第94話 天界の遺跡
シアは崖を登っていた。
調和の泉から西に半日。獣道すらない岩場。メルティアの地図に「上へ」とだけ書かれた矢印がある。千二百年前に翼で飛んだ天使は、地上の道を描く必要がなかったのだろう。シアには翼がない。手と足で登る。革のブーツの底が苔に滑る。手袋が岩の角で擦り切れた。
頂上の手前で、空気が変わった。
澄んでいた空気が、急に重くなった。重いというより、密度が上がった。肺に入る空気の中に、何かが混じっている。聖属性。だがそれだけではない。魔属性も。両方が混在した空気。教会の聖域では、聖属性だけが満ちていた。この場所は違う。聖と魔が、同じ空気の中に溶けている。呼吸するだけで、胸の中の聖属性が震えた。
岩場を越えた。
遺跡があった。
◇
巨大な石柱が並んでいた。十二本。円形に配置されている。高さは五メートル以上。かつてはもっと高かっただろう。上部が折れているものが半分以上。千二百年の風雨が石を削った。天井は完全に崩落していて、石柱の間から空が見えた。青い空。白い雲。千二百年前は、この石柱の上に天蓋があったのだろう。天使たちの屋根。
壁があった。石柱の外周に沿って、半円形の壁が残っている。壁の表面に壁画。色褪せているが、まだ見える。
シアは壁画の前に立った。
天使と人間が描かれていた。金色の翼を持つ天使が、人間の手を取っている。二人が一緒に、地面に紋様を描いている。封印陣。天使が空から聖属性を注ぎ、人間が大地から支える。二つの力が合わさって、封印を作る。
壁画の天使たちは皆、金色の光を纏っている。白銀ではない。金色。教会の聖属性は白銀。天使の聖属性は金色。色が違う。教会が千二百年の間に変えてしまったのか。それとも、教会が最初から別の力を教えていたのか。
壁画の端に、一人の天使がいた。
他の天使たちと離れた位置に描かれている。赤い髪。金色の翼。だが他の天使より少し小さく描かれている。封印陣の横で、人間の男と一緒に立っている。男の顔は風化して消えている。だが天使の赤い髪は、色が残っていた。千二百年経っても。
メルティアだ。
シアの紫の瞳が潤んだ。壁画の中のメルティアは、翼を持っている。白い翼ではなく、金色の翼。天使だった頃のメルティア。今のメルティアには翼がない。赤い瞳と赤い髪だけが残っている。翼は堕天した時に失われた。
壁画の中の男。顔が消えている。名前も消えている。メルティアがラスティカの丘で語った「彼」。「名前はもう言わない。口にするたびに記憶の輪郭が減る」と言っていた。壁画の中でも、彼の輪郭は消えている。千二百年の風化が、メルティアの記憶と同じことをしていた。
壁画に手を触れた。石の表面が冷たかった。千二百年前の絵具が、指先に微かに移った。赤い粉。メルティアの髪の色。
◇
遺跡の奥に、訓練場があった。
石柱の広場の裏手。地面に紋様が刻まれた円形の空間。紋様は封印陣に似ているが、封印ではない。訓練用の紋様。力の流れを制御するための補助線。千二百年前の天使たちが、ここで調和を訓練した。
円形の中心に立った。空気の密度が更に上がった。聖と魔が同時に肌に触れている。教会の聖域なら、魔を排除する圧力がかかる。ここにはその圧力がない。聖も魔も、同じ強さで在る。対等に。
泉で感じた感覚を呼び起こした。排除しない力。包み込む力。指先に集中した。
浄化の光が出そうになった。白銀の光。十年間の教会の訓練が、反射的に浄化を発動しようとする。違う。浄化ではない。排除ではない。
抑えた。白銀の光を押し戻した。代わりに、泉の水に触れた時の感覚を思い出す。温度のない水。排除しない力。自分の中の微かな魔素を、排除せずにそのまま置く。聖と魔を、同じ場所に。
指先が光った。
白銀ではなかった。白銀と金色の中間。壁画の天使たちと同じ色。温かくて、柔らかくて、何も排除しない光。
三秒で消えた。指先が震えていた。たった三秒。だが、出た。光が出た。
翌日。五秒。
翌々日。八秒。
三日間、朝から夕方まで訓練した。食事は保存食。水は泉から汲んだ。夜は訓練場の端で毛布に包まって眠った。石の床は冷たかったが、訓練場の空気が体を温めた。聖と魔が混在した空気は、冷えない。
三日目の夕方。指先ではなく、掌全体から調和の光が出た。十二秒間。掌を広げると、光が両手の間に膜のように広がった。薄い金色の膜。温かい。何も排除しない。魔印に触れても反発しないはずの光。
だが十二秒が限界だった。十三秒目で光が消えて、膝が折れた。床に手をついた。石の冷たさ。汗が額から顎に伝った。
足りない。
三者同時操作では、シアの調和の光を「安定膜」として持続させなければならない。ユイが魔印に触れている間、ずっと。十秒以上。一つの結び目を解くのに十秒必要なら、十秒以上の持続が最低条件。今の十二秒では余裕がない。
もっと。もっと深く。もっと長く。
壁画のメルティアを見た。金色の翼。赤い髪。千二百年前の天使。この場所で、この力を使っていた。今のシアが三日かけて十二秒出したものを、メルティアは自在に使えたのだろう。
だがメルティアは堕天した。調和の力を失った。代わりにシアが取り戻す。千二百年の空白を埋める。追放された聖女が、堕天した天使の力を継ぐ。
調和の光が指先に灯った。だがまだ足りない。カイトの命の残り時間が、シアの習得速度を追い越さないことを祈りながら、四日目の朝を迎えた。
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