベッドもさっきシーツ替えたから綺麗だし、どちらでも好きな方で」

 促されて数秒考えた後、「……じゃあ布団で」と返事をした。雄大のベッドを使うなんて、緊張して益々眠れなさそうだから、という理由は口にしなかったけれど。そっか、と軽く言った雄大の腕がふとこちらに伸びて思わず身を固くすると、その腕は私の背後の引き戸を半分だけ閉めた。

「これでいい?」

「へ?」

 頓狂な声を発した私に苦笑して「全開が良ければそうするけど」と口にした雄大をまじまじと眺め遣ると、きゅっと口を引き結んだ彼が「心配すんな」と視線を少し逸らした。

「何もしないし」

「あ、うん……分かってる」

 ダイニングを挟んで小父さんと小母さんが寝てるのにそんな、言えない様な事をする訳が無いのは分かっている。そう考えて頷いたのだが、何故か不満そうな表情を見せた。深い溜息を吐かれて怖ず怖ずと「なに?」と問うと、こちらをちらりと見遣った雄大が私の両側の壁にトンと手を着いた。

「そう安心しきられるのも複雑っていうか……」

 ボソリと呟いた雄大の吐息が頬を掠めて鼓動が暴れだす。背中が触れている壁から、雄大の手のひらに伝わってしまうのではないかという程に脈打っているというのに、安心だなんてとんでもない。顔に駆け上がった熱をそのままに瞳を泳がせていると、ふと視界が雄大の陰に呑まれて暗くなった。同時に額に触れた柔らかい感触にぐっと息を詰めると、そっと離れた彼が「オヤスミ」と呟いた。

 え……おでこにちゅ、で終わり?

 ドキドキの余韻を残しつつ、緊張の反動でぱちくりと瞬きをして雄大を見つめると彼は、罰が悪そうに頭を掻いた。

「……そんな見んな」

 モゴモゴと口篭もった雄大を黙って窺っていると、私から離れてベッドにぼすんと腰を下ろした。そんなに勢いよく座って階下に響かないだろうか。大丈夫だろうかなどと考えていると、ふて腐れた顔で膝に頬杖を突いた彼が視線を逸らした。

「一晩って……長いよな」

 ごにょごにょと呟かれた言葉に「え?」と聞き返すと「なんでもない」と言って、派手な溜息と共にがっくりと項垂うなだれた。

「あーもう……寝よ」

「……うん」

 消灯をして布団にころんと寝転がる。壁の方を向いている雄大の背中を暫く眺めて天井に視線を移した。未だに治まらない速い鼓動のお蔭で、とても眠れる状態ではなく、密かに溜息を吐いて小さく寝返りを繰り返していると、ふとベッドの下の隅っこで何か点滅した様な気がして其処を凝視した。確かに光ったそれを確認して、小さく「ユータ」と呼び掛ける。

「……んー?」

 雄大も眠っては居なかった様で、間を置かずに発された気怠い声に対して勢い込んで言葉を続けた。

「ベッドの下で何か光ってる」

「え?」

 その光には見覚えが有った。不在着信やメールの着信を知らせる携帯のライトだ。

 身体を起こして電気を点けながらそう告げると、ガバッと飛び起きた雄大がベッドの上から頭を落として下を覗き込んだ。

「落ちてたのか……」

 良かったと呟いて床に降りた雄大がベッドの下に潜り込んで、程なく彼の携帯を握って這い出てきた。私の布団に胡座あぐらを掻いて携帯を開く彼を何となく眺めていたら、一瞬慌てた様子でその画面が見えないように携帯の背を私に向けた。

「何よ」

 別に、他人の携帯をチェックする趣味はないが、あからさまに隠されるのも何だかモヤモヤする。僅かに膨れて膝を抱えていると、ふと顔を上げた雄大と目が合った。次の瞬間「いや別に何でもないから!」と早口で言われて思わずムッとして言い返した。

「何も言ってないし」

「あー……うん、そうなんだけどさ」

 段々聞き取り難くなる台詞に耳を傾けると、再び頭をがしがしと掻いた彼が不意に携帯をこちらに寄越した。

「え?」

「アキラが疑う様なものは無いから」

 手のひらに乗せられた携帯と雄大の顔を見比べていると、僅かに視線を逸らした彼が「ごめん」と呟いた。

「え?」

「先に謝っとく」

 何がだろうと不思議に思いながら、手の中のそれをそっと開くと私が居た。

「へ?」

 浴衣を着た私は、カメラではない何処かを見ている。浴衣、と言う事は夏祭りの写真の筈だが、私は撮った記憶が無い。すると、これは。

「……ごめん、黙って撮って」

 やはりそうなのか。でも、別に隠し撮りなんてしなくても、言ってくれれば写真ぐらいいくらでも一緒に撮るのに。そう言うと雄大は、両手で抱え込んだ頭を立てた膝の間にすっぽりと埋めた。

「写真撮っても良いかなんて訊くのが恥ずかしくてさ……」

 顔は大きな手に覆われていて見えないけれど、耳が赤く染まっているのが見えて鼓動が速まる。ドキドキと踊る胸元をきゅっと握って「あの」と小さな声で呼び掛けると、下から窺う様な瞳がちらりと覗いた。

「私も欲しい」

 怖ず怖ずと告げると、顔を上げた雄大がキョトンと瞬きをした。

「え、これ? あー……じゃあ添付して送る」

 携帯を開いてカチカチと操作をし始めた雄大を遮った。

「違うの、そうじゃなくて」

 慌てて止めると、不思議そうな瞳に捉えられて頬が熱を帯びた。熱い顔が恥ずかしくて片手を口元に当てて「そうじゃなくて」と言葉を重ねた。

「私も、ユータの」

 そこまで言って言葉に詰まる。確かにこれは相当恥ずかしい。おまけに瞳を丸くして見つめられてしまって、何とも言えず冷たい汗が一筋背中を流れた。

 雄大の顔は真面まともに見られなくて俯いていると、不意に隣に座られてギシリと音がする程に身体が硬直した。

「じゃあ……一緒に撮ろう」

 思い掛けない言葉に勢いよく雄大の方を向くと、思ったよりも近くに彼の顔が有ってドキンと心臓が跳ねた。見つめたまま固まっていると、ふと距離が詰められて唇が温かい吐息に包まれた。勿論、ドアは開きっ放しだ。見つかったらどうしようかと思うと、いつも以上に動悸が激しい。雄大と触れているところが痛い程にどくどくと波打っている。

「……すげーな、ドキドキ」

 そっと離れた雄大に親指でぷにっと下唇を押さえられて顔から湯気を噴いた。おそらく真っ赤であろう顔でどうしようもなく固まっていると、熱い耳に雄大の手のひらがそっと滑って暴れる鼓動が増幅した。再度ゆっくりと近付いてきた瞳にコクリと喉を鳴らして目蓋で暗闇を作った瞬間、ダイニングの方で物音がしてビクッと身体がしなる。雄大が慌てて隣から向かいに移動したのとほぼ同時に、開いていた扉の隙間から小母さんの顔がひょっこり覗いた。

「あら、まだ起きてたの?」

「……はあ、まあ……」

 言葉を濁した私たちに「ほどほどにね」と微笑んで顔が引っ込んだ。そしてパタパタと遠ざかるスリッパの音が聞こえなくなった時、詰めていた息を同時に吐き出した。

「…………寝るか」

「そう、だね」

 少々引き攣った笑顔を見合わせて小さく溜息を零しつつ、それぞれの布団に潜り込んだ。


***


「おはよー……」

 翌朝、うーんと伸びをした雄大の欠伸あくび混じりの挨拶に一瞬詰まって「……おはよ」と返したあと、着替えを抱えて彼の部屋を逃げる様に後にした。

 昨夜は再び消灯した後も、ちっとも静まらない鼓動に呑まれながら、雄大に触れられた熱い頬を手のひらで包んでいた。部屋の中に響いているんじゃないかと思う程にドキドキとうるさい心音を数えていたけれど、昼間の疲れも相俟あいまって何時いつの間にか意識を手放していた。

 しかし、未遂で終わってしまった二度目のキスの夢を見て午前5時前に飛び起きてしまい、寝直す事は出来ずにまたも踊りだした鼓動と闘っていた。おかげでどうにも気恥ずかしくて、雄大の顔を直視する事が出来なかった。

 鍵のかかる脱衣所で着替えを済ませて、少しひんやりした水でバシャバシャと洗顔をした。洗面ボウルに両手を着いて、鏡の中の濡れた顔を見つめてはーっと息を吐き出していると、「晶ちゃん?」と不意にノックされてびくっと身体が跳ねた。

「大丈夫? タオルの場所とか分かる?」

「はっ……ハイ大丈夫です……!」

 慌てて顔を拭いて外に出ると、小母さんが和やかに立っていた。

「良く眠れた?」

「ハイ、ありがとうございます」

 少々嘘だが、本当のことを言う訳にもいかず、口の端を僅かに引き攣らせつつ笑顔を浮かべて御礼を述べた。

「朝ごはん出来たからダイニングに来てね」

 笑顔を崩さず去った小母さんの後ろ姿を見送って小さく息を吐き出した後、パタパタとダイニングへと移動した。


「晶ちゃん、おかわりは?」

「え、いえ、もう……有難うございます」

 沢山並べられた美味しい朝食をお腹いっぱい戴いて、更なる小母さんの心遣いを慎んで辞退した。

「そう? 小食なのね」

 そうだろうか。自分ではそんな意識は無いし、周りの友人を見てもそうは思わないけれど、と思いながら隣を見ると、雄大が私の倍ぐらいの量をペロリと平らげていた。確かに、これが基準であれば私は小食に見えるだろう。苦笑した私に小母さんは、帰る時間までゆっくりしていってねと微笑んでくれた。本当に、昨日からお世話になりっ放しで幾ら御礼を述べても足らない。

「気にしないで、近い将来の娘なんだし」

 絶句した私の隣で雄大が盛大に咽せ返った。どうやらお茶を呑み込み損ねたらしい。

「何よ雄大、あんたが昨日宣言したんでしょう」

 ゴホゴホと言葉に成らない声を漏らす雄大に呆れた様に言った小母さんがこちらに向き直った。

「それに、高校卒業したらお世話になるしね」

 何の話だろう。キョトンと瞬きをした私に小母さんが首を傾げた。

「あら、聞いてない?」

 考えてみたけれど何の事だか分からずコクリと首を縦に振ると、小母さんが含み笑いで言った。

「大学に入ったら晶ちゃん家に下宿させてもらう事になってるのよ」

「は……?」

 下宿? 誰が?

 一瞬、坂井家が全員で越してくるのかとも思ったが、向こう10年は帰らないと昨夜聞いたばかりだ。すると。

「雄大を宜しくお願いね」

 一瞬の間を置いて「えええ……!!」と発した驚愕の声は、隣に座っている下宿予定の人と完全に重なった。若干放心したまま雄大の方を見遣ると、同じく呆然と此方を眺める彼と目が合った。

 雄大が、うちに下宿? すると、4年間同じ屋根の下で暮らすってこと……?!

 状況を呑み込んでカーッと熱が顔に昇った私につられたのか、雄大の頬も僅かに赤く染まったのが分かった。お互いを見たまま固まっていると、小父さんの軽い咳払いが耳に入って慌てて正面に向き直る。

「あくまでも志望校に受かったら、だぞ」

 念を押されて苦笑を零した雄大だが、次の瞬間ふっと不敵な笑みを浮かべて「任しといてよ」と言い放った。その言葉には何の保証も無いけれど、何だかとても頼もしく思えて胸の内が温かくなった。


***


「それじゃ、お世話になりました」

 お昼ごはんの後、小父さんと小母さんにぺこりと頭を下げて家を後にした。駅まで送ってくれる事になった雄大と並んでゆっくりと歩く。

「あー……びっくりしたよな」

 暫く経ってからボソリと言った雄大の方を見ると、気恥ずかしそうに頭を掻いていた。何が吃驚したのかは言ってないけれど、先ず間違いなく下宿の話だと思う。

「……うん」

 一拍置いて頷いた私に、躊躇ためらいがちな雄大の台詞が落ちた。

「あんまり歓迎されてない?」

 不安そうな雄大の声にふるふると首を横に振って「ううん、嬉しい」とはにかむと、僅かに瞳を泳がせた雄大が「そ、そっか」と再び頭を掻いた。雄大がどもるなんて珍しい。横目でそっと様子を窺うと、赤く染まった耳が見えて体内で鼓動が跳ねる。

 それっきり会話が途絶えて俯き気味で歩いていると、ふと手に触れられて顔を上げた。雄大は向こうを向いていて視線が合う事は無かったけれど、歩きながらゆっくりと絡む指先に鼓動が走り出す。そうして、駅まであと少しとなった処でふと雄大の足が止まった。

「ど……したの?」

 僅かに掠れる声で訊ねると、雄大がようや此方こちらを向いた。

「学校、行く?」

「え?」

 意味が分からず聞き返すと「おれの学校」と言葉が足された。雄大が通う学校。是非観たいと二つ返事で頷くと、緊張が解けた様にふわりと笑ってくれた。その笑顔に密かにドキドキしながら着いて行くと、程なく校舎が見えてきた。

「ここ?」

 うんと頷いた雄大から学校へと視線を移して、閉まっている校門を握った。カシャンと静かな音を立てたそれは、手のひらにひんやりとした感覚を伝える。

「誰も居ないね」

「まだ暑いからな。運動部は大体午前中で引き上げると思う」

 人影の無い其処はとても静かで、遠くで啼くツクツクボウシの声が微かに耳に届く。

「ユータは……どうしてバスケやらなかったの?」

 こちらでは部活には所属せず、バイトをしているとは聞いていたが、理由までは訊いていなかった。訊ねた私に暫く考えた雄大が「んー」と小さくうなって言葉を繋いだ。

「こっちで入っても1年ぐらいで引退だしさ」

 まあ、そうかも知れないけど。でも格好良かったのに勿体無いな、と思った私に少し淋しげに笑った。

「それに、おれは彼奴あいつらとバスケしたかったから」

 雄大の笑顔が胸にぐっと詰まって眉根を寄せると、苦笑しながら私の頭をわしわしと撫でた。

「アキラが泣くなよ」

「泣いてない」

 しかし、涙腺が弛みかけたのは事実だ。俯いて堪えた私の肩がふいにグイと抱かれて吃驚して顔を上げると、そこに眩しい笑顔が有った。

「写真撮ろう」

「へ?」

 突然告げられて瞬きを返すと、肩を抱いたまま携帯を取り出して構えた。頬がくっ付きそうな距離でドキドキしながらレンズを見つめると、程無くカシャリとシャッター音が響いた。

「ぷ、アキラ緊張し過ぎ」

 画面を見て吹き出した雄大にぷっと膨れて軽く肩をはたいた。

「もう、笑い過ぎ!」

「や、だってさ」

 肩を抱かれて密着したらそんな顔にもなるというものだ。恥ずかしくてもう一度攻撃した手はあっさり掴まれて、ふと真顔になった雄大の手にそっと包まれた。黙って握られている手から速い鼓動が全身を廻る。

 再び校庭を眺めた雄大にならって門の中に視線を移すと、雄大が「あのさ」と呟いた。

「うん……?」

「おれ、頑張るから」

 中を見据えたままの真剣な瞳を見つめていると、繋がれた手に力が篭った。

「色々頑張るから、だから」

 不意にこちらを向いた雄大の瞳から目が逸らせない。ドキドキしながら次の言葉を待っていると、ぐっと息を呑んだ雄大が「だから」と言葉を重ねた。

「ずっとおれの隣に居て欲しい」

 真剣な眼差しに鼓動が跳ね上がる。何も言えずに固まっていると、尚もじっと見つめられて、どうしようもなく視線が泳いだ。

「ずっと……って」

 漸く絞り出した掠れた声に雄大が苦笑して、私の指に自らの指を絡めてはにかんだ。

「だから、ずーっとだってば」

 両手を左右に拡げて「ずっと」を表現した雄大の手に引っ張られて私の腕も動かされる。

「……5年後も、10年後も、その先もずっと、アキラと居たい」

 これは、紛れも無くプロポーズだと思う。私たちはまだ高校生で、全然実感などは沸かないけれど、それでもなんだか10年後も当たり前の様に雄大と居る様な気がした。

「うん」

「え?」

「私も」

 小さく声を発したら目を丸くして見つめられて頬が火照る。でも、今きちんと伝えないと、次の機会など何時いつ廻ってくるか分からない。暴れる鼓動を沈める為に大きく息を吸い込んで、震える手に力を込めた。

「ユータとずっと居られるように、頑張るよ」

 私の決意表明にふっと頬を弛めた雄大と顔を見合わせて笑みが溢れる。

 繋いだ手から確かに伝わる体温を感じながら、駅へと歩みを一歩進めた。

最後までご覧いただきまして有難うございました。

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