5、公爵夫人と新たな夫と、そのあとのこと
夫とその愛人を見送った公爵夫人は、ほんの少しだけ、昔を思い出した。昔から決まっていた婚約を容赦なく潰した夫は、それでも無邪気に笑っていたのだ。「絶対に幸せにするから」と。不本意な結婚であったことは確かだ。それでもその言葉を、公爵夫人は僅かな間、けれど本気で信じていた。それは結婚生活の中ですぐに消えてしまったが、その時だけは信じたのだ。当時、公爵夫人もまだ若かった。
夫の傲慢で横柄な態度と義両親の夫への過干渉と過保護によって、公爵家が大変なことになっている、というのは比較的早くに気がついた。すぐに手を出すことはできなかったし、若かった公爵夫人はまだ夫の更生に期待していた。だからあれこれと夫に口を出したのだが、それが原因で夫の心は徐々に彼女から離れていった。
それでも、子どもが生まれた時は純粋に嬉しかった。生まれる寸前で夫が熱病にかかり、子種ができない体となって「必ず男の子を産め!」と義両親に何度も言いつけられながらの出産でもあったが、それでも子どもは愛らしかった。
義両親が亡くなった時、公爵夫人はこれが最後のチャンスだと知っていた。だから、最後の希望を込めて夫に「どうか、話を聞いてください」と言った。けれど、彼は「貴女と話すことなんて、もう何もない」とだけ言い残して出ていったのだ。おそらく、絶対的庇護者だった彼の両親を亡くしたことが、彼の被害妄想を増長させてしまったのだろう。
やり方を間違ったと、公爵夫人は後悔した。急に話がしたいなんて言えば、夫がそれを拒絶するなんて分かっていないといけなかったのに。けれど、もう、猶予は残されていなかった。
国王が、夫を排除したがっているのも辺境伯家の三男を公爵の座に据えたがっていたのも、公爵夫人は知っていた。非公式ではあったけれど、打診をされていたのだ。「貴女の夫を挿げ替える可能性があると、覚悟しておいてほしい」と。
公爵夫人は夫と子どもを天秤にかけ、迷わず子どもを選んだ。そして時が来て、彼女の夫は挿げ替えられた。
子どもが爵位を賜るまでの間、代行という形で新しく公爵となった辺境伯家の三男は、温厚な人だった。そして、飛びぬけて優秀な人だった。前公爵が適当にこなしていた結果、不備を起こしていた多くの事業は、新公爵のテコ入れで次々と正常に動くようになった。国王の右腕として忙しくすごしながら、それでも公爵家の仕事も完璧にやっていた。公爵夫人はあまりの逸材ぶりに目を丸くしたが、養子時代の彼を知る家令などはそんな夫人を笑っていた。
「辺境伯家に戻されてからも、いつ公爵家に連れ戻されるか分からないから準備を怠るなと言われ続けましてね」
苦笑しながら軽々とそう言ってのける新たな夫に、公爵夫人はどう返すのが正解なのか分からなかった。警戒心はもうなかった。いや、ないというよりは、もうどうしようもないと諦めてもいた。彼が本気で自身や子どもを排除しようと動いたなら、もう、抵抗する術などない。せめて子どもだけはと、命乞いの文言くらいは考えてはいたものの、諦めがついていたのなら警戒するだけ無駄だということだ。
けれどと、公爵夫人は顔にぐっと力を入れた。
「旦那様がお仕事に励まれるのは結構なことでございます。国王陛下からもまた感謝状が届きましたわ。素晴らしいことです。あの子も鼻が高いとはしゃいでおりました」
「うーん、褒められている気がしませんね」
「当然です、褒めてございませんので」
「あはは」
「先日は、お休みのご予定でした」
「……急に商談が入った日のことですか」
「そうです。お休みくださる、とお約束くださった日のことです」
「はは……」
血縁だからだろうか、そっと視線を逸らす雰囲気が以前の夫に少し似ていて公爵夫人はさらに眉間に皺を寄せた。そしてそう思ってしまったことを悟らせないよう、ふうと小さく息を吐いた。
「明日の予定も白紙の筈でしたが、あの子が『釣りに連れていってもらえる』と言っていました」
「いや、休みは家族とすごすものでしょう」
「あの子は『朝から』とも申しておりました」
「早朝に出たほうが釣りやすい魚がおりまして」
「わたくしは休んでください、と申しあげているのですが」
「休んでは、いるでしょう。子どもと遊ぶなんて、休暇以外のなにものでもない」
「寝てください、と言っているのです!」
「うーん、あはは……」
公爵夫人の新たな夫は気まずげに乾いた笑いを零し、そっと目を伏せた。
「……以前にも話したかもしれませんが、僕は寝ることが不得意でして。こちらに来てから多少ましにはなったのですが、眠れない時間にやることがないのが苦痛で」
「旦那様……」
そう、新たな夫はいわゆる不眠症という病を患っていた。幼少期、本当の親だと思っていた亡き公爵夫妻から捨てられるように追い出された経験が、彼の心に癒えない傷をつけたのだ。そのせいで夜に上手く寝ることができず、それならばと勉学に励んだ結果が今の彼なのである。が、そういう話ではない。
「そう言えば、わたくしが黙ると思っていますね」
「おや、バレましたか」
「怒りますよ」
「そう言う人は、既に怒っている、なんて聞きますが……。いえ、茶化しすぎました。申し訳ない」
公爵夫人の厳しい視線に怯えて、新たな夫はすぐさま謝った。この場だけ切り取れば、仲のよい夫婦の痴話喧嘩のようでもある。けれど二人は必要だったから結婚しただけの、本来であれば何のかかわりもなかった人だ。公爵夫人は実は、最近のこういった雰囲気にどう対処すべきか分からず困っているのだが、とにかく目の前の問題を片づけねばとまた口を開いた。
「貴方に倒れられると困るのです。皆、心配しております。国王陛下も気にしてくださって、わたくしに『どうにかして寝かせるように』とお手紙をくださいましたのよ。家令など可哀想に、睡眠薬の混入まで視野に入れ始めました」
「そこで可哀想なのは僕では……」
「何か仰いまして?」
「いえ」
新しい夫は一瞬だけまた視線を逸らして、けれどすぐにそれを戻した。
「ですが、睡眠薬の類はあまり効かないのですよ」
「ええ、家令もそう申しておりました」
「……既に混入したあとだったのですね」
「あの子もきっと泣きます。貴方に随分懐いているから」
「そうであったら嬉しいですね」
「とにかく、明日の釣りは中止です」
「嫌です」
「駄目です」
「あの子が泣きますよ」
「あの子は道理を知っておりますので、話せば分かってくれます」
これは事実だ。公爵夫人の以前の夫に生き写しのような姿をしているあの子は、ひどく物分かりのいい利発な子どもだった。その分、実の父である以前の夫を軽蔑するのも早かったが、その反動のように新しい夫にはとてもよく懐いている。新しい夫も子どもが好きなのか、よくあの子を構っており、二人は既に夫人なしでも遊びに出かけるくらいだった。
「……分かりました。釣りに行ったあと、必ず昼寝をしますので」
「何も分かっていらっしゃらないようで」
「約束は約束です。破るなんてできない」
「わたくしとの約束は破っていらっしゃいますが?」
新しい夫は暫く押し黙ったあと、公爵夫人の手を取った。
「……どうか、許してください。昼寝の約束は破らないので」
「……そうやって何人の女性を泣かせてきました?」
「随分な飛び火をしましたね。してませんよ、そんなこと」
「どうだか……」
「信じてください。僕くらい潔白な男もいませんよ」
その言葉はあまりにも胡散臭い。とは、さすがに言えず、公爵夫人は盛大にため息を吐いた。決して褒められない態度だが、夫人はもう新しい夫の前で取り繕うのをやめた。以前の夫の前では、一度だって見せたことない姿だ。けれど、もういい。夫人はやけになって、ぐ、と口を尖らせた。
「……分かりました。もうお好きになさって。わたくしは下がります」
「好きにしろと仰るのなら、僕はこれから仕事を再開しますが」
そう笑いながら机を指差す新しい夫を見て、公爵夫人は怒りで体を震わせた。その衝動のままに、夫人は新しい夫の手を取る。この新しい夫は、以前の夫とは別の次元で甘えただったのだ。
「寝ますよ!」
「あはは、はい、そうしましょう」
新しい夫は、公爵夫人に寝かしつけてもらわなければ寝ないのだ。不眠症であると申告された夫人が、物は試しにと始めたのがきっかけだ。そのせいで新しい夫は「僕を眠らせたいのなら、貴女が寝かしつけてくださらないと」などとのたまうようになった。
新しい夫の考えていることは分からない。だから信頼はできなかった。以前の夫が閉じ込められたように、いつか自身と子どももそうされるのではという疑いは消えなかった。それに対抗する力も知恵も、公爵夫人は持ち合わせていなかったから。
けれど結局、公爵夫人の心配は全て杞憂であった。新たに彼女の夫となった辺境伯家の三男は、彼女と彼女の子どもを害することなくあくまで代行という立場を崩さなかった。時がくれば、爵位の譲渡も恙なく済まされた。以前の夫を蛇蝎のごとく嫌っていた国王も、王太子が育つと早々に権力を手放した。終わってしまえば、呆気ないものだった。
ただ子どもが結婚をして爵位を賜り、全てが終わった気になったかつての公爵夫人が「老後はお互い好きに生きましょう」と言ったのだが、彼女の二番目の夫は「絶対に嫌です」とそれだけは譲らなかった。と、記されている。
この二人の話は後世で、いろいろと脚色され創作され、舞台や小説のテーマにされた。大抵の場合、公爵夫人は権力者に翻弄された健気なヒロインとして描かれたが、それでも必ず好意に疎い鈍感娘、という一面も強く押しだされていた。彼女が生きていたら、きっと抗議しただろう。
けれどもう、全てが終わった話である。
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