第35話 王太子の審判
学食の中央にいた私たちの周りには、緊張した空気が漂っていた。
私が差し出したスプーンを前に、エドワード王太子はすぐには手を伸ばさず、目の前の料理――黄金色のシチューを鋭い眼差しで見つめていた。
周囲の生徒たちは、息を呑みながら、この珍しい光景を見守っている。
王族が、平民も口にする安価な『標準定食』を、公爵令嬢から直接勧められているのだ。
「エドワード殿下。まずは僕が毒見をいたします」
側近のフレデリックが申し出た。
しかし、エドワードは片手を上げて、それを制した。
「……毒見は必要ない」
フレデリックは驚いて目を見開いた。
「この香りと、厨房で働く者たちの様子を見れば、料理に細工などされていないことくらい分かる。……エスメラルダ、君は『試してみろ』と言ったな」
「ええ、殿下。論理を重んじるあなたなら、実際に確かめもせず、批判なさることはないと思いましたので」
私は不敵な微笑みを浮かべたまま、彼の手元を見守った。
エドワードはゆっくりとスプーンを手に取り、黄金色のシチューをすくい上げた。
それは、牛肉の端材と根菜をじっくり煮込み、スパイスで風味豊かに仕上げたシチューだ。エスメラルダが考案した調理法とレシピをもとに、ハンツたちが腕を振るって仕上げた自慢の一品である。
彼がそれを口に含んだ瞬間。
エドワードの喉が小さく動き、眉がピクリと跳ねた。
(美味しいでしょう! 美味しいわよね!? ふふふ)
私は心の中でほくそ笑んだ。
エドワードは切れ者だ。だからこそ、この一皿に込められた工夫に気づかないはずがない。
「……肉は端材、野菜も形が不揃いな安価なものを使っているな。だが、スパイスの組み合わせと煮込み方が、それを補っている。いや、むしろ素材の良さを引き出しているのか」
エドワードは、誰に聞かせるともなく独り言のようにつぶやいた。
彼は二口目、三口目とスプーンを進める。その所作は優雅だが、明らかに食欲をそそられているのが見て取れた。
「チャールズ。この料理の材料費は、どの程度だと思う?」
突然指名されたチャールズは、皿の中身を注意深く観察した。
「……おそらく、これまでの一般向けの食事と同程度の費用でしょう。食材の仕入れ方や調理方法を工夫すれば、さらに費用を抑えられるかもしれません。殿下、これは実に効率的です」
その答えを聞いたエドワードはスプーンを置き、私をじっと見つめた。
その瞳には、先ほどまでの困惑ではなく、次代の統治者としての真剣な関心が浮かんでいた。
「エスメラルダ。君は、高価な食材を使わずとも、工夫次第で食事の質を高められることを証明してみせた。……これが、君の考える『学びを支える環境』か」
「左様でございます、殿下。空腹や不満を抱えていては、勉強にも集中できませんわ。身分に関係なく、誰もが安心して食事を楽しめる環境を整えることは、生徒たちが学びに集中するためにも必要なことです。将来、王国を支える人材を育てるための投資でもありますわ」
私は、エドワードの隣に立つキャサリンの様子を横目でうかがった。
彼女は、王太子が平民の食事を称賛し、私の意見に真剣に耳を傾けていることが気に入らないのか、顔を真っ赤にしていた。
「……面白い。認めたくはないが、この学食の使いやすさは、現在の王宮の厨房さえも凌駕している。チャールズ、フレデリック、オリバー。君たちも、この動線と仕組みを覚えておけ」
側近たちが「はい」と短く応え、それぞれが学食の様子を観察し始めた。
フレデリックは床の滑りにくさを確かめ、オリバーは返却口での生徒たちの動きを注視している。
彼らは敵ではあるが、優秀だ。だからこそ、この改革の意図も理解できるはずだ。
「さて、殿下。お味はいかがでしたかしら?」
私が改めて尋ねると、エドワードは一瞬だけ、悔しそうな、それでいてどこか晴れやかな表情を見せた。
「……参ったな。これまで正しいと思っていた学園の『秩序』が、ひどく古臭いものに思えてきた。君の改革は、私にとって猛毒だったようだ」
最高の褒め言葉だった。
私は深く、そして勝利を確信した優雅な淑女の礼を再び捧げた。
「光栄ですわ、エドワード殿下」
学食改革は、ここに大きな一歩を踏み出した。
もはや誰も、この学食を『公爵令嬢のお遊び』と笑うことはできない。
私は、学食の隅で特待生のアーノルドが料理長のハンツと並んで、誇らしげにこちらを見ているのに気づき、密かにウィンクを贈った。
そんな私の横顔を、エドワード殿下が見つめているとも知らずに。
エドワードは、アーノルドとハンツに向けられた私のウィンクを見て、わずかに眉を寄せた。
(……今のは、誰に向けた笑みだ?)
胸の奥で、小さく、しかし確実に、今までになかったざわめきが生まれていた。
先ほどまで完璧な手腕で自分を圧倒していたかと思えば、次の瞬間には、自分の知らない誰かに向かって悪戯っぽく微笑んでいる。
かつては嫌悪の対象でしかなかったはずの婚約者が、今は目を離せない、不思議な魅力を持つ女性に見えた。胸の奥に生まれたこの得体の知れない感情が何なのか、エドワード自身にも分からなかった。
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