第23話「不慮の事故」
前話の続きです。今回は、千草とJ/Kの容赦ない“対応”が中心になります。空気が一変する瞬間を楽しんでいただけたら幸いです。
直樹たちが一斉に視線を向けると、そこに立っていたのは、身体のラインに完璧にフィットした高級ブラックスーツをまとい、圧倒的な「仕事のできる女」のオーラを放つ女性――千草柊だった。
そして彼女の背後には、壁のように巨大な、身長二メートルはあろうかという白人と黒人の男が、スーツ姿で微動だにせず控えていた。早朝の薄暗い廊下だというのに、二人とも漆黒のサングラスをかけており、その表情はまったく読み取れなかった。
「あ? なんだぁ、お前誰だよ。佐々本のお気に入りのデリヘル嬢か? 金があると、こんな朝早くからデリバリーしてもらえるんだぁ。いいなぁー!」
太った男が下品に鼻を鳴らした。ひょろ高も、下卑た目つきで千草の身体をなめ回した。
「どこのお店でござるか? 拙者もこれから『なよたけ』で大儲けするゆえ、ぜひ指名させていただきたいものでござるな!」
ピキリ、と静かな空間に、何かがひび割れるような音が走った気がした。
千草の美しい顔が、見たこともないほどの強烈な不快と嫌悪で歪んだ。
「……デリヘル嬢」
千草の周囲の空気が一気に張り詰めた。彼女の内で怒りが限界を突破して跳ね上がっていくのが、離れた直樹にすらはっきりと分かった。
「……いいですか。もう一度だけ言います」
千草は奥歯を噛み締め、怒りを極限まで抑え込みながら、冷徹な大人の警告を発した。
「あなた方は出禁になりましたので、今すぐここから立ち去ってください。
また、今あなた方が無断で録音・撮影したデータは、この場で、すべて削除してください。……もし万が一にでも隠し持ったデータを使って記事や動画を作成・公開した場合、あなた方は心の底から後悔することになります。……賢明な判断をお願いしますね?」
「あぁん? デリヘル嬢風情が、何偉そうなこと言ってんだよ! こっちは仕事なんだよ、ジャーナリズムだよ! さっさと帰って、どこぞの汚いおっさんにでも抱かれてろよ、ゴラァ!」
「……っ」
あまりの暴言に、千草はふっと俯くとその長い前髪が彼女の目を隠し、それ以上言葉を発しなくなった。
「それとも、この拙者が直々にお相手して進ぜようか? 悪い話ではなかろうて」
「そりゃあいい! 俺たち、こう見えてまだ若いからさぁ、きっと満足させてやれるぜ?」
二人はゲラゲラと、下劣な笑い声を上げた。
「……カッチーン」
千草の薄い唇から、小さく乾いた呟きが漏れた。
彼女は長い髪の奥で、耳元のインカムマイクを引き寄せると、爆弾低気圧そのもののような冷え切った声でささやいた。
「――お疲れ様です。緊急の特別活動予算の申請をお願いします。……ええ、事後承認で構いません。……はい、機材の『不慮の事故』による弁償費用として、千万円ほどあれば足りるかと。……ありがとうございます。それでは、即時実行させていただきます」
「あ? なになに? 特別予算ン? これから三人で行くホテル代でも出してくれんの?」
「いやぁ、それは些か申し訳ないでござるなぁ! 代わりに拙者が、精一杯喜ばせる所存――」
ひょろ高が言い終わる前に、千草の背後にいた二人の巨漢――JとKが、一切の予備動作なく、凄まじい踏み込みで間合いを詰めた。次の瞬間、ガシッ!という鈍い音とともに、太った男とひょろ高をアパートの廊下に引きずり出すと、Jの強靭な五指が太った男の口と喉を完全に封じ、同時にKの長い手がひょろ高の頭を鷲掴みにして壁へ押さえつけていた。
「が、あ、ぐ……っ!?」
一瞬で呼吸を奪われ、次元の違うプロの急展開に、太った男とひょろ高は白目を剥きながらジタバタ暴れることしかできなかった。
「佐々本さん!」
千草の鋭い声に、あっけにとられて硬直していた直樹は我に返り、太った男の震える手から自分のスマートフォンを奪い返した。
千草は静かに、ゆっくりとアパートの廊下を歩み寄ってきた。
規則正しいヒールの音とは裏腹に、彼女の顔には、もはや隠しきれない怒気が満ちていた。千草は怒りの化身のような気配をまとったまま、顔の筋肉だけを無理やり動かして、恐ろしいほどの満面の笑みを作ってみせた。
「ええっと、何でしたっけ? デリヘル嬢? 汚いおっさんに抱かれろ? 俺たち若いからきっと満足するぜ? ……ふふ。本当に。本当に面白い冗談を仰いますね」
その般若のような笑顔を見た瞬間、JとKに拘束されていた二人組は、恐怖のあまり涙目になり、暴れるのをぴたりと止めてガタガタと震え出した。
「まず、その無断取得されたデータに関しては、こちらで安全に『破棄』させていただきますね」
千草は男たちの手から、ボイスレコーダー、一眼レフ、小型デジカメ、そして個人のスマートフォンを、さも当然のように次々と取り上げた。
「大変申し訳ありません。私、生まれつき非常に機械に疎いものでして……」
「あ」
直樹が声を漏らす暇すらなかった。
千草は、取り上げた数十万円はする高級一眼レフをコンクリートの床へ向けて、全力で叩きつけた。
パキィン!!!と、レンズが粉々に砕け散った。
「あら。大変申し訳ありません」
まったく詫びている気配のない、完全な棒読みの謝罪だった。
千草は間髪入れず、今度は床に転がったスマートフォンやレコーダーを、高いヒールの踵で正確に踏みつけ始めた。ガリッ、メキメキッ、と不快な破壊音が響く。みるみるうちに、男たちの飯の種だった最新機材が、原形を留めないプラスチックとガラスの残骸へと変わっていった。
「あぁ、重ねて申し訳ありません。私、少し貧血気味で体が弱くて……よく、ひどい立ちくらみを起こしてしまうんです。お恥ずかしいわ」
容赦なく機材の中身を粉砕していく千草の姿に、太った男とひょろ高の顔から血の気が引き、土気色へ変わっていった。
「――J、K」
千草が短く名を呼ぶと、二人の巨漢エージェントは即座に動いた。彼らは二人組の「身体検査」――いや、もはやただの「強制的な身ぐるみ剥がし」を始めた。男たちは涙目で抵抗しようとしたが、世界最高峰レベルのセキュリティを担う二人の膂力には、まったく歯が立たなかった。
「アバレナイデクダサイ。ヤブケテシマイマス。」
Kが妙にたどたどしい片言の日本語でそう言うや否や、衣服の繊維が引き裂かれる激しい音とともに、ものの数十秒で二人はアパートの廊下でパンツ一丁の無様な姿にされた。
千草によって粉々に砕かれた機材の残骸の上へ、男たちから剥ぎ取ったスカジャンや衣服、靴、そしてポケットに隠し持っていた予備のスマートフォンやSDカードが、容赦なく積み上げられていった。
すべてが一か所に積み上がったのを確認すると、千草は黒人のエージェントに向けて、これ以上ないほど優しい声で微笑みかけた。
「J、大丈夫? このところ、巧様のサポートでずっと忙しかったから。体調にはくれぐれも気をつけてね。もし万が一、急に『めまい』がしたりしたら……すぐ、その場に倒れて休むのよ? 転んで頭を打ったりしたら、それこそ大変だわ」
そう言われた巨漢のJは、サングラスの奥で千草の方を向くと、
「……アリガトウ、ゴザイマス」
と、こちらはやや芝居がかった片言の日本語で応じた。
そして
「アア……、メが、マワルゥーーー」
これまた凄まじい棒読みで呟くや否や、二メートル百キロを優に超えるその巨体を、男たちの衣服や予備機材が積み上がった山の上へ、ラグビーのタックルのように勢いよく投げ出した。
ベキバキ、と衣服の奥で残りの精密機械が完全に圧殺される音が響いた。
「まぁ! J、あれほど気をつけてって言ったじゃない。……K、早くJを助けてあげて」
「ショウチ、シマシタ」
今度は白人エージェントのKが、倒れたJの手を引いて立たせようと山へ近づいた。
「あ、そういえばK。あなた、ちゃんと巧様の前では禁煙してるわよね? 巧様が受動喫煙なんて万が一にもあり得ないし……それに、このアパートの廊下は今、とても空気が乾燥しているから、何かのはずみで、ポケットの中の『ライターの火』が機材に引火でもしたら、本当に大変なことになるわ」
「ハイ、モチロ……、アアッ!?」
――もう、ここまで来ると悪夢じみた茶番ですらあった。
KはJの手を引き起こそうとした瞬間、まるでバナナの皮に滑ったかのように、派手に機材の山の上へスライディングして倒れ込んだ。同時に、彼の衣服からシュッと散った火花が、Jの巨体によって潰された予備バッテリーの基板へ、綺麗に引火した。
ボワッ!!!と激しい赤い炎が、剥ぎ取られた衣服の山から噴き出す。
「まぁ、大変!!! 火事だわ、早く消火しないと! J、消火器を!」
千草がわざとらしく叫ぶと、Jは待ってましたとばかりに、廊下に備え付けられていた消火器を引っ掴み、安全ピンを引き抜くと、Kもろとも、パンツ一丁の男たちと燃え盛る衣類の山へ向けて、もの凄い勢いで消火剤の白い泡をぶちまけた。
プシューーーー!!!という凄まじい音とともに、廊下中が真っ白な泡で埋め尽くされ、火はもともと小さかったこともあり、一瞬であっけなく鎮火した。
静まり返った廊下に、真っ白な泡まみれになり、パンツ一丁で震える二人組の前へ、千草は信じられないほどすました顔で、まっすぐ問いかけた。
「……お二人とも、大丈夫ですか? お怪我はございませんか?」
「だい、大丈夫じゃねえよ!!! これ、どうしてくれんだよお前らぁ!!!」
太った男が泡を吐き出しながら、半狂乱で叫んだ。
「損害賠償だ! 機材だけじゃねえ、データの分も含めて、数百万、いや数千万単位で全部耳揃えて払えよ、このアマ!」
「そうでござる! 拙者の家宝の一眼レフを壊しおって! 器物損壊に暴行、まとめて警察に訴えてやるからな!」ひょろ高が、ガタガタと歯を鳴らしながら怒鳴った。
その必死の抗議に、千草は馬鹿にしているのを隠そうともしない、極めて丁寧な美しいお辞儀をしてみせた。
「それは、大変失礼いたしました。……たまたま、このアパートの不法侵入者の確認を、当物件の最高管理責任者である私が行っていたところ、不慮の事故が重なり、おもちゃが跡形もなくなってしまったようで。誠に申し訳ございませんでした」
「不慮の事故ぉ!? 違うだろ! 完全に故意にぶっ壊して、火つけたじゃねえか!」
「はて? 故意?」千草は上品に首を傾げた。
「いいえ、滅相もございません。
たまたま、私の立ちくらみが激しかったり、
たまたま、ライターの火が引火したり、
たまたま、消火活動を行ったところ、
機材が泡まみれのゴミクズになってしまった……。
すべては不幸な偶然が重なった『不幸な事故』でござる。
……あら、なんだかあなた方の口調がうつってしまいましたわ。嫌だわ、下品ですこと」
「ど、どっちにしたって損害賠償はしてもらうからな! 裁判でも何でもやってやる!」
「はい、もちろんでございます。私どもは一切逃げも隠れもしませんので、大変お手数ですが、賠償金の請求や申し立てに関しては、すべて『こちら』の窓口まで書面にて、ご連絡いただけますでしょうか」
千草は、手元のヴィトンのバッグから最高級の和紙で作られた一枚の名刺を取り出すと、太った男の泡まみれの額にぺたりと貼りつけた。
そこに刻まれていた文字を見た瞬間、太った男の目は、本日最大の恐怖で真ん丸に見開かれた。
【 イシヅクリ・サポート・アンド・サービス株式会社 総務部統括執行責任者 千草 柊 】
「……い、イシヅクリ……!?」
ネットのゴシップを扱う彼らだからこそ、その名前の持つ本当の「恐怖」を知っていた。
日本の半導体産業、果ては政財界まで裏で牛耳る『五位の会』の一角、石作の直系組織。
自分たちのような弱小ゴシップメディアなど、指先一つで文字通り社会的に「消滅」させられる、本物の怪物だった。
「あなた様のクライアント『石上』様に、名刺の裏の番号へご連絡いただくよう、どうぞよろしくお伝えください。……ああ、それから」
千草は、恐怖で硬直しながらも逃げ出そうとする二人組の背中へ向けて、これ以上ないほど爽やかな笑顔で最後のトドメを刺した。
「これまでのあなた方が行ってきた執拗な不法侵入、および恐喝紛いの取材活動ごっこが確認されましたので、遠からず、裁判所や捜査機関から、あまり嬉しくない書類が届くようですよ。……良かったですね。他社より早く、世間に情報がお届けできて」
二人は驚愕して振り返り、顔を真っ青に引き攣らせると、もはやパンツ一丁である羞恥すら忘れ、泡を撒き散らしながら、這う這うの体でアパートの階段を転げ落ちるように逃げ去っていった。
ハイエナたちは追い払われましたが、直樹にとって本当に重いのはここからです。次話では、怪物たちの円卓がついに姿を見せます。




