第93話 接近
「教会の使者として、辺境の状況を確認しに参りました」
白い法衣の男がギルドの受付に立っていた。金髪。短髪。清潔な顔。穏やかな笑顔。若い。二十代前半。肩に銀の肩当て。聖騎士の正装。
ドルクが受付の奥から出てきた。腕を組んだ。禿頭の上から、白い法衣を見下ろしている。ドルクは背が高い。白い法衣の若者より頭一つ分高い。
「……灰原カイト殿にもお会いしたいのですが」
セドリックが言った。穏やかな声。ヴィクトルの声に似ている。似ているが、深さが違う。ヴィクトルの穏やかさは深い井戸のようだ。底が見えない。セドリックの穏やかさは浅い池。底まで見える。澄んでいるが浅い。
「会うかどうかは本人が決める」
ドルクの声が低かった。門番の声。二十年間辺境を守ってきた男の声。教会の使者であろうと、ドルクの門は本人の許可なしには開かない。
俺は階段の上で聞いていた。暖炉の匂いが階段を上がってきている。薪の匂いが赤い波紋として壁に揺れた。感覚侵食。暖炉の匂いは赤い。もう分かっている。
「会う」
階段を降りた。ドルクが振り返った。「いいのか」。目で聞いている。「いい」。目で答えた。ドルクが腕を組み直した。退かなかった。カイトが会うと言っても、ドルクはその場に残っている。離れるつもりがない。
◇
セドリックの青い目が、俺を見た。
近づくと、セドリックの法衣から微かに白檀の匂いがした。ヴィクトルの執務室の匂い。大聖堂の匂い。教会の匂い。この匂いを知っている。王都の審問庁で嗅いだ匂いと同じだ。口の中に鉄の味がした。教会の匂いと鉄の味が混ざる。体が警戒を覚えている。
最初に見たのは顔だった。それから視線が下がった。首元。黒い紋様が服の襟から出ている。首を巡る黒い線。顎の下にまで達している紋様。
セドリックの穏やかな笑顔が、一瞬だけ曇った。
一瞬。瞬きほどの時間。マルクスなら見逃さなかっただろう。だが俺にも見えた。セドリックの笑顔が「停止」した瞬間。ヴィクトルの微笑みが一瞬止まった時と似ているが、質が違った。ヴィクトルの停止は「計算の再開」。セドリックの停止は「心が痛んだ」。
本気で痛んでいた。カイトの魔印を見て、本気で心を痛めている。
すぐに笑顔が戻った。穏やかな笑顔。だが、目の奥に湿り気が残っていた。同情。純粋な同情。演技ではない。
「……お辛いでしょう。教会はいつでも、あなたの救いのために扉を開いています」
救い。
浄化のことだ。だがセドリックは「浄化」と言わなかった。「救い」と言った。ヴィクトルの教育が行き届いている。浄化という言葉は攻撃的に聞こえる。救いという言葉は温かく聞こえる。同じ行為を、違う名前で呼ぶ。言葉の選び方がヴィクトルそっくりだった。
だが、ヴィクトルとは決定的に違うことがある。セドリックは本当に「救い」だと信じている。ヴィクトルの「救い」は計算された言葉。セドリックの「救い」は信じた言葉。嘘をついていない。本気で、カイトを救いたいと思っている。
本気で善意の人間は、止められない。
「救いは要らない」
「……そうですか」
セドリックの青い目が少しだけ陰った。拒否されたことへの悲しみ。怒りではなく悲しみ。
「ですが、いつでもお声がけください。教会の扉は、いつでも開いています」
セドリックが一礼した。深い一礼。敬意がある。形式的な敬意ではなく、苦しんでいる者への敬意。丁寧で、真摯で、善意に満ちた一礼。
それが一番厄介だった。
セドリックが踵を返した。ギルドの出口に向かって歩き出した。白い法衣の背中。姿勢が良い。
出口を通り過ぎる時、足が止まった。
一瞬だけ。ギルドの窓越しに外が見える位置。窓の外、通りの向こうに、ユイが立っていた。アリアと一緒に歩いていた。ユイの周囲の空気が微かに揺れている。聖属性のフィールド。風がないのに髪が揺れるユイ。
セドリックの青い目が、ユイを見た。
二秒。三秒。それからセドリックは視線を外して、何も言わずにギルドを出ていった。
気づいたのか。ユイの周囲の聖属性に。聖騎士の訓練を受けた人間なら、聖属性のフィールドを感知できる可能性がある。気づいたとすれば、次にヴィクトルに報告する。辺境に聖属性のフィールドを纏った少女がいる、と。
ドルクが腕を組んだまま言った。「……気に入らねえな。あの顔は」
「穏やかすぎるか」
「穏やかなのはいい。穏やかで、裏がないのが気に入らねえ。裏がない人間は、自分が表だと信じてる。表だと信じてる人間は、他の全部を裏だと思う」
ドルクの言葉が重かった。二十年間、辺境で人を見てきた男の言葉。
◇
夜。暖炉の前。
マルクスが銀縁の眼鏡を押し上げた。
「あの男は危険です」
短い断言だった。データの言葉ではなかった。経験の言葉。十年間、審問局でヴィクトルの隣にいた人間の経験。
「私はデータで動きました。データに矛盾が見えたから離反できた。あの男は信仰で動く。信仰に矛盾は見えない。見えないのではなく、見ようとしない。信じることが目的だから。矛盾を見れば信仰が壊れる。壊れたくないから、見ない」
マルクスの銀縁の眼鏡が蝋燭の光を映した。蝋燭の匂いが淡い黄色の光として視界の端に揺れた。感覚侵食。蜜蝋の匂いは黄色い。
「そして、信仰で動く人間は——止まらない」
メルティアが紅茶を啜った。赤い瞳が暖炉の炎を見ている。
「マルクスの言う通りよ。ヴィクトルは計算する。計算する人間は、計算が合わなければ撤退する。セドリックは信じる。信じる人間は、結果が出なくても続ける。……どちらが厄介か、千年生きてれば分かるわ♪」
♪がついた。だが♪の中に笑いはなかった。
穏やかな笑顔の裏に、ヴィクトルの意志がある。新しい目がラスティカを見ている。
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