コール・アップ
1948年の夏、突如としてクロークハッチ・チェッカーズの人事が変更された。
監督がビル・ヘイマンから、ジェイコブ・フューリーになったのである。突然の発表にファンは戸惑ったが、それは球団の内部でも同じだった。
「いや、まさか本当に通るとは……」
ゲーリック・トラバースは、カーター・フレイマンに電話口で愚痴った。
受話器の向こうのカーターも、同様の反応を見せている。そして半ば冗談、半ば真剣に、皮肉っぽい口調で
「球団の奴らは酔っ払った俺と同等なのか?」
と、言った。
ゲーリックは否定ができない。
いや、むしろカーターが言い放った「ジェイコブが監督になるべき理由」と比べると、球団が下した判断の方が稚拙な印象だった。
「正直に言えばジェイコブ就任の意図は、ファンの機嫌を取るためだろうな」
「ジェイコブには言うなよ?」
「言わない。とは言っても、あいつなら自分で気が付くだろう」
ゲーリックは、ジェイコブの感性はそこまで鈍くないと知っている。
「しかし、だ」
カーターは話題を切り替えた。
「ジェイコブも自由には動けなくなるだろう? これからは俺たちで頑張るしかないな」
ゲーリックも、それには同調した。ただ始まったばかりの時とは違って、複数人の協力者が存在しているのだ。
「以前よりは、心配しなくて良い気がするがな」
「ああ──まずは、ジェイコブが躓かないことを願うばかりだ」
2人はそのまま、今後の予定を話し合った。
──・──・──・──
「しつこいですよ」
ジェフ・オーガスタは、ロラン・バークライの息子であるラルフ・バークライの元に、定期的に訪れていた。時に無視をされ、時に言い争いになったが、ジェフは根気強くラルフと顔を合わせた。
この日も足を速めて立ち去ろうとするラルフを、追いかけていた。
「少しくらい話を聞いてくれても良いだろ?」
「自分にとっては無駄です」
「聞きもしないで無駄なんて言う方がどうかしてるぜ? もうお前も26なんだろ?」
自分の年齢を引け合いに出されたラルフは、怒鳴るようにジェフへ詰め寄った。
「何が、どうかしてるだ! いつまでも俺に付きまとうアンタの方がどうかしてるだろ!」
唾を浴びながら、ラルフの言葉を聞いたジェフは
──こいつもガキくせぇな
と思いながらも
「じゃあ、せめてお前の母親に合わせてくれ。ロランの家族がどうしてるのか、俺だって心配なんだ。息災にしてるかくらい確かめても良いだろ?」
と、ラルフに譲るような形で提案した。
ラルフはこの提案を、
──さすがに母親への好意を無駄にすることはできないだろう
と思ったのか、渋い表情で承諾した。
そのまま、彼らがいま住んでいる家に向かった。
小さな町のアパートメント。ジェフから見ると、ロランの家族がこれだけこじんまりと過ごしていることが信じられない。
「ただいま」
ラルフが玄関で言った。部屋の奥にいる母のリリーに対して放った言葉である、とジェフは理解した。
奥から、女性の声が返ってくる。
「ああ、帰ってきたの? 今日もお疲れさま」
聞き覚えのある声では無いが、リリーで間違いないだろう。ラルフに先導される形で、ジェフは部屋に上がった。
「ラルフ……その人は誰?」
リビングにいたリリーは、ジェフの姿を見て固まった。
ジェフもリリーの姿を見聞きしたことがないから、思わず彼女を凝視した。
ラルフは何も言わない。
──勝手に来たんだから、自分で挨拶しろ
ということなのだろう。
ジェフは、特にラルフの態度に苛つくことなく、目の前のリリーに自己紹介を始めた。
「ああ……チェッカーズにいたジェフ・オーガスタって言うんだ。あんたの旦那だったヤツとは、チームメイトだった」
この言葉を聞くなり、リリーは目を泳がせた。彼女の表情を見たジェフは
──ラルフみたいに、俺たちを嫌ってはいないか
と考えた。
「ロランのもとの家族がどうしてるのか、この目で確かめたくてな。わざわざ、来させて貰った」
ジェフは自分の目的があくまで個人的なものであり、リリーたちを気遣った行為なのだと告げた。
ここで「ロランのことを知るため」と言ったら、2人を反発させるかもしれない。その直感もある。
「そう……ラルフのご友人?」
「いや、コイツには道案内をお願いしただけだ」
リリーはラルフの方を睨んだが、ジェフに対しては警戒しつつも
「まあ良いでしょう。そちらにお掛けになって?」
と言って、向かい側にあった椅子を手で指し示した。
「わざわざ、殊勝なお心がけですね?」
リリーの言葉には棘がある。
ジェフのことは、怪しげな男としか見ていないだろう。その位のことは目だけで解った。
「もとの仲間として、ちょっとは気に掛けないといけなくてな」
「夫とは、どんなご関係で?」
──夫?
リリーの発言に違和感があったが、ジェフは会話を続けた。
「ロランはキャッチャー、俺はピッチャーでな。よく球を受けて貰ってた」
──幾らでも言えるわね
という反応を、リリーは見せた。ロランがチェッカーズでキャッチャーをしていた、などという情報は、容易に手に入れられると思ったのだろう。
「ああ、そうだなぁ……」
ジェフは腕組みをして、何とか信用させることはできないかと考えた。
実際にボールを投げてしまうことが手っ取り早く思えたが、あいにく受ける相手がいない。
それだったら、ロランがロッカールームで家族のことを何か話していなかったか、と思ったが、ロランは職場に家庭を持ち込まない人間だった。
──難しいな
しばらく考えたが、妙案が思い浮かばない。
このままではリリーかラルフが痺れを切らす。ジェフは、単純にチェッカーズ時代の思い出を話した。
「ロランは、ピッチャーとのコミュニケーションが上手くてな。相手によって態度を変えられる人間だったよ。俺みたいにバカには解りやすくビシッと言うし、カールとかジャスティンみたいな臆病なヤツには優しく当たる。プライベートなことは話さなかったが、チームの中でロランがいなかったらヒドイことになってただろうな」
ジェフは自慢げに話した。リリーはさっきより、若干前のめりになっているように見えた。
「まあ、ほら。アイツは仕事人間だろ? 俺たちに話しかけるときも、チームのためって感じでさ。あんまり素のロランってのを見たことがなかったな。俺の勝手な想像だが、たぶん、アンタたちもそうだったんじゃないか?」
「そうかも、しれないわね」
リリーが口を開いた。ジェフは相槌を打った。
「だよなぁ? なんていうんだろうな。良いヤツなのか、悪いヤツなのか、分からない時があるんだよな。でも間違いなく、アイツがいたことが俺たちにとっちゃあ素晴らしいことだったよ」
ジェフはつい、ロランをアイツ呼ばわりしたが、リリーが不快そうな表情を見せることはなかった。それどころか
「あの人、チームのことばっかりで家を顧みなかったのよ?」
と、わざわざ欠点と言えることをあげつらった。
言っていることは非難の言葉だが、口調はことのほか明るい。
「ああ、わかるよ……ロッカールームでも家族の話をしちゃくれねえ」
「でしょうね」
「俺の母ちゃんが作るミートパイがマズイって話をしても、ロランは同じように家族の話をしてくれはしないんだよなあ」
「そんな話までするの?」
「いやあ、もう。ロッカーの中じゃ俺たちだって愚痴ばっかりだぜ?」
いつの間にか、2人はお互いに身を乗り出しながら会話をしていた。
ジェフはリリーの明るい表情を見て
──ああ、コイツも誰かとロランの話をしたがってたのかな
と、察した。
──なら
今度はジェフから、リリーに訊いた。
「なあ。アンタらも思い出のひとつやふたつ、有るんじゃないのか?」
「そうね……」
考えこんだリリーは、ラルフに視線を送ったあとで、ジェフに話し始めた。
「多いような少ないような、そんな気がするわ。そもそも、私たちは学生時代からの付き合いだったのよ? それなのに思い出が少ない気がするなんて……」
「そうか? でも、言われてみりゃあなぁ……俺たちにとっても、ロランとは思い出づくりの相手じゃなかったな」
「あなたたちにとって、ロランは必要だったかもしれない。でも、当時の私にとっては必ずしも必要な存在じゃない。むしろ邪魔だったの」
「邪魔か。そういう印象は持てなかったが、まさか、あんたらを虐めたりしてたのか? それだったら──」
「そんなことない。でも、自分が孤独に感じることは多かったわね」
「孤独かぁ」
「ええ。彼が家に居ないときも、彼が子供と触れ合っているときも、彼と話している時だって、常にそう。私と彼の間には埋めがたい距離があるの」
「でも、学生時代からの付き合いなんだろ? それだったらある程度、距離は近いはずだが?」
「違うのよ。学生時代から相手のことを知ってるから、努力を怠ったの」
「そういうこともあるもんなのか」
「ある意味、噓を吐き続けてたのね……家の中で喧嘩をすることすらなかったのに、勝手に嫌われているなんて思って。いろいろなしがらみに囚われず、普段から正直に、私を見てって、言っておけば良かったのよ。そうすれば──あなたたちの言った通りの人なら、私を放ってはおかなかったはずよ」
ジェフは少しばかり笑って頷き、リリーに
──そのとおりだな
という気持ちを伝えた。
ジェフはその後、リリーにチームでのロランについて、できる限りのことを話した。
選手としての実力、持ち得ていた類稀なリーダーシップ、それぞれのメンバーとの関係性。リリーはその全てを興味深そうに聞いた。彼女の知らない、かつての夫の姿である。
「彼、仕事と家庭は分けてたのね」
「そうなんだろうな。ロランはそれぞれに関係のない話題を持ち込むのが嫌いだったんだろ」
それが結局、ロランとリリーの仲を引き裂く要因にもなったのだろう。ジェフも察している。
リリーが溜息をついた。
「どうした?」
「いえ……彼自身、家族を愛していなかったわけじゃない。むしろ深かったんでしょうね。でも、それが仇になることもあるのかなって」
「そうか? 俺にはそうには思えないぞ」
「当時のラルフに対する触れ合い方を見ると、そう思えるの。愛情を注ごうと思いすぎると、盲目になるのよね。私もそうだったし……」
リリーが過去を懐かしんだ瞬間、ラルフが口を挟んできた。
「母さん。この人の話を信じすぎでは? 僕には信じることができない」
二人の目が、ラルフに向いた。
──まだ、そう言うか
ジェフは言い返そうとしたが、リリーが首を横に振った。
「私は、この人が来てくれてよかったと思ってるわ。あなたは私がロランに苦しめられたと思ってるかもしれないけれど、それは違うのよ」
「そんなわけないだろ。実際、母さんは父さんの行為に耐えかねて家を出たじゃないか」
「確かに、当時はね。でも、ロランが死んでから気付いたのよ。あの時は、私から歩み寄ることもしなかった。ロランも悪いところはあったけど……でも、結局は2人とも悪いのよ」
「そう思うのは、母さんのバイアスだろ? とにかく俺は、信じない」
ジェフは黙っていられなかった。
実の母親の反省を、どういう経緯があったにしろ「バイアス」という言葉で否定したラルフの行為に、苛立ちを隠さなかった。そして
「おい、坊主。ちょっとキャッチボールでもしようや」
と、口から発した。
「リリー、近くに公園は?」
「ええ、あるけど」
「よし、じゃあ行こう。グラブとボールぐらい、すぐに見つかんだろ」
公園の近くのスポーツショップでグラブとボールを手に入れたジェフは、ラルフとリリーを連れて公園に向かった。
「なかなか良い公園だな」
広場の広さに満足したジェフは、さっそく準備運動として肩を回し始めた。
嫌がるラルフに無理やりグラブをはめさせ、10歩程度離れると、ゆったりとしたフォームでラルフの方へ投げ込み始めた。
「危ないだろ!」
「その割には、しっかり捕れてるじゃないか。やってただろ?」
ジェフも元は野球のプロ選手である。その人の動きで、経験者かどうかは判別がついた。
ラルフも、母親の前だからかボールは返してくる。
そうして2人の間でボールのやり取りが続き、体が温まってきたころ、
「よし──じゃ、力入れるから、ちゃんとボール見とけよ!」
と、ジェフは腕を振りかぶった。
次の瞬間、火の玉のようなボールがラルフの方へと飛んで行った。これほどのボールを、素人のラルフが捕れるわけもない。
ラルフはボールを避け、後ろへとボールを逸らした。
はるか後方に飛んで行ったボールを見て、ラルフは声を荒らげた。
「あんた……事故を起こす気か!」
その言葉を、ジェフは否定しなかった。
ラルフは詰め寄ってきたが、ジェフは動じることなく話した。
「怖かったか?」
「怖い? あんなものが体に当たったら怪我するか、下手したら死ぬだろ! 避けるのは当たり前だ!」
「そうか……」
ジェフは呆れた表情をした。そして言った。
「それを何千、何万回と受け止めてきたのが、お前の父親なんだよ。確かに怖いかもしれねぇし、怪我をするかもしれねぇ。ただ、逃げることはしなかった。少なくとも、怖いから捕れませんなんて、言わねぇんだよ」
ラルフは呆れたのか、気圧されたのか、反論しなかった。ジェフは続けた。
「キャッチャーが下手くそだと、ピッチャーの人生も変わる。キャッチャーが取ってくれて、初めて投球が成立するんだ。それに、ランナーがタックルしに来るときもある。場合によっちゃ大怪我だ。それでも、ロランはその辛さをおくびにも出さねぇで、チームメイトを常に気遣ってた」
ラルフは言葉を発しない。
「少なくとも、だ。頭でっかちで、自分の正しさを証明するために親を否定したお前よりも、体張って仲間を庇い続けたロランのほうが、ずっと優れてる」
ジェフはそのまま、遠くへ飛んで行ったボールを取りに行った。
ボールを拾い終え、リリーとラルフの元に戻ってきたジェフは、ベンチに座っているリリーの横に座ると、リリーに話しかけた。
「ああ……リリー。さっきはロランのことを褒めちぎったが、あんたが抱えてるもんを否定する気はない」
「そんなこと言わないで。私は、もうだいぶ前に割り切ってるから」
「そうか。そうだと、俺も嬉しいよ」
「でも──すごく懐かしかったわ」
「あ? 懐かしい?」
「ええ。ラルフに説教してる時のあなた、学生時代のロランに似てたから……」
そういうリリーの目が、輝いて見えた。
──・──・──・──
ゲリック・バードの居場所は、ここまでわからなかったわけではない。
何年か前にはわかっていたが、連絡を取っても
「まだ会うには早いです」
と言って、かつての仲間が来訪することを拒んでいた。
方々へ連絡する役目をとっていたゲーリックは
──やっぱり、仲間に会うにはハードルがあるか?
と思いつつも、その口調が明るく、自分たちのことを拒否しているようにも思えなかったから、多少は楽観的に見ていた。
自分たちの年齢も考えると、早く会っておきたいという気持ちも、当然ある。
冬に入った頃、1本の電話が掛かってきた。
電話に出てみると、紛れもなくゲリック本人からの電話だった。
「ずいぶん待たせてしまって、すみません。やっと会えるだけの準備が整いました」
──何年もかかる準備。何だろうか?
ゲーリックは疑問を持ちながら、彼と会うための準備をした。
ゲリックは今、生まれ故郷の港町で過ごしているのだという。
生家とは別の住居らしいが、何日かに一度、海岸で釣竿を垂らすのが習慣になっているとも言っていた。電話口から聞こえた声の調子から見るに、充実した生活ができているようである。
──ならばなおさら、会わなかった理由がわからない
ゲーリックはそう思いながら、内陸にあるクロークハッチから車を走らせた。
ゲリックの住居に着いた。3階建ての建物の、いちばん上層の階がそうである。
来客を知らせるベルを鳴らしたが、すぐには来ない。
──まあ、用事があるかもしれないしな
暇潰しの道具は無い。港町特有の匂いと景色を眺めながら、ひたすらに待った。
何分待っただろうか。
今日、ここに来ることは伝えていたはずだが、反応が無い。
──出直すか?
そう思ってこの場を立ち去ろうとしたとき、建物のドアが開いた。
「やあ、ちょっと準備に手間取ってしまって……」
そう言いながら出てきたのは、間違いなくゲリックだった。
「本当だぞ? いま、帰ろうと思ってたんだから」
ゲリックは、少し照れ臭そうに笑った。
住居のある3階に案内されるとき、ゲリックの身のこなしに違和感を覚えた。
片方の足に寄りかかるようにしながら、大きな音を立てて歩いている。足が不自由になっていると、すぐに分かった。
部屋の中に入ると、ゲリックは
「どうぞ、そこにお掛けになってください」
と言って椅子を指し示し、自身は電話をかけ始めた。
──このタイミングで?
ゲーリックはなお疑ったが、彼はむしろ、予定通りという態度でいる。
「トールか? ……──ああ、来てくれたよ ……──そうだな。少し話したらすぐ行く」
そんな言葉を聞きながら、椅子の上で待つ時間があった。
「失礼しました。ちょっと話すことがあったんで」
ゲリックは受話器を置くと、すぐに話しかけてきた。
「ああ。いったい何を企んでるんだ?」
「……それを話す前に、ちょっとお話しておきたいことがありましてね」
ゲリックは、ずいぶん勿体ぶった態度をしている。
「なんだ? 話しておきたいことって」
「いや、まあ、自分のことなんですが」
「──脚のことか?」
「はい。実は、戦時中に左脚を失いまして」
「そうか。大変だっただろ」
「当初は大変でしたが、今はもう不自由ありませんよ。さっき、ずいぶん待たせてしまったのも、義足を着けるのに手間取って、挙句に焦りから杖を忘れたせいで……」
「そこまで焦らなくても良かったじゃないか」
「いや、久しぶりにチェッカーズの人と会うと思うと、はしゃいでしまったんですよ」
そうか、と言うこともできないが、ゲリックと話を合わせてみようと思った。
「そこまで喜んでくれるのも、嬉しいよ」
「いえ、こちらこそ。それでなんですが──これから外に出ようと思うんです」
「良いのか? 体は」
「全然。普段から外出はよくしていますし、それに友人と待ちあわせをしているんで」
「そうか……なら、お願いするよ」
2人はさっそく、待ち合わせをしているという場所に向かった。歩きで行くと負担が増えるからと、土地勘のあるゲリックの案内に従って、球団から走らせて来ていた車を走らせた。
たどり着いたのは、町の一角にある巨大な空き地である。
寂れた場所だから、本当に友人が待っているのか疑いを持ったが、ゲリックの歩調に迷いはない。
2人は車を降りて、空き地の中に入ると、空き地の奥でゲリックの友人を待った。
世間話をしていると、3人の男女が連れ合わせて空き地に入ってきた。
その姿を見たゲリックは、その3人に向かって
「おい! こっちだ!」
と声を上げ、向こう側から歩み寄ってくる3人も
「すまん! 待たせた!」
と言いながら、こちらににこやかな表情を向けた。
「みんな。こちらが、チェッカーズ時代にお世話になったゲーリックさんだ」
ゲリックが3人に対して来客を紹介をすると、3人のうち、体格に優れた男性が握手を求めてきた。
「どうも。私はトール・リッチモンドといいます。わざわざ、お越し頂きありがとうございます」
雰囲気が良い。握手を交わした後、ゲリックは残りの2人に対しても説明を加えた。
「こちらがトールの妻のジュリアン。こちらが幼馴染のトミーです」
皆でそれぞれに挨拶を済ませると、ゲリックが本題を切り出した。
「実は、ちょっと披露したいことがありまして」
ここまで来たのであれば何かあるのだろう。そうは思ってはいたが、ゲリックの意図していることに見当は付かない。
「見てもらうのが早いだろ? ほら」
トールがゲリックに差し出したのは、現役時に使っていたよりも、少し太めのバットだった。
トールの手には、トミーからボールが手渡されている。
──まさかな
思ったのも束の間。
あるていど距離を取ったトールから、ゲリックへとボールが投げられた。それも、かなり速い。
──さすがに無理があるだろ
そう思いながらも光景を凝視していると、ゲリックがバットを振るのが見えた。
左脚が無いはずなのに、現役時代に幾度となく見てきた、柔らかいスイングだった。フォームは違うが、それにも拘らず「変わらない」と言わせるだけの美しさがある。
ゲリックが打ち返したボールは、トミーの前で優しく弾んだ。
「よし! じゃあ、次はこっちな!」
ボールをキャッチしたトミーは、そのボールをジュリアンに渡し、自身の位置を変えた。
ジュリアンからトールにボールが返されると、再び同じことを繰り返した。
トールからゲリックへ。ゲリックからトミーへ。トミーからジュリアンへ。そして、ジュリアンからトールへ。
それを6度繰り返して、4人が返ってきた。
──信じられない
ゲーリック思っていた。左脚を失いながら、ここまでの芸当ができるとは思っていなかった。
「どうです? なかなか、上手くいったと思うんですが……」
ゲリックの言葉に、肯くしかなかった。
「ああ。しかし……どうして、ここまで?」
「もともと、野球で集った人間同士です。自分がサボってたことが知られたら、恥ずかしいですから」
──・──・──・──
ゲリックが、左脚を失った今も野球をしている。
そのことを知り、喜びを覚えてから1年近くが経った。
カーターはいま、カール・フォスターに会いに行こうとしている。
いままでカールの家族にコンタクトは取れていたが、なかなか場所を聞くことはできなかった。詳しく話を聞いていると
──廃人同然になったカールのことを、他人に知られたくなかった
とか
──彼を庇って共に家を出た兄のバリーと、連絡をほとんど取れていない
とかの事情が浮き彫りになってきた。
厄介だと思ってはいたが、バリーの元同僚だという人物から
「彼は、郊外の町で暮らしているとか言っていました。運送業に従事しているとかも」
という情報を手に入れて、それを手掛かりに住所を突き止めることができた。
これが、1949年の晩夏である。
それから1か月半。ようやく予定を入れる余裕ができた。
距離も案外遠かったので、まとまった日程が必要だったせいもある。
とにかく、カーターは自家用車を走らせて、カールのもとに向かった。
玄関のドアの前。ブザーを鳴らすと、カールが出てきた。
カーターの姿を見た瞬間、カールは
──なぜ、お前がいるんだ
という表情を向けた。
「カーター。何をしに来たんだ?」
「そう固くなるな。少し、おしゃべりをしに来ただけだ」
カーターはカールの今の住居に上がり込み、カールの現在を聞いて、仲間たちの現状を幾らか話した。
カールはいま、糖尿病を患っているらしいが、一応は普通に生活できているらしい。
カーターとカールはお互いの無事を喜ぶこともできた。
だがそれ以上に、カールは仲間たちの話を聞いてショックを受けていた。
「いや……そうか……」
「泣くな。俺が泣かせたと思うと、ムカッ腹が立ってくる」
泣く、というのはカールらしい反応ともいえた。
だがカーターは、仲間のためにも泣いてほしくないと思っている。
「俺は……俺は仲間がいなくなったことに対して泣いてるんじゃない」
カーターは、カールから出た言葉が意外に感じて、思わず聞き返した。
「なら、どうしたんだ」
「仲間がそんな目に遭っていたのに、何年も抜け殻のようになって生きてきた」
「そうか、お前も辛かったな」
「違う。仲間やその家族が辛い思いをしてきたっていうのに、俺だけ甘えて生きてきたんだ。そのことが申し訳なくて、堪らない。すまなかった。すまなかった……」
カールが歩んできた道のりを、想わずにいられなかった。そしてカール自身が、それを糧に成長したのだとも思った。
以前までのカールだったら自分を悲観的に見て、右往左往するに留まっていたかもしれない。それが今は周りを見て、それぞれに思いを馳せられるようになっている。
それが普通なんだ。そう言われればそれまでだが、カールにとっては大きな変化だった。カーターも、わかる。
「カール。俺も、甘えて生きてきた人間だ。他の奴らの厚意に甘えて、好き勝手に生きた」
「──後悔は、必ず後から来るものなんだな」
「ああ。それが常みたいだ」
「なんだろうな。カーターからそんな言葉を聞くとは思わなかったよ」
「俺も、歳食ったからな」
「お互い様だよ……俺の兄貴と、姐さんにも会って貰いたいんだが、良いか?」
「良いのか?」
「ああ。俺の恩人のことは、知っておいて欲しいんだよ」
「なら、会わせてもらう。勝手に会って、勝手に帰るのも失礼だろうからな」
カーターはその夜、カールの兄であるバリーと、バリーのガールフレンドに会った。
カールを庇ったバリーが、どんな人物か。カーターは興味があったが、会ってみて
──なるほど。愛情な強そうな人じゃないか
と思った。お互いのことをよく話し合ってみると、バリーにも後悔があったのだという。
いわく
「自分は、家族の前で臆病だったんですよ」
ということだった。カーターは聞いてから
──どんな人でも、後悔することはあるんだな
と、自分の過去を振り返りながら考えた。
──・──・──・──
ロールス・エイブラムスの家族はどこにいるのか。それを知ることは、砂漠で真珠を見つけるほど難しい。
ロールスは生前、孤高の存在だった。他人と馴れ合いたがらず、むしろ遠ざけるような行為をしていた。
隠匿を徹底していた人間が、自分のプライベートな部分を話すはずがない。
球団に残った情報をもとにしながら、ひとつずつ事績をたどっていくしかなかった。
チェッカーズの入団前に住んでいた住居を見つけ、もともと所属していたクラブチームを伝手に情報を集め、なんとかロールスの生家の場所まで突き止めた。
しかし、その場所に行ってみると、家が建て替わっている最中だった。
ゲーリックは景色に呆然とした。
──ロールスについては、諦めるしかないのかな
そう思いながらも、まだ望みはあるだろうと近隣の人々に
「エイブラムスさんという人が住んでいたと聞いたのですが──」
と、自身の身元と事情を明かしながら聞き込みをした。すると、向かい側に住んでいた老婦人から
「ああ。向かい側のエイブラムスさんなら、介護施設に入りましたよ」
という情報を得た。
どこに入ったのか、ということも知っていたので、介護施設の住所をメモし、ゲーリックは車で向かった。
着いてみると、立派な建屋が目についた。
入り口には植物が植えられている。今は冬場だから花は咲いていないが、その季節になれば沢山の花とその香りが辺りを包むだろう。
──良いところに住んでるんだな
ゲーリックは、ひとまず安心した。
あとはロールスの肉親が元気にしているか、それだけである。
「あの──」
ゲーリックは、施設の入り口にいた職員に声を掛けた。
「なんでしょうか?」
「ああ、私はこういう者です」
「ん……? チェッカーズ、野球の?」
「はい。この施設に、エイブラムスさんという方がいると聞いてきたんですが」
「エイブラムスさん……ジョシュさんのことでしょうか? ええ、入居されてますけど」
「そうですか。戦前にロールス・エイブラムスという選手がチェッカーズに居たんですが、その方の親族ではないか、と思いましてここにお伺いしたんです」
「そうですか、ロールス──いつもお世話している方に聞いてみますね」
そう言った職員は、建物の中に入っていった。
しばらくして、その職員が1人の若い女性を連れて戻ってきた。
「お待たせしました。彼女が、いつもジョシュさんをお世話している職員です」
「どうも。ゲーリック・トラバースといいます」
女性職員は軽く頭を下げた。
「私はドロシーといいます。今日はジョシュさんに、御用がおありだそうで」
「はい。かつてチェッカーズに所属していたロールス・エイブラムスのご親族だと聞いているのですが」
「ええ。ロールスという名前は、ジョシュさんもよく仰ってますよ」
「もし良ければ、お会いしたいんです」
この言葉を聞いたドロシーは目線を逸らした。
「あの、問題が?」
「いえ、その。実際に見ていただいたほうが早いかしら」
そう言ったドロシーに案内されて、ゲーリックは施設内に足を踏み入れた。
屋内では、様々な格好をしている老人が、職員と共に生活をしている。きちんと歩行できる入居者もいれば、車椅子に乗ったり、あるいはベッドで寝たきりになっている人もいた。
薬品と何かが混じったような、独特の臭いがした。
「ジョシュさん、お客様ですよ」
ドロシーが車椅子に座っている男性に、声を掛けた。この人がロールスの肉親であるらしい。
だが、男性は声を発さず、遠くを見つめているだけである。
「こんにちは、ゲーリック・トラバースと言います」
ゲーリックは、思い切って声を掛けた。
だが目の前の老人──ジョシュは、少し呻くだけで言葉を返してくることはない。目も、うつろである。
──そういうことか
ゲーリックは時間の流れとは残酷だと思った。もう少し早く来れていたら、会話もできたのではないか。
「あの……ジョシュさんについて、お話を伺いたいのですが」
ゲーリックは、ドロシーに入居の経緯を聞くことにした。
「ジョシュさんの奥様は、6年前に亡くなられたそうです」
ジョシュの妻には病気があったのだという。彼はそれから独居であった。人生の片割れが居なくなってから、彼はみるみる衰弱していった。
ある日、近隣の人が
──最近、ジョシュさんの姿を見ないな
と思って家を訪れると、中でぐったりとしている彼がいた。
すぐに病院に搬送されたが、話しかけても返事をせず、食事も満足にとれない。
人の助けを得なければ生きられなくなった彼は、この施設に入ることになったのだという。
「そうですか」
ゲーリックは居た堪れない気持ちになった。
ロールスの経歴を聞く限り、息子にも家から出られているはずである。ジョシュという老人は、強く孤独を感じただろう。
「でも、今でも必ず言う名前があるんですよ」
「それは、もしかすると──」
「ええ。イヴと、ロールス。イヴは、ジョシュさんの亡くなられた奥様の名前。ロールスはゲーリックさんの仰られている方ではないでしょうか」
ゲーリックは話を聞いて、ジョシュの手を握り
「ジョシュさん。息子さんのことは残念でしたが……私が、お父さんは覚えていましたと、必ず伝えます」
と言った。
ジョシュは小さな声を上げただけだったが、ゲーリックからの言葉を喜んだように見えた。
ジョシュが亡くなったのは、それから2か月後のことだった。
──・──・──・──
ふと
──マクドナルド監督の家族にも会っておきたい
と考えたのは、偶然だったか。
ジェイコブはチェッカーズの監督になってから、過去の資本が無いことに苦しんでいた。
戦前に自分たちが所属していた時、監督と選手のバランスが取れていたおかげで、チームは「黄金期」と評価されるほどに強かった。
だが、今のチームの現状を見てみると、それのせいで育成機能が整わなかったと謂えなくもない。
強力な選手陣が他の選手たちの進路を妨げ、球団は勝利に驕ってしまった。
進路を妨げた選手たちが一斉に抜けたときに、穴を埋め合わせることができず、いま現在でもズルズルと引きずっている。
──マクドナルド監督なら、どうしていたかな
そう考えることも多いが、今と昔では違う。結局、頭を悩ませることしかできない苦しさがある。
シーズンオフに入って、自分も集いに顔を出すことができるようになった時、誰に会い、どういう会話をしたのか、凡そを知ることはできた。
だが
──マクドナルド監督のことについては、誰も話していないな
ということに気が付いたのは、ジェイコブが監督という業務に頭を悩ませていたから、かもしれない。
「なあ。マクドナルド監督の家族にも、挨拶はしておきたいんだが」
その言葉に、カーターは
──ああ、そういえば
という顔をした。
「行ってきたら良いじゃないか。住所はわかるはずだぞ」
ただ、マクドナルド監督の住居があった場所に行っても、先年に妻のガーネットが亡くなったのに伴って住人が変わっているはずなので、その子供に当たるハリーか、ケニーの元に行くべきだった。
球団職員として関わりのあったゲーリックの言葉のもと、ジェイコブは、マクドナルド監督の家族へ会う算段を立てた。
ジェイコブはゲーリックと共に、長男のハリーの家へと向かった。
クロークハッチからは、さほど遠くない。
「おや──もしかして、ゲーリックさんですか?」
ハリーは顔を突き合わせるなり、ゲーリックであると解ったようである。
話が早いと思い、ゲーリックはジェイコブのことを紹介した。
「ああ、ジェイコブさんですね。はい。存じ上げておりますよ」
ゲーリックとジェイコブは驚いた。いくら現役時代に関わりがあったとはいえ、いち選手のことが伝達されているだろうか。
「まあ、とりあえず、中へどうぞ」
3人は家の中に場を移し、再び言葉を交わし始めた。
「いや、しかし……自分のことをご存じとは」
ジェイコブが驚きを込めてそう言うと、ハリーは誇ることの無い表情で言葉を返した。
「いえ、父が遺した物のおかげですよ」
「遺したもの、ですか」
「ええ」
ハリーは、ジェイコブとゲーリックの狙いもわかっていたのかもしれない。リビングでの会話をそこそこに、2人を自らの書斎に誘った。
書斎の扉を開けると、部屋の中に書類が山のように積まれている。
「これは、監督の遺されたものですか?」
「そうです。家を引き払うときに、私が頼んで運んでもらったんです」
「いくらか読んでも?」
「良いですよ」
快く許してくれたハリーの言葉に、ジェイコブは目の前にあったひと山から何枚かを引き抜いて、それに目を通した。
中身は監督時代に書いたと思われる、短いメモや各選手のデータである。
──監督らしい
ジェイコブはそう思いながら、ハリーに質問をした。
「これだけの書類を、持ってくるのも大変だったのでは?」
「まあ、それなりに大変でしたがね」
「でも、監督がここまでのことをしてくれていたというのは、自分にとって、とても嬉しいことです」
その言葉を聞いたハリーは、優しい笑みを浮かべた。
「私にとっても、これは意味のあるものです」
「監督が……ハリーさんの父親が書いたものですし、そうでしょうね」
「ええ。父は仕事人間でね。ほとんど会話をしませんでした」
「確かに、熱心な方でした」
「子供のころも、成人してからも……父が口を開くのは、私かケニーが何か特段なことをした時ぐらいでした。そもそも、家にいないことが多かったんですよ」
「寂しかったりも、しましたか」
「当時はね。特に子供のころは。親に反発する時期というものが来るでしょう? その時、私は父を罵ることしました。父をそこまで熱中させる野球というものも、しばらくは嫌いでしたよ」
「それは、そうでしょう」
「でも、父が死んだあと、私は父のことを知りたくなった。子供の頃に知らなかった分、今になってぶり返しが来たんでしょうね。仕事も退職して時間ができたから、実家に置いてあった書類の山に、目を通す時間ができた。そこから、このライフワークが始まったんです」
ハリーは感慨深そうに話した後、ジェイコブのほうを向いて
「あなたのことを知っていたのも、そのおかげです」
と、自らの父の足跡を称えて言った。
──・──・──・──
ジョニー・ワイルドボアはいま、自動車の整備工場で働いているらしい。
そのことを伝え聞いたカーターは、整備工場がある町に向かった。ジョニーに対しては、前もってゲーリックから手紙を送ってあるという。
目的の場所に向かう前に、彼の勤め先である工場に立ち寄った。
工場は案外大きく、従業員も多いように見える。大きな入り口から見える従業員たちの溌溂とした姿を見て
──ジョニーはここで汗を流してるんだな
と思うと、ひとまずは彼が息災にしていることを、喜ぶ気持ちが湧いてきた。
カーターは少しばかり車を停めてから、ジョニーの家に向かった。住所の書き方から判断するに、アパートメントで暮らしている。
手渡された書類を手掛かりにして、道路の脇に建っている建物へ目を凝らした。
──ここか?
と思った建物がある。外壁が古びているが、綺麗には保たれている。
建物の中に設えられた階段を上り、メモに書き写した番号の部屋の前に立つと、ドアにノックをした。
存外、ジョニーが出てくるのは早かった。久しぶりに顔を合わせたせいか、言葉を失っていた。
「やあ、ジョニー。ゲーリックからの手紙は読んでくれたか?」
カーターの言葉に、ジョニーもやっと反応した。
「ああ。ちょうど欠勤日で良かったよ」
ジョニーの口調は、現役の時から比べると随分と落ち着いていた。まとう雰囲気にも、あの猪突猛進さはなく、だいぶ静かになっている。
「中には来客用の椅子がないんだ。外に出よう」
カーターはジョニーの言葉に応えて、会話の場所を外に移すことにした。
近くに公園があるわけではない。2人は肩を並べ、ゆっくりと歩きながら会話をした。
「びっくりしたよ」
先に言葉を発したのはジョニーの方だった。
「ビックリか……いきなり、連絡が来たことがか?」
「ああ。俺は、特別な印象のない選手だったと思ってるから」
「ふうん……人気はあったように思うけどな」
カーターは、昔の活気がなくなったジョニーの姿に困惑する部分もあったが
──まあ、だいぶ時間も経ってるしな
と思って、特に心配はしなかった。
「そういえば──」
カーターはひとつの疑問を頭に浮かべた。
「アンドレアは、どうしているんだ?」
ワイルドボア夫婦は仲が良かったはずである。その印象を持っているカーターにとって、家の中に来客を迎え入れるだけの椅子すらない、ということが引っかかった。
「ああ……」
ジョニーの顔が曇った。
──別れたのか
カーターは察したが、理由が何なのか、そこまではわからない。
「まあ、詮索はしない。昔話でもしようじゃないか」
そう言って話題を打ち切ろうとしたが、ジョニーが肯かなかった。
「いや、話しておきたい」
「そうか。なら、聞かせてくれよ」
カーターはジョニーと正対して向き合った。
「俺は、アンドレアに暴力を振るった。戦争から還った後、彼女は優しくしてくれたが、俺がそう受け取らなかったんだ。戦場での雰囲気に慣れすぎたのか、それとも本性が出たのか──とにかく、病気に罹ってたんだ。毎日のように罵詈雑言を浴びせ、ついには自分の中にある猜疑心と利己性のために彼女を殴った。その日から、彼女は家を出ていったんだよ」
ジョニーの独白を聞いたカーターは、少し沈黙した後、言葉を返した。
「お前は病気に罹ってたわけじゃない」
「そんなわけないだろう。でなければ、自分の妻にあそこまで攻撃的にはなれない」
カーターは
──それは違う
と首を横に振った。
「いま言ったことは、全部お前の一部だよ。本性とか、病気とか、そう言って自分を保とうとする。だが少なくとも、お前はやった身として知ってるんだ。だったら粛々と、そういう自分を受け入れるべきだ」
「……俺は、アンドレアに謝るべきだろ?」
「まあ、そうかもしれない。何も言わずに出て行って、そのあとも音信はないんだろ? アンドレアはお前の顔を見たくないんじゃないか? それなのに彼女の元に押しかけていったら、たとえ謝罪の意味があっても傷付かせる。お前ができることは、待つことだけだ」
「いつか、殺しに来るんじゃないかと思う時があるんだ」
「良いじゃないか。罰を受けるのも、自分自身だ」
少しばかりの怯えを見せるジョニーに向かって、カーターは微笑んだ。
自分自身の姿を、ジョニーに重ね合わせたのである。
──・──・──・──
デイブ・リンデン、ザック・ドイル、オイラン・エッガー。
この3人の行方がいまだにわからない。
不安を抱えながらゲーリックは、メリー・ウィリアムスの元へと向かった。
彼女の傷はまだ癒えていないが、それでもゲーリックが訪問を重ねるたびに、胸襟を開くようになっていた。
「私と頻繁に会って、奥さんは怒らないの?」
メリーがそう言うと、ゲーリックは困った顔を見せた。
「怒るというよりも、呆れた顔をされていますよ。だから今度、妻もいっそ連れてこようかと」
「それが良いわ。少しだけ、話してみたいの」
他人と、少しだけ話してみたい。この言葉が出たということが、大きいと感じる。
もともとメリーは、旧交のあったゲーリックのことも拒んでいたのだから、その会話の幅が広がるというのは、良いことのはずだ。
「──表情が、だいぶ明るくなりましたね?」
ゲーリックは、思ったことを素直に話した。メリーの口元を見れば、綻ぶことも多くなっている。
「子供たちに構わなくてよくなったからね」
彼女はそう言うが、それだけでは無いだろう。
「これだけ会話を許してもらえるのも、嬉しいことです」
「そう?」
2人は少しばかりの沈黙を楽しんだ。
メリーは手持ち無沙汰になったのか、ポケットの中に入れていた懐中時計を出して、手に持っていた。
常に持ち歩いていることは、何回も彼女に会っているうちに気が付いている。ゲーリックにとって、時計の正体は気になった。
「あの……」
「なに?」
ゲーリックは、
──今なら訊けるんじゃないか
と思いついて、聞いてみることにした。
「その懐中時計なんですが」
「ああ──これ?」
「ええ。いつも持ち歩いていらっしゃいますよね? いつ頃のものですか?」
「いつ頃だったかしら。たしか、30年くらい前よ」
「大事なものなんですね」
「大事。夫から貰ったものだから」
「そうでしたか」
「自分が居なくてもコレをそうだと思ってくれ、って言われたのよ。だから今も、これに夫が宿っていると思うの」
ゲーリックは、メリーの手中にある懐中時計を見ながら、アイクの顔を思い出した。
彼は今、西の海の底で眠っているはずである。
──きっと魂だけは、そこに還ってきているだろう
そう思わなければ、メリーが報われない。
「私も、頑張らねばなりませんね」
ゲーリックは誰に言うでもなく、その言葉を発した。
──・──・──・──
カーターが、ダニー・ゴールドバーグのダイナーに通い始めてから4年が経った。
1951年の夏。今年は例年より、日差しが熱い。
「今日はスクランブルエッグとソーセージ、あとバゲットを2切れ頼む」
ダニーはこちら側を向かず
「わかった。待ってろ」
と言って、すぐに調理に取り掛かった。
「あの爺さん、今日も来るか?」
カーターはダニーに聞いた。
「今日は木曜日だから、多分来るだろうな」
その言葉に、カーターは喜びを隠さなかった。
「爺さんは、チェッカーズのことをよく知ってるからな」
そうして会話を交わしているうちに、カーターの頼んだ料理がカウンターに出された。
いつものごとく、カーターは声を出さずに食べ始めた。
4年前、カーターがダニーのダイナーに初めて来て、会話の糸口を掴めずに帰ろうとした時のことである。
「なっ、黒人嫌いのカーターか!?」
と、ダイナーの入り口から入ってきた老人が言い放った。
カーターは
──いきなり出てきた言葉がそれか
と思ったものの、自分の名前が出てきた嬉しさが、無いわけではない。
ただ、老人が自分のことをなぜ知っているのか。それが気になって
「なんで、知ってるんだ?」
と聞いてみた。老人は
──当然じゃないか
という表情をしながら
「だって、あんたは有名人じゃないか! チェッカーズのリーディングヒッター、カーター・フレイマン。野球が好きなら絶対知ってる!」
と、興奮気味に語った。
「まあ、そう言われるのは悪い気がしないが……」
カーターが自分の頭を掻きながら言葉を返すと、厨房にいたダニーが声を上げた。
「おい、テッドさん! 注文があるなら、手早く頼むよ」
ダニーは不機嫌だった。腫れ物に触れられた、と言いたそうな表情をしている。
「ああ、すまん」
テッドと呼ばれた老人は、申し訳なさそうにカウンターの席に座った。
「じゃあ、あれだ。今日はポークステーキを頼む」
「レギュラーで良いのか?」
「ああ、今日は腹が減っててな」
老人が注文を済ませたのを見て、カーターはその隣に座った。老人の知識の源泉に、興味が湧いたのである。
「ご老人──テッドさんって言ったかな? なんで、そんなに詳しいんだ? 俺のことを知ってたとしても、もう10年以上前の話だろ?」
「忘れるものか! 当時のあんたは、泣く子も黙るヒーローの1人じゃないか!」
「ヒーローの1人か……言われて悪い気はしないが、その割には不穏なあだ名で知っているんだな」
老人がカーターに鉢合わせた時、最初に放った言葉が「黒人嫌い」だったことを、カーターは少しばかり気にしている。
「何を今さら。当時から随分と有名な話じゃないか」
老人は当然であるという表情をして、カーターの問いかけに答えた。
ここまであっけらかんとして言われると、カーターとしても返す言葉はない。
「ところで、テッドさんはどこのファンなんだ?」
前にはダニーがいる。話を途切れさせたくなかったカーターは、老人に他愛のない質問をした。自分のことを知っているのなら、好きな球団くらいはあるだろうと思ってのことだった。
老人は鼻を鳴らした。
「当然、チェッカーズさ。若い頃から、ずっと見ていた。だから、あんたのことも見た瞬間に分かったんだよ」
自慢げに話すその様子が、そのままチェッカーズへの愛情の深さである。
「当然──厨房に立っている男の正体も、よく知っているよ」
老人は、ダニーの方を見て言った。
「そうか」
ダニーにとって、触れられても良い話題だったのか。
それは分からないが、この老人にとっては特別な情感をもって話すべきことのようである。
「はいよ」
出来上がった料理が、老人の前に運ばれた。心なしか手付きが荒い。ダニーが振り向いた瞬間、カーターの方を睨んだのも、気のせいでは無いだろう。
老人も気が付いたようである。
あくまで「カーターに言うのである」という姿勢を保って、老人は話し始めた。
「昔の仲間に会うっていうのは、難しいことだよなあ。思い出も、言いたいことも山積しているのに、いざ面と向かうと何も言えなくなる。わしも、そういうことがあったよ」
カーターは相槌を打った。
「俺もだよ」
老人は、さらに言葉を続けた。
「恨みっていうのは、ただ怒りっぽくなるとか、許せないとか、そういうことじゃないんだろうねえ……もしかすると、自分自身にいちばん失望しているのかもしれないのに、相手がどうなんだかと思ってしまうのが、どうにも解せないもんだ」
この老人は恐らく、今のダニーをよく知っているのだ。
──どうか、ダニーを説得してくれないだろうか
そういう言葉が、カーターの脳裏には流れてきている。
「そうだ、テッドさん。俺はこれから、たまにここに来ようと思うんだ。その時に、チェッカーズの思い出話でもしてくれないか?」
「何を言ってるんだ。あんたの方がよく知ってるんじゃないのか?」
「俺たちには、わからないことだってあるじゃないか」
迷惑そうな顔をするダニーを尻目に、カーターは老人とまた会う約束を交わした。
それからカーターは、ダイナーに来るたびに老人と話した。
常にグラウンドに立ってきたカーターからすると、客席から見る野球の話は新鮮だった。老人の持つ熱量の高さも、それに華を添えている。
何度も、それも会う度に長い時間を会話で共有していくうちに、厨房という近い場所にいたダニーも絆されていったようだった。
こちらに背を向けているときも、聞き耳を立てていることはわかる。
そしてついに、老人の言った
「ジェイコブ・フューリーを監督にした意図が、わからんね」
という言葉に反応したことで、お互いに言葉を伝えあえるようになった。
それから2年ほど経ち、今に至る。
ダニーとカーターが話し合った通り、木曜日には必ず、ダニーのダイナーに来店していた。しかし
「今日は、遅いな」
と、ダニーが違和感を示す時刻を、時計の針は指している。
──何かあったのでは?
そう考えるのは、カーターもダニーも一緒だった。
「家の場所、わかるか?」
カーターはダニーに聞いた。
「一応な」
ダニーの表情には、不安の色がある。
「なら、行ってくる。何も無かったら、それで良い」
カーターは、ダニーの口から老人の家の場所を聞くと、急いでそこへと向かった。
土地勘が無かったせいで同じ道を廻ったが、何とか老人の家にまでたどり着いたカーターは逸る気持ちを抑えて、玄関をノックした。
中から出てきたのは老人ではなく、若い男である。
「なんでしょう?」
男は怪訝な表情でカーターを見た。
「テッドさんのお宅はこちらで?」
「ええ、まあ」
「それなら良かった。実は、以前からお世話になってましてね。今日もダニーさんのダイナーに来るかと思ってたら来なかったもので、心配になったんです」
カーターの言葉を聞いた男は、少しだけ目線をそらした。
「あの……何か、あったんですか?」
カーターの言葉に、男は言い辛そうな表情をしている。
「なら、良いんです。俺は、これで」
そう言って帰ろうとしたカーターに、男が声をかけた。
「ダニーさんと、お知り合いなんですか?」
「ええ。そうですが」
「ダニーさんを、呼んできてもらえませんか?」
男の要望に、カーターは重大なものを感じた。
「もちろん。良いですよ」
カーターはダニーを呼ぶため、ダイナーに帰った。
「そうか。なら、俺も一緒に行こう」
ダニーは、カーターの求めにすぐに応えた。2人が老人の家に着くと、家の外に男が待っている。
「待たせましたね。ダニーさんを連れてきましたよ」
「良かった。どうぞ、こちらへ」
男は2人を家に上げると、そのまま奥まった部屋へと向かった。
「じいちゃん、入るよ」
そう言って、男は2人を引き連れたままで部屋の中に入った。
「良いんですか?」
というダニーの言葉は、男の
「当然です」
という返事で搔き消された。
部屋に入ると、ベッドの上に横たわる老人の姿があった。
この場にいる全員にとって見慣れた顔ではあったが、先週までの朗らかな表情とは違う、沈んだ表情である。
ダニーとカーターは眉を顰めた。
「どうしたんだ、ご老人」
カーターが横臥する老人に声を掛けた。
老人がこたえる代わりに、横にいた男が言葉を発した。
「先日、急に病気に罹りましてね。こうして療養しているんです」
病気といっても、様々である。
「重たい病気では……」
カーターは訊いたが、男は
「医者は、風邪をこじらせたようなもんだと言ってました。ですが見ての通りだいぶ高齢ですから、重たくなってしまったんです」
と、今の老人の容態を話した。
「恢復はできそうですか?」
「五分五分と、お医者様は言っていました」
カーターとダニーは押し黙った。
助かるか、助からないか。その2択が提示される重たさが、身に圧し掛かってくる。
「祖父が呼んでいますので、少し失礼します」
老人が身じろぎをしたようには見えなかったが、男にはわかったようである。
男は耳を老人の顔に寄せ、何かを聞く素振りをした。
ひとしきり聞き終えたのか、男は2人のほうに寄ってきた。
「あの、ダニーさんにお話があるようです」
ダニーは
──何の用だろうか
という表情をしながら、老人のもとへと歩み寄っていった。
息が微かな老人の横にしゃがみ込み、その口元に耳を寄せた。
離れていたカーターには、何を伝えられたのかはわからない。
ただ、ダニーが表情を硬くしたのだけはわかった。
老人は療養中である。あまり長居もいけないと、ダニーとカーターはすぐに老人の家を後にした。
ダニーが何を言われたのか。気になったカーターは、ダニーに
「なあ。良かったら、何を言われたのか聞かせてくれないか?」
と訊いた。
ダニーは
「かつての仲間を蔑ろにしないでくれ、と言われたよ」
と、カーターに伝えた。
ダニーがこの時、どう思ったのかはわからない。
だが老人にとって、チェッカーズというチームとダニーに対して、自分の命が危うい時にも気に掛けるだけの価値があるのだ、ということは確かなようだった。
その言葉がダニーにとってどういった意味合いを持つのかは、まだ知らされなかった。
──・──・──・──
ザック・ドイルの行方が分かったのは、1953年のことだった。
ダニーがカーターに
「もう逃げるのは止めだ」
と告げてから、2年ほど経ってからのことである。
情報を持ってきたのはトーマス・レターマンだった。
ニック・ウィルソンの案内で地方で個展を開くことになった時、その土地の地方紙で
──7年前に亡くなった「マイク・モーリス」という人間が偽名だった
という、ゴシップめいた記事を見かけたことがきっかけである。その記事には
「身体的な特徴から、ザック・ドイルという元野球選手」
と、書かれていた。
トーマスも、またニックも、この記事の文面を見たとき
──あのザックか?
と思ったのは当然のことだった。ただ、同時に
──あの存在感を誇っていたザックが、こんなに寂しい死に方をするものか
という気持ちもある。
居ても立ってもいられなくなった2人は、個展の開催中であるにもかかわらず、その会場を飛び出して、すぐに地元の行政機関に問い合わせた。
「この記事にある、マイク・モーリスという人のことなんですが」
その言葉を聞いた職員は、すぐに担当者に問い合わせた。得た言葉は
「現在調査中です」
のひと言である。
──これでは、頼りにならない
2人はそう判断して、すぐさま周辺の地域を探り「マイク・モーリス」という人間と親しかった人はいないのかを探り始めた。
その中で、マシュー・ラックマンという人に会った。
トーマスはマシューと接触した後、カーターへと連絡を入れた。そしてカーターが、ジェイコブに話を回すと
「なら、自分が行ってこよう」
と、ジェイコブがマシューの元へと向かうことになった。
「こんにちは、マシューさん」
ジェイコブが間口に立っていることに、彼は驚いた様子だった。
「いや、まさか、本当に来るとは……」
彼が思わず口から出した言葉が、そのことを裏付けている。
「マイク・モーリス、という人の話が聞けると聞いたのですが」
「あ、ああ。家は狭いし汚いので、近所の喫茶店に行きませんか?」
マシューの申し出に従って、2人は少し広めの喫茶店へと入店し、奥隅の席で腰を落ち着かせた。
頼んだ飲み物が来る前から、マシューはマイク・モーリスのことについて語り始めた。
今から16年ほど前に、この街に姿を現したこと。
もともと、全く会話を交わさないような寡黙な人であったこと。
マシューが構っているうちに、過去の自分を話してくれるようになったこと。
そして、その話の中に「野球に携わっていた」という言葉があったこと。
話の中で、マイク・モーリスという人がザック・ドイルその人である、という確信は持てなかった。
だが、その人が並みならぬ人生を歩んできたのかもしれない、ということはわかる。
「ありがとうございました」
ジェイコブがそう言ってマシューとの会話を切り上げたのは、喫茶店に入ってから4時間後のことだった。
「いえ……私も、この話を共有できそうな人が見つかってほっとしました」
彼も、抱えるものがあったに違いない。ジェイコブ達にとっては
──ザック・ドイルなのかどうか
こそが重要な課題だったが、マシューにとっては、マイク・モーリスという人の冥福を祈る意味があったのだろう。
マイク・モーリスが、ザック・ドイルの偽名だと分かったのは、この数月後のことだった。
──良かった
ジェイコブが、そして周りの仲間がそう思ったのは、彼のことに関して、確かに苦しんだからかもしれない。
──・──・──・──
翌年、1954年のことである。
冬に差し掛かったころ、1本の電話がゲーリック・トラバースの元へと掛かってきた。
──誰だろう
そう思って電話に出てみると、カーターからであった。
「ああ、ゲーリック。ようやっとデイブ・リンデンの居場所がわかったよ」
「本当か!」
ゲーリックは先年、定年であるという理由で球団職員を退職していた。
それ以降、自宅から情報を集めるために奔走していたのだが、やはり組織から離れると、途端に情報の集積が難しくなった。
その中で、カーターは吉報をもたらしたのである。
「で、デイブはどこに居たんだ?」
「田舎のほうで、牧畜をやってるらしい」
「なら、早く行かなきゃな」
自分には時間がたっぷりとあるんだ、と嬉しそうに言ったゲーリックは、車を走らせて、まずは姪であるというエリー・ロックフォードを訪ねた。
「叔父ですか?」
「ええ。牧畜をしていらっしゃると聞きました」
そのような言葉で始まった会話は、ここまでデイブの居所が解らなかったのは何故か、という話題になった。エリーは
「とくだん連絡もありませんでしたので」
と答えた。
デイブが行方も判らないほど遠くに行かないだろうと、高を括っていたかもしれない。情報の集め方が足りなかったか。ゲーリックは自分の甘さを悔やみながらも、エリーにデイブの家までの案内を頼み、彼女も快く承諾してくれた。
エリーと、彼女の夫のケニーとが同乗する形で、デイブの家に車を走らせた。車は
「長いですから、自分も運転します」
と言ったケニーの手も借りながら、相当の距離を走った。
それこそ、何日間という距離である。
途中、モーテルやホテルなどにも厄介になりながら、たどり着いた場所は確かに、自らの足で連絡を入れようとしなければ届かないであろう処だった。
「ここが、叔父の家なんです」
平屋がある。向こうには壁が吹き抜けた牛小屋があった。
ゲーリックはドアをノックしようとしたが、エリーはそれを止めた。
「耳が聞こえませんから」
聞いたゲーリックは
──そういえば、そうだった
と、今後の対応をエリーに任せることにした。
エリーは、何も言わずにドアを開けて中に入った。
中には一見、誰も居ないように思えたが、奥の台所で動く影が少しだけ見えた。
「デイブ! お客さんだよ!」
デイブは耳が聞こえないはずであるが、彼女が声を上げた瞬間に、影がこちらに振り向いた。
──おお
という声を上げたのは、妄想だったか、現実だったか。ひとしきりの感動があったのは、間違いなかった。
紛れもなくデイブである。
デイブはこちらに近づき、言葉なくゲーリックに右手を差しだした。ゲーリックもそれに応えた。
声で会話はできないかもしれないが、その手のマメの多さが、デイブの半生を雄弁に語っていると感じた。
デイブは何も言わず、ゲーリックの背中に手を回すと、外にある牛小屋にまで連れて行った。
顔はどことなしか、自慢げである。ゲーリックも憚ることなく、それを受け取った。
ゲーリックはデイブを横に置きながら、数頭の牛と直に触れあった。どれも穏やかで、初めて見るゲーリックのことを恐れていない。
──きっと、デイブの人格が表れているのだ
ゲーリックはデイブに、心から
「良い家族じゃないか」
と言葉で伝えた。デイブには聞こえないかもしれないが、それで良い。自分がそういう気持ちになれたことが、喜ばしかった。
牛たちの顔を1頭ずつ見て回った後、デイブの住処である建屋に戻り、筆談で会話を始めた。ゲーリックの私物であるメモ帳とペンを使って、お互いに近況を伝え合った。
デイブは牛の話ばかりをし、ゲーリックは職場を辞めてから暇している、と話した。
「自分のことを、何も疑いなく受け入れたのはなんでだ?」
ゲーリックはデイブに訊いた。
「覚えていたからだよ」
デイブはそう答えた。
「よく覚えていてくれたな」
「忘れられない」
デイブの言葉を聴いて、ゲーリックは当時を思い出した。当時といっても戦前ではない。デイブが還ってきた時の出来事である。
「あの時は、守ってやれなくてすまなかった」
意図をもって書いたというよりも、筆が滑った。デイブがどう思うのかは、考えなかった。
デイブは少しだけペンを手で遊ばせた後、文字を書き始めた。
「今と昔とじゃ違う。自分はいま、純粋に野球を楽しめそうな気がする」
そう書かれたとき、ゲーリックには少しだけ安堵する気持ちがあった。
「ゲーリックが来たのは、それを謝るためなのか?」
デイブは少しの疑念を交えながら、単刀直入に伝えてきた。
ゲーリックは、そうではない、と言わなければならないが、躊躇もした。
「ほかに目的があるのなら、言ってくれ」
その言葉に背中を押されるような気がした。
「チェッカーズにいた仲間が、デイブを待っている」
と、伝えた。
──あの時、困憊して戻ったデイブへ何もできなかった仲間たちの元に、来てくれないか
ゲーリックにとっては、そう言ったようなものだった。
しかし、ゲーリックが思ったような深刻さは、デイブには無かったらしい。明るい表情のまま、メモに
「ああ、行こう。自分はグラウンドが恋しい」
と、滑らかな線で書いた。
──・──・──・──
オイラン・エッガーの行方が分からない。
状況が変わらないまま、1956年に入った。来年にはジャスティン・ラッセルが、監視から解放される。
いまジェイコブたちには、彼が小さな町の商店で働いていた、という事までしかわからない。それも、つい最近までいたらしいのだが、忽然と姿を消したのだという。
──こうなると、手掛かりが無い
頭を抱えたのは、場にいるチェッカーズの元関係者たち全員だった。
ジェイコブは監督となって、チェッカーズの成績を右肩上がりにさせていたが、この私的な心配事は頭から離れない。たまにプライベートな話をタイラー・オーニールに話すときも、家庭のことより、未だに連絡を取れないなかまたちがどうしているのかと、その問い掛けが多かった。
「どうにかなる、と思うしかない」
タイラーはそう言うしかなかったが、ジェイコブの抱えている焦りは、よく解った。
悶々とした心情を抱えながら、もうすぐ年が明けようする時節である。
ストーブリーグの真っ只中、会議のために本部へと呼び出されたジェイコブとタイラーが、来季の編成について話を聞いていると、職員が落ち着かない様子で部屋に入ってきた。
「何か、用ですか?」
「いえ、その……受付で、不審なヤツが問い合わせをしてきましてね」
ジェイコブもタイラーも、自分は無関係だろうと聞き耳を逸らしていた。
だが、次の会話が2人の興味を引き付けた。
「ジェイコブ・フューリーに連絡を繋げてくれ、とか言ってまして」
「なんで? そんなことを……」
「そいつはオイラン・エッガーって名乗ってるんですよ」
──まさか
2人は思ったが、長年のファンでも、わざわざこの名前を使うことは無いだろうと勘が働いて
「会ってみたいのですが、良いですか」
という風に職員に問いかけた。
職員は当然
「駄目です! 危害が加えられたらどうするんですか!」
と反発したが、それでもかまわないと言って、2人して本部の入り口にまで降りて行った。
果たして、受付には大柄の男が立っていた。髪は長くぼさぼさとしていて、髭も伸ばしっぱなしである。
2人は
──さすがに、オイランではなかったか
と思ったが、その男が
「まだか」
という言葉を発した瞬間、声に聞き馴染みを感じた。
「自分たちを、お呼びだそうで」
ジェイコブが思い切ってその男に近づいた。男は何日も風呂に入っていないらしく、汗と垢で臭くなっている。
その男はジェイコブを見るなり
「すまん……俺は……」
と、膝を崩して泣き始めた。
ジェイコブは男の手を取ると、休めそうな所に連れて行った。
男が落ち着いたころ、ジェイコブは訊ねた。
「オイランか?」
その短い言葉に、男は確かに肯いた。
「そうか」
ジェイコブは嘆息した。そして
「なんで、あの商店から逃げてきたんだ」
と、訊いた。
「人を殴ってな……」
オイランは項垂れていた。
「そうか。変わらなかったんだな」
ジェイコブは椅子の背もたれに寄りかかりながら、そう言った。
オイランは何も言わず、じっと言葉を聞いていた。
「なんで、ここに来たんだ?」
ジェイコブの横にいたタイラーが、オイランの様子を見かねて言葉を発した。自分たちが仲間の帰還を願い、そして向こうから来たのだ。聞かないわけにはいかない。
「なんでだか、わからん」
「わからないことは無いだろう」
「本当に、わからん。道も解らないはずなのに、気が付いたら着いてた」
──まるで鳩みたいだな
と言いかけた言葉を、ぐっと飲みこんだ。
「──で、お前は何がしたいんだ?」
ジェイコブがそう言った。
オイランにとっては、難しい問い掛けかもしれない。過去を考えると、わざわざ否定されるために言うようなものである。だが、オイランはすぐに答えた。
「ひとりで居なくて済むような、そんな生活がしたい」
「お前はずっと、一匹狼じゃないか。今になってできると思うのか?」
「できないだろう」
「なら、諦めたほうが良い」
2人の間に沈黙が流れた。
ジェイコブにも、オイランにも、これ以上は何も言えることは無い、そういう気分があった。
だがタイラーには、少しばかり言えることがあった。
「孤独を知ると、自分が見えてくるものだぞ」
タイラーは、この言葉に特段の感傷は入れなかった。ただ、自分が思ったことをそのまま言っただけである。
オイランには、少しばかり時間がいるかもしれない。彼の自省、その手助けをすることはできないが、それでも彼の求めた繋がりを振り払うことは出来ない。
自分たちだって、望んでいるのだ。
タイラーは自分の家の電話番号を渡した。ジェイコブもまた、自宅の住所を教えた。
オイランが過去、どんな人間だったにしろ、なかまである事を放棄する訳にはいかない。
──・──・──・──
ジャスティンが20年の苦しい生活を終えた日に、仲間で集まる機会があった。
その中で、ゲーリックがジャスティンから聞き受けた言葉を話した。
「ジャスティンは、グラウンドに出たがっているぞ」
ゲーリックがそう言ったとき、周りにいた4人は
──それも良いな
という想いを口にした。
ならばと、今後の目標としてグラウンドに、かつての仲間を呼び集める企みが始まった。
エルヴィス・ホールトンは小さな教会を経営している。
そのことを聞きつけたカーターは、今まで入ったことの無い教会に足を踏み入れた。
よく清掃されているのだろう。建物の中に入っても、澱んだ臭いはしない。
来客を察知したのか、扉の中から1人、誰かが出てきた。
「どなたか、お客様ですか?」
そういった、形式ばった口調を呈している。
「やあ」
カーターが、笑いながら挨拶をすると
「なんだ、お前か」
と、形式ばった口調はすぐに解けた。
「報告に来たんだ」
「報告か。私にわざわざ言うことなんてあるのかな」
「ああ。サイモンが死んだとき、墓の前で会話したのを覚えているか?」
「もちろん」
「なんとか、できたよ」
「そうか。そうだったか」
「もうそろそろ、ジャスティン・ラッセルが自由の身になるらしい。お前も──」
「ああ、久しぶりに会いに行こうかな」
「良いのか?」
「ああ。私も、あの頃を懐かしんでいたらしいからな」
「前みたいに考えたりはしないのか? ずいぶん変わったじゃないか」
「つい先日、気付かされてな」
「それは良かったじゃないか」
「ああ……子供は宝だ」
「違いない」
カーターはエルヴィスと共に、ジェイコブたちと会うことになった。
教会の入り口にはただ、「私用の為、暫く門を閉じます」と書かれた札が掛けられた。
──・──・──・──
「ジム・マクニールに、連絡を入れてみようか」
彼はこの集団にとって、最後の壁と言えそうな人物である。
もちろん、最後に会ってから15年ほど経っている今、同じように拒否されるとは考えたくないが、可能性はある。
ジェイコブ・フューリーが番号を入れ、受話器を取った。連絡先が変わっていなければ、これで通じる。
何度か呼び出し音が鳴った後、受話器がとられる音がした。
「お電話口はジム・マクニールさんで?」
「はい。そうですが」
「良かった。こちらはジェイコブ・フューリー」
「ジェイコブ? なんなんだ、一体……」
「誘いを入れようと思ったんだ。早速だが、チェッカーズのグラウンドに出てみないか?」
「グラウンドに?」
「久々に野球でもしてみたいと思ってな」
「なんで今更」
「今更じゃない。ジャスティンの発案でな、彼の刑期終了への祝いもある」
「──俺が、その中に入っても良いのか?」
「当然だ。みんな集まってきているぞ」
「ボールを投げられなくなってるんだぞ?」
「みんな何かしら抱えてる。その程度、問題にならない」
「……いつ行けば良い?」
「12月の28日だよ」
「1か月後か。わかった、行く」
「ありがとう」
ジェイコブは、会話が終わると受話器を置いた。
「これで、心配はないかな」
後ろで様子を窺っていたなかまたちに、ジェイコブは伝えた。
──・──・──・──
それから、5年後のことである。
ジェイコブ・フューリーは自叙伝を書き下ろした。
チェッカーズを弱小チームから強豪へと押し上げた監督が、戦前のチェッカーズを回顧する。そういう内容である。
ただ、この自叙伝が他と少し違ったのは、自分のキャリアよりも、当時のチームメイトたちの説明に文面を割いていたことである。
そして現役中のことだけでなく、戦後にどうなったのか、そのことに対しても言及を重ねていた。
それは、彼がどれだけの愛着を持ってチームに接してきたかの証明でもあった。
最後に、彼の自叙伝の中にあった象徴的な言葉をもって、結びとしたい。
──何かを追い求め、何かを分かち合い、何かを取り戻そうとする。その、ひとりが背負うにはあまりにも巨大な運命を体感し、実現できたのは、なかまの存在があったからこそでした。様々な出来事がありましたが、いま振り返ってみるとこう思うのです。「なんだ、生きていて良かったじゃないか」と。




