7 カーター・フレイマン
サイモン・ポーリーが死んだ。
その報せをカーターが聞いたのは、戦争から還ってきて数年後、春と夏の狭間の時期のことだった。
カーターは驚くよりも、呆然とした。
──アイツは早死にするようなタマだったのか?
そんな疑問が頭の中に浮かんだ。
カーターは彼のことを、今までさんざんに侮辱してきた。
ある時は
「黒犬」
と呼び、ある時は
「近寄るんじゃねえ糞野郎」
と言って、差し伸べられた手を払いのけたこともあった。
しかし、そのしつこさを思い返したとき、そして掛けられた言葉の数々を思い返したとき
「そんな簡単に死ぬわけがない」
と、思わず口に出して言った。
「どうしたの?あなた」
妻のベルが、手紙を読んだままぼうっとしているカーターの顔を覗き込んだ。
「いや、チェッカーズ時代のチームメイトが死んだんだとよ」
カーターは、あえて素っ気なく返事をした。
心の中にはまだ
──ポーリーの死で動揺することは無いだろう
と思う心がある。
だが、女の目は聡い、と言うべきなのか。ベルはカーターの顔を見つめたまま
「あなたにとって、良い友人だったのね」
と、ぽつりと言った。
──良い友人? そんなはずがないだろう
カーターはそう思ったが、外に出て街中の空気を吸うと、ふと別の考えが頭の中をめぐっていった。
「俺にとって」良い友人なのか
「彼にとって」良い友人なのか
「俺が」良い友人だったのか
「彼が」良い友人だったのか
カーターは思考して、その内、外の陽気でいつもは眠くなるはずなのに、この日ばかりは目が冴えていった。
それは、夜になっても同じだった。
ベッドの上で寝ようと思っていても、この考えが頭の中を駆け回って眠れなかった。夜中、街の方から音が聞こえなくなるまで考え続けた。
しかし、長く考えたからと言って妙案が思いつくわけでもない。ただ時間を浪費するだけに留まっている。
──だったら、なぜ考える必要があるんだ
目をつぶったが、目蓋の裏にイメージが極彩色で映し出されて、眠ろうとしても眠れなかった。
そうこうしているうちに、朝を迎えた。
窓から差し込んでくる陽の光が、眠れなかったカーターの交感神経を刺激し、さらに眠りにつくのを妨害した。
──今日はクラブチームの指導があるんだぞ……
カーターは自分の神経が覚醒したままであったことを恨んだ。
週末の一日。社会では休む人間が多い。だがこの日こそ、カーターが働かなければならない日である。
カーターは地域のクラブチームで、少年たちに野球を教えることを生業にしていた。
カーターは名の知れた野球選手だったが、街の片隅でコーチングをしているのには理由がある。
子供の将来のために、という高尚なものではない。違う舞台で頂点を見てみたい、という貪欲さの表れでもない。ただ、これくらいしか野球関連で就ける職が無かった。
プロの舞台で4割も打ったのだ。なぜ、目立たない場所に押し込められることになったのか。
理由はある。
カーターは優れたバッターであると同時に、頑固な差別主義者だった。
黒人のサイモンのことを何度も罵倒し、チームメイトから咎められることも多かった。実力もある分、目立つ存在で、カーターはチームの上層部にも目を付けられていた。
戦争が終わってから、いや、戦争中にも、社会は変わっていった。
──異人種も社会に参加させるべき
そんな思想が蔓延していくと、カーターのような明確な差別をする人間は煙たがられるようになった。
そのせいかカーターが戦争から還ってくると、彼は明らかに人から避けられるようになった。
カーターの人間性を嫌う人がいたのも確かだが、大抵は世論を恐れての保身だった。
そうなってくると一定以上の集団は、カーターを雇うことができない。カーターのような人間を雇うことで、その集団自体が攻撃の対象になるからである。
カーターは必然的に、世間の主街道から外れていかざるを得なくなった。
だが、このままいけばドロップアウトしそうな存在になったカーターを救った人間がいた。
妻のベルと、地域のクラブチームを運営しているニック・ウィルソンである。
妻のベルはこう言った。
「あなたは本当は苦しみのわかる人間なんだから、外面しか見ない世間の目なんて無視すれば良いじゃない」
カーターは
──その外面が、今の世界では重要なんだろうが
と言い返したくなったが、自分のせいで迷惑をかけたというのに、還りを待ち続けてくれた妻の言葉でもある。出かけた言葉を飲み込んで
「頑張ってみる」
と言った。
ニックは、カーターがクラブチームのコーチに就けるように取り計らってくれた壮年の男性である。
もとからカーターの大ファンだった。カーターと会った時も興奮を隠しきれず
「あなたのバッティングは、まるでバレリーノのような美しさがあるんだ! こうして会えるなんて……」
と、衝動的に手を握ってきたりもした。
──なんだか、気味が悪いな
カーターはそう思ったが、好意を向けられる機会が少なくなっていたのもあって
「そんなに喜んでもらえるのは、嬉しいよ」
と、できうる限りの笑顔をニックに向けた。
ニックは、カーターの人柄もよく知っていた。それでも
「あなたの持っている技術や考え方が、後世に残らないのは損失になる」
とまで言って、自分の持っているクラブチームにコーチとして、カーターが入れるように手配した。
「カーター・フレイマンがコーチになった」
という情報は、そのクラブに子供を預けている親にとって吉報ではなかった。
なんせ、メンバーの中には有色人種の子供も含まれていたからである。そうでなくとも、今の世間的に風当たりの強い人物が近くにいること自体が、子供にとって危険だ。
子供たちのほとんどは、親の意向によってチームを抜けた。
カーターにとってみれば、自分が入ったせいで人数が減ったのだから
──ウィルソン氏には、申し訳ないことをした
と思って
「俺は、このチームに入るべきじゃなかった」
と、退団を申し出もしたが
「絶対にそんなことはない。あなたがいることで、このチームは良くなるに違いない」
と言われて、無理に留まらされた。
ニックは、カーターが居残ることに執着した。
そのせいで数か月のうちに、試合ができないほどに人数を減らした。
それでも翌年になると新入部員が入ってきて、何とか試合ができそうな状態になった。
──よかった、これで試合ができる
そう思ったカーターの考えは甘かった。
今度は、試合をしようとした相手のコーチ陣が
──あのカーターがいるのか? そこと試合とは外聞が悪いな
と思ったせいで、試合を組めなくなった。
ここにきても、なおカーターの名前は枷になった。
カーターはまず
──なんで、あいつらは試合をしてくれないんだ!
と思わず
──このままでは、子供に申し訳ない
と思った。
周りが躊躇をしている中、カーターは自分の心を前進させていた。
──・──・──・──
カーターがそう思ったのには、相応のバックボーンがある。
子供の頃の話である。
カーターの家は裕福とは言えない、むしろ少し貧しい家だった。
父親は飲んだくれだった。ことあるごとに暴言を吐き、母親に手を出した。
部屋中に漂うアルコールの臭いと、毎日のように鳴る壁を殴る音。そして母親の悲鳴を聞きながら、幼少期を過ごした。
カーターは自分を殺しながら生活をした。
父親の目についたら間違いなく暴力を振るわれるし、母親は父親からの暴力によって疲れ果てている。
カーターだけが自分勝手に振舞って、さらに二人を刺激することはできない。
だから、少年期のカーターは無口だった。
押し黙って椅子に座り、足音を立てずに場を立ち去る。
この家の中では、絶対に自分の存在を知られてはいけない。親にとって自分は、居てはいけない存在なのである。
学校には行けていた。いや、行かないと耐えられなかった。
閉じ籠りになって、家の中でずっと過ごすようなことになったら、それこそ自分が死んでしまっていた。
カーターにとって、家は帰る場所ではない。
日常という整頓された地獄に耐えながら、カーターは過ごしていた。
だがある日、その緊張が切れた。
母親がいなくなったのである。生きているか、死んでいるかもわからない。
父親は
「あのアバズレめ。自分だけ逃げやがって」
と言って、行方を探そうともしない。
──お前のせいなのに、無責任だ
子供心に思ったが、口を開かないことが常になっていたカーターには何も言うことができなかったし、暴力への恐怖が体に染みついていたせいで反抗もできなかった。
カーターにとって、自分の帰属するべき場所がわからないというのは大きなストレスだった。
父親には当然求められない。学校でも喋らないせいで友人ができない。
だからカーターは、苦しい思いをしている母親に、辛うじてその意識を持っていた。
そして、その母親がいなくなった。
自分が帰る場所が無くなった、ということである。
それでも自分から行動を起こすことができなかったカーターは、父親がいる家に帰らなければいけない。
この時のカーターは、無意識のうちに自分が帰る場所を探していた。
とある日のことである。
何気なく、カーターは図書館にあった英雄譚を読んでいた。学校の無い日だったから、家にいる時間を少しでも減らそうと思ったのである。
そして物語を読んでいるうちに、カーターは自分の頭の中で英雄たちが、全て白い肌を持っているように思えた。
白は純粋さの象徴である。
白は清潔さの象徴である。
白は誠実さの象徴である。
そして、英雄に倒される悪人は、すべて色の付いた肌を持っているように思えた。
黒は絶対悪の象徴である。
黄色は狡賢さの象徴である。
茶色は不潔さの象徴である。
そうやって物語を読んでいると、カーターは不思議と充足した。
なぜなら、自分は英雄と同じ白い肌を持っているのだから。
──・──・──・──
カーターは周辺のクラブチームの本拠まで行って、頭を下げ続けた。
「どうか、試合をしてくれ!」
いったチームのコーチたちは、決まって迷惑そうな顔をする。
その表情を見ても、カーターは引き下がることをしなかった。
自分には、チームに所属する子供たちの未来が掛かっている。ここで引き下がるわけにはいかない。
──あのカーター・フレイマンも堕ちたもんだな
と、嘲笑をする目も周囲からは浴びせられていた。
「おまえが黒人相手に何をしたか言ってみろ! え!?」
と、わざと答えにくそうなことを聞いて、試す行為をした人間もいた。
それでも、カーターは
──自分の過去なんざ、いくらでもさらしてやる
という気持ちで相手に当たった。しかし答えるたびに
「それ見たことか。人でなし」
と罵倒されて、反故にされることが多かった。
自分のプライドが傷つく感覚はある。だがカーターには、もっと大きな目標ができている。
──チームの子供たちに、不自由をさせたくない
ひとつやふたつ断られるなら、10や20のチームに声を掛ければ良い。
10や20のチームに断られるなら、100でも200でも声を掛ければ良い。
なにも、チームのある地域に限定しなくても良い。
いろんなところに車を飛ばし、歩き回った。ひとつのチームに何度も赴いて、何度も頭を下げた。
やがて、カーターを見る目を変える人が現れ始めた。
──あのカーター・フレイマンが、プライドを捨てている
あまりに高慢に見えた人間が何度も頭を下げる光景は、少しずつ衝撃を与えていた。
──それほどやりたいことがあるのなら、やらせてみるのも良いか
最初に思ったのは、同地区の古豪チームだった。
「ありがとう!」
カーターは心の底から喜んだ。
──これで、子供たちに野球をさせられる
その気持ちに嘘は全くない。
土曜日にグラウンドの使用許可を取り、両チームが顔を合わせて試合をした。
子供たちが懸命にプレーをする中、カーターはスコアをつけたり、雑用をしていた。
カーターの姿に目を付けたのは、相手の古豪チームの監督だった。
彼は長年、子供たちを見てきた。そして周囲にある、人間関係を見てきた。
──子供は生き生きとしているし、カーターも威張っていない
その姿は、優れたチームに極めて近い。
「良い試合ができたよ」
短い言葉を、挨拶の代わりにした。
「ありがとうございます」
カーターの顔には、達成感が満ち溢れている。その顔を見た監督は、ひとつの質問をカーターに投げかけた。
「カーターさん。なぜ、あなたはそんなに一生懸命になっているんですか?」
この監督は、カーターに敬称を付けた。あくまで対等なんだとカーターに語り掛けた。
カーターもそれを感じ取って、背筋を正した。
「俺は……いや私は、子供たちが不自由なく、楽しく過ごす手助けをしたいだけです」
「ほう」
監督は、カーターの受け答えに濁りを感じなかった。
監督は古豪を率いていく関係で、いろいろなチームを見てきた。
そしてクラブチームの、特に少年が所属するようなチームのコーチというのは、自惚れが生まれやすいと知った。
いろいろなチームのコーチ陣が、いや自分も、その沼に嵌ることがある。
力の無い子供たちを導こうとする意欲が、いつの間にか自分には力があるんだ、という錯覚にすり替わるのである。
──だが
カーターの想いには翳りも、偽善も無い。純粋に「子供たちには羽を伸ばして欲しい」という信念が見えた。
監督は、カーターに対して
「その気持ちに嘘偽りが出ないよう、励みなさい」
と言った後、カーターの今後に激励するように
「今後も、試合をしましょう」
と肩を叩いて、自分のチームのベンチへと下がっていった。
カーターにとっても、これほど嬉しい気持ちになったことはない。
子供の時は生まれた環境が悪かったせいで、そして大人になってからは自身の驕りで帰る場所を見つけられなかった。
しかし、このとき初めて
──自分はここに居て良いんだ
と、心の底から思えたのである。
──・──・──・──
思考の中に漂ったまま、サイモン・ポーリーの葬儀に出席することになった。
同席した人間の中には、懐かしい面々がいる。しかし、自分は場違いなように思えた。
──なんで、ポーリー一家は俺と会うことを望んだんだ
そう考えると、あまりに不思議である。何度もサイモンのことを虐げていた。その自覚はある。
しかし、手紙には
「ぜひ、サイモンの葬儀に出席してほしい」
と書いてあった。
かつてのチェッカーズの仲間のうち、来れる人間は大抵が来ていた。
ジェイコブ・フューリー、ジェフ・オーガスタ
エルヴィス・ホールトン、ジム・マクニール
タイラー・オーニール、そして球団職員だったゲーリック・トラバース。
「随分、少なくなったな」
エルヴィスがぽつりと、そう言った。
全員が同意したが、それを表に出してしまうと悲壮感が増す。皆が口をつぐんだ。
ジェフがカーターを見た。
「なんで、お前がいるんだよ」
カーターは何も答えなかった。
自分は言われるがまま、ここに来たに過ぎない。だから問いへの答えを持ち合わせていない。
「よくも、いけしゃあしゃあと…」
そう言いかけたジェフの口を、ジェイコブが止めた。
「ジェフ。ポーリーが会うことを望んでいたそうだ。だよな? ゲーリック」
「ああ。生前から、カーターの居場所がわかったら伝えてくれと言われてたんだがな……」
「カーターが返信しなかったんだよな?」
「……」
ジェイコブが言うことは正しい。
チェッカーズ側から何度も手紙が届いていたが、それを無視したのはカーターの方だった。
「だったら、なおさらだ。なんで来たんだよ?」
ジェフの口調がより攻撃的になった。
相手からの好意を無視し続けた人間が、いまさら甘い蜜を吸おうとしている、と見えるのも無理はなかった。
「ジェフ、よせ。サイモンが望んでないのは分かるだろ」
「納得がいかねえよ」
カーターは、ずっと黙り込んでいた。
ただ黙りこくっていたのではない。自分がここにいる意味を、ずっと考えていた。
ベルから言われた
──良い友人だったのね
という言葉が、胸に閊えている。
自分がサイモンにとっての良い友人だったわけがない。むしろ蛇蝎のごとく嫌われているはずである。
そう思ってきたから、答えが見つからない。
向こうから、サイモンの家族が歩んできた。
──そうか、娘がいるのか
カーターは、サイモンが父親であったことを実感した。
「今日は、ありがとうございます」
サイモンの妻が。謝辞を述べてきた。
「いえ。チェッカーズのなかまとして、当然のことです」
チームメイトを代表して、ジェイコブが言葉を返した。
「そんなことは、ありませんわ」
サイモンの妻は、上品な言葉遣いをする人だった。そして彼女は、カーターのほうに近付いてきた。
──俺に、恨み言でも言うんだろうな
と思っていたカーターは、目の前で言われた驚いた。
「夫は、あなたのことを慕っておりましたよ」
──慕っていた?噓だ
カーターは心を揺さぶられた。どこに、自分を慕うところがあるのか。
むしろ、自分は。
「いつも言うんですの。あなたのような一生懸命な人間は、絶対に善い人間に違いないと」
善い人間なはずが無かった。少なくとも、サイモン・ポーリーという人間にとっては。
「あの人も、若いときは荒れていたそうです。だからこそ、あなたの苦しみが分かる。苦しみを分かち合いたいと思っていたのですよ──」
カーターは、サイモンがそんな感情を自分に向けているとは思わなかった。
だとしたら、自分が彼に向けていた感情は何なのか。
やっと、ベルに言われた言葉が、胸に閊えていた理由が分かった。
サイモンから向けられた純粋な感情を、常に拒んできた。
「自分から見て」サイモンが良い友人じゃなかったから、違和感を感じたのではない。
「彼から見て」自分が良い友人ではなかったことを、後悔しているのだ。
何かが眼前に見えてきたとき、サイモンの娘がカーターに言った。
「おじちゃん、おとおちゃんとにてるね」
──ああ……
カーターは何かがすっぽりと抜け落ちたようになった。
気が抜けたまま、言った。
「生きるために野球をしていたんじゃない。野球をするために生きていたんだな──」




