第14話 聖と魔
シアが目を覚ましたのは、翌朝のことだった。
宿の部屋に朝日が差し込んでいる。シアはベッドの上で身を起こし、窓の外を見ていた。紫の瞳に朝の光が映って、淡い金色に揺れている。
「体の調子はどうだ」
朝食を運んできた俺の声に、シアが振り向いた。
「……だいぶ楽です。ご飯を食べたのが、久しぶりだったので」
昨夜、シチューとパンを出したら、一口目で泣きそうになっていた。温かいものを食べたのがいつぶりなのか、聞かなかった。聞く必要もなかった。
「足の傷は?」
「まだ少し痛みますけど、歩けます」
「無理するな。あと二、三日は休んでいい」
シアが小さく頷いた。銀色の髪が肩に流れる。尖った耳が髪の間から覗いたが、昨日のように隠そうとはしなかった。この部屋の中では、隠さなくていいと分かったのだろう。
朝食のトレイを置いた。パンと目玉焼きとスープ。シアが手を合わせて、短い祈りの仕草をした。教会の習慣だ。追放されても、体に染みついたものは消えない。
「いただきます」
小さくちぎったパンをスープに浸して、ゆっくり食べている。食べ方が丁寧だった。食べ物を大切にする人間の食べ方。
◇
昼前に、シアが部屋を出た。
まだ足取りはおぼつかないが、壁に手をつきながら廊下を歩いて、宿の食堂まで降りてきた。リーゼが椅子を引いてやると、シアは小さく「ありがとうございます」と言って座った。
ロスト・エデンの三人と、シアが食堂のテーブルを囲んだ。
「体が動くようになったら、今後のことを考えましょう」
リーゼが言った。碧い瞳がシアを見ている。値踏みではなく、状況を整理する目だ。
「シア、あなたはこの先どうするつもり? ラスティカに残る? それとも他の街へ?」
「……決めていません。行く宛がなくて、ここまで来たので」
「なら、しばらくここにいればいいわ。宿代はうちで持つ。落ち着いてから考えればいい」
「そんな……迷惑をかけるわけには」
「迷惑じゃないわ。私たちも最初はそうだったから」
リーゼの声が柔らかかった。普段の凛とした声とは少し違う。自分と同じ痛みを持つ人間に向ける、静かな共感のこもった声。
シアの紫の瞳が、リーゼを見た。それから俺を見た。そしてメルティアを見た。
メルティアが微笑んだ。
「はじめまして、ちゃんと。昨日はバタバタしてたから。メルティアよ」
手を差し出した。
シアがその手を握った。
一瞬。
シアの指が、微かに強張った。
紫の瞳が揺れた。首が僅かに傾く。何かを感じ取った顔。だが、それが何なのか、自分でもうまく言語化できないでいる顔。
「……あの、メルティアさん。少しだけ、不思議な感じがします」
「あら、何が?」
「うまく言えないんですけど……温かいのに、どこか深いところが冷たいような」
メルティアの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。いつもの妖艶な笑みではない。もっと静かで、深い表情。千年を生きた存在の、本当の顔が覗いたような。
すぐに戻った。
「よく言われるわ。冷え性なの♪」
シアは首を傾げたまま、だがそれ以上は追及しなかった。手を離す。メルティアの笑顔を信じたのか、それとも今は深入りすべきでないと判断したのか。
おっとりして見えるが、勘はいい。そして、踏み込むべきでない場所を嗅ぎ分ける嗅覚がある。教会で育った人間は、人の秘密に慣れているのかもしれない。
◇
午後、シアの足のリハビリを兼ねて、街を歩いた。
秋の日差しが心地いい。ラスティカの大通りは賑わっていて、露店から焼き栗の甘い匂いが漂っている。シアは露店を一つ一つ見ながら、紫の瞳を輝かせていた。
「こんなに色々なお店があるんですね……教会にいた頃は、外に出ることがあまりなくて」
「辺境の街だが、市場は充実してる。北方の鍛冶と南方の交易品が集まる場所だからな」
「あ、あの……あの果物、何ですか?」
「リュカの実だ。この辺りの特産品。甘酸っぱいぞ」
シアが目を丸くしている。十六年間、教会の中で過ごしてきた少女にとって、市場の賑わいは異世界のようなものだろう。
リーゼは先に宿に戻って装備の手入れをしている。メルティアは「香辛料を見てくるわ♪」と市場に消えた。また十二種類買ってくるのだろう。
二人で歩いている時だった。
シアの足が、止まった。
「カイトさん」
声が変わっていた。さっきまでの穏やかな声ではない。低い。静かな、だが確かな緊張が混じった声。
「……あなたの左腕。何か、あります」
心臓が跳ねた。
シアの紫の瞳が、俺の左腕を見つめていた。袖の上から。布の下に隠れた魔印を、透かして見ているかのように。
「さっきから、気になっていました。あなたの左腕の周りに……暗い渦のようなものが見えるんです。聖女の感覚で」
受動感知ではない。シアは俺に「意識的に集中」して感じ取っている。走査感知。聖女の力を持つ者にしかできない、魔の気配の探知。
「それは……とても深くて、重くて。人間が本来持つ魔力じゃない気配がします」
シアの紫の瞳が、俺の顔を見た。
「あなた……悪魔と契約して、いるの?」
静かな声だった。怒りも恐怖もない。ただ、確かめている声。
周りには街の人間がいる。だが、雑踏の中では聞こえない。シアの声は、俺にだけ届くほど小さかった。
逃げることはできた。嘘をつくこともできた。
だが、この少女に嘘をつく気にはなれなかった。
教会に追放されて、一人で何日も歩いて、辺境に辿り着いた少女。半エルフだからという理由で聖女の称号を剥奪された少女。世界に嘘をつかれ続けてきた少女に、これ以上嘘を重ねる権利が俺にあるとは思えなかった。
「……ああ、その通りだ」
左腕の袖を、少しだけまくった。
魔印。肘を超えて上腕まで広がった黒い紋様。日の光の下で見ると、紋様が微かに脈打っているのが分かる。
「悪魔に魂を売った。全属性魔法を手に入れるために。蔑むなら蔑んでくれ。それだけのことをしてる自覚はある」
シアの紫の瞳が、魔印を見た。
数秒間、何も言わなかった。紫色の中に、いくつもの感情が通過していくのが見えた。驚き。衝撃。だが、嫌悪はない。
シアの唇が開いた。
「……蔑まない」
声は震えていなかった。
「私も、人に蔑まれてきた側だから」
その一言に込められた重さを、俺は正確に理解した。
半エルフだから蔑まれた。聖女の力を持っていたのに、血の半分が人間ではないというだけで、神に仕える資格がないと言われた。
蔑まれる側の人間は、蔑まない。その痛みを知っているから。
「……ありがとう」
「お礼を言われることじゃないです。だって、カイトさんは私を助けてくれたでしょう? 半エルフだって知っても、見捨てなかったでしょう?」
「当たり前だろう。耳の形で人を見捨てるやつの方がおかしい」
「……そうですね。本当に、そうですね」
シアが微笑んだ。泣きそうな笑顔だったが、泣かなかった。昨日より、強い顔をしていた。
「あの、カイトさん。一つだけいいですか」
「なんだ」
「腕を、見せてもらえますか。もう少し近くで」
迷った。だが、シアの紫の瞳に怖いものはなかった。好奇心でもない。もっと真剣な、何かを確かめたい光。
袖をまくった。魔印の全体が露出する。黒い紋様が、日の光の下で脈打っている。
シアが両手を伸ばした。
「触っても、いいですか」
「……ああ」
小さな手が、魔印の上に置かれた。
冷たい手を予想していた。だが違った。温かい。だがそれは体温の温かさではない。もっと深い場所から来る温もり。光の手触り。聖属性の魔力が、シアの掌を通して流れ込んでくる。
魔印が、反応した。
黒い紋様がびくりと震えた。脈動が速まる。だが、痛みではない。むしろ逆だ。シアの手が触れている部分だけ、魔印の脈動が穏やかになっていく。
波が引くように。嵐の海に凪が差すように。
「……え」
シアの紫の瞳が見開かれた。
「魔印が……落ち着いてる」
「ああ。感じてる。お前が触った部分だけ、脈動が止まった」
シアの聖属性の魔力が、魔印の侵食を抑えている。聖なる力が、魔の力を打ち消すのではなく、鎮めている。
シアが手を離した。魔印の脈動が、ゆっくりと元に戻っていく。だが、さっきより静かだ。完全には戻っていない。聖属性の残滓が、魔印の上に薄い膜のように留まっている。
「……聖属性の魔力が、魔印の進行を抑えている」
ノアの声が、外套の中から聞こえた。小さな声。シアには聞こえていないだろう。
「一時的な効果だろうが、面白い。聖と魔は対立するだけの関係ではないのかもしれん」
シアの紫の瞳が俺を見上げていた。驚きと、それから別の感情が浮かんでいた。使命感に似た何か。
「カイトさん。私の力が、あなたの役に立てるかもしれません」
「……シア」
「聖女の力は、人を癒やすためのものだと教わりました。教会は私の力を否定しましたけど、力そのものは消えていない。その力が、あなたの痛みを和らげるなら」
シアの声が、静かに強くなった。おっとりした少女の声の中に、芯のある響きが混じっている。
「それなら、私はここにいる意味がある」
その言葉の重さを、俺は分かっていた。
追放されて、行く宛がなくて、ここまで流れ着いた少女が、「ここにいる意味がある」と言った。居場所を見つけた人間の声だ。
「……シア。お前がよければ、うちのパーティに来ないか」
口から自然に出た。だが、出た瞬間に、これは正しい判断だと思った。聖属性の回復役はロスト・エデンに足りないピースだ。そして何より、この少女には仲間が必要だ。
「え……」
「回復役がいない。リーゼとメルティアにも聞かないといけないが、たぶん反対はしないと思う」
「私が……パーティに?」
「追放者のパーティに、もう一人追放者が増えるだけだ。ちょうどいいだろう」
シアの紫の瞳が大きく揺れた。唇が震えている。
泣くかと思った。だが、泣かなかった。
代わりに、笑った。
「……はい。ぜひ、お願いします」
笑顔だった。昨日の涙の跡がまだ残った頬で、紫の瞳を細めて、銀の髪を秋風に揺らして。十六歳の少女が見せる、ごく普通の、ただの笑顔。
それが、こんなにも綺麗に見えるのは、きっとこの子がずっと笑えなかったからだ。
◇
宿に戻って、リーゼとメルティアに話した。
リーゼは一瞬だけ考えて、すぐに頷いた。
「回復役は必要だと思ってた。シアの人柄は昨日で分かってるわ。賛成」
メルティアは微笑んだ。
「もちろん♪ 賑やかになるわね」
赤い瞳が、一瞬だけシアを見た。あの「何かを確かめるような」目が過った。だがすぐに消えて、いつもの笑顔に戻る。
シアがギルドに冒険者登録をした。
受付の男がシアの書類を見て、無愛想な顔のまま言った。
「半エルフか。珍しいな。だが辺境じゃ関係ねぇ。腕があるかないかだ」
シアが小さくお辞儀をした。
「よろしくお願いします」
「ロスト・エデン、メンバー追加。灰原カイト、リーゼロッテ・フォン・シュタイン、シア・ルナティーク。同行者:メルティア。以上、三名+一名」
書類に判が押された。インクの乾く匂い。第6話のパーティ結成の時と同じ匂いだ。
あの時は二人だった。今は四人になっている。
酒場に戻った。四人分のジョッキが並ぶ。シアだけリンゴ水。
「ロスト・エデンへようこそ、シアちゃん♪」
メルティアがジョッキを掲げた。
「シア、でいいです。シアちゃんは恥ずかしいので……」
「駄目。シアちゃん♪」
「……」
シアが助けを求めるように俺を見た。
「諦めろ。あれは止められない」
「リーゼさんもシアちゃんって呼ばれてますか?」
「リーゼちゃん」
「……」
「最初は抵抗したわ。無駄だったけど」
リーゼが遠い目をした。
四人で笑った。
窓の外から午後の日差しが射し込んでいる。テーブルの上に、四つのジョッキの影が並んでいた。三つだった影が、四つになった。
ロスト・エデン。失楽園。
追放者が、また一人増えた。楽園は広がっている。
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