31 リック・ハート
リック・ハートは背が低い。
こと、周りがみな体格の良い人間ばかりだから、なおさら小さく見える。
ロッカールームで
「おい、チビ」
という言葉が誰かの口から出てきたとき、それは得てして
「おい、リック」
と言われているのと変わらない。
リックは、自分が「チビ」であることを気にしている。
小さい頃に憧れていたベル・シドという選手は、長身を持ち、鋭いスイングでホームランを量産した、1890年代から1900年代初頭のスラッガーである。
特に1900年に入って間もなく、40歳のシーズンでホームランキングになった。
そういうパワフルな人間を目指していたリックは、親に無理を言って、卵や牛乳をたくさん使った料理を食べさせてもらった。
両親もリックの要求を「無理だ」とは言わず、微笑ましく見守っていたのである。
しかしリックの家系は代々、そこまで身長が高くなる遺伝子を持っていなかった。
皆が皆、世の人々の平均身長よりも低かった。
リックも例に漏れることなく、エレメンタリースクールでも、ミドルスクールでも、それ以降も、学年で1、2を争う背の低さだった。
そのせいか、彼のあだ名は終生「チビ」であることが決まってしまった。
大きいことに憧れを抱いていたリック少年は、人から自分の背の低さを滑稽に扱われることを嫌っていた。ぞんがい喧嘩っ気が早く、執拗に「チビ」と言ってきた相手を殴ったこともある。
だが、大抵は
「手を出すまで行っちゃいけない」
と大人たちになだめられ、リックも
──殴らなくて良いなら、殴らない
と、心に決めて生きるようになった。
だが、それがリック自身の心を穏やかにしたかといえば、当然そんなことはない。
むしろ、リックはしばらくの間、悶々としながら過ごした。
彼にも才能が無いわけではなかった。
背は低いが脚は長く、それでいて体のバランスが良く、脚のピッチが速くて小回りが利く。
つまるところ、彼は「脚が速い」の一言に集約されるような身体能力を誇っていた。
長距離走はやったことが無いからわからないが、短距離走では誰も追いつくことができない。
身のこなしすら俊敏で、例えば鬼ごっこをやった時には
──つかまえた
と思った瞬間に、手を躱して走り過ぎていくこともあった。
小柄な体に、他から抜きんでている走力。そして軽やかな身のこなし。
彼を必要以上に嫌っている人からは「cockroach」なんて呼ばれもしたが、リックにとっては、そしてリックの家族にとっては、紛れもなく誇りのひとつだった。
リックはミドルスクール時代、陸上競技の地区大会で優勝した。
まだまだ始まりたて、真新しい大会での結果ではあったが、自分の能力に確信を持てるだけの経験になった。
このまま陸上競技の道へ進む選択もあったが、時代の気風がそれを困難にさせた。
気風と言っても、まだまだ陸上競技者が食い扶持を安定させる仕組みがなかった、というだけのことである。
リックも特段、そのことに不満は無かった。なぜなら
──野球がある
という確信があったからである。
彼は陸上競技ばかりをやっていたわけではない。両親はリックが持つ武器を生かそうと、様々なことに挑戦させていたのだ。
ランニング競技を始め、フットボール、水泳、テニスなどなど。
しかしリックの性に一番合っていたのは、やはり野球だった。
ホームランバッターになりたい、という夢を前から持っていたのは先の通りだったが、そのメンタルは野球をするときにこそ最大限に生かされた。
「小さい体に見合わない。やめなさい」
なんて言われたこともあるほど、フルスイングをした。
我の強さを持っているリックは、フルスイングを止めなかった。
というよりも、隠れてやっていた。
コーチの前では従順なスイングをしておきながら、裏でたくさん振り込んで、それを試合でいきなり披露する。
その時にチームメイトが見せる驚きと喜びの混じった表情が、リックにとって快感で堪らなかったのである。
もちろん、後で叱られた。そして、コーチからおかんむりを貰いながら貫いたフルスイングは、ついにボールをホームランゾーンに導くことはなかった。
それでも確実にリックの打撃には良い影響があって、ハードヒットが多かった。
快足を生かした守備走塁と、見栄えが良い打撃。
それでリックは、プロの野球チームに注目される存在となったのだ。
──・──・──・──
数年後のことである。
脚の速かったリックは、メジャーな舞台でも能力を生かされた。
打撃は、まだまだ一軍級の人間と比べると非力で粗かったが、走塁能力はスターになれるだけの能力を、既に有していた。
それだけにチームは
──この才能を使わないのはもったいない
と、早い段階からリックを使うことにしたのである。
経験は人を成長させる。
リックは多くの場数を踏むことによって、さらに走塁技術を進化させた。
しかし一方で、走力を武器として認識されすぎたせいか、打席に立つ機会が少なかった。
そういった部分でいえば、リックは自分の「憧れ」とは程遠い場所に身を置いたと言える。
リックは早くも、ひとつの諦めをしていた。
──グッドヒッターにはなれないな
この諦めは、自分の夢を諦めたということではない。周りが圧倒的すぎるのである。
レギュラー陣はともかくだった。
エド・ウィーランド、オイラン・エッガー、ダニー・ゴールドバーグといった面々が打棒に自慢を持っているし、投手をやっている面々も、タイラー・オーニールという稀代の選手を擁しているせいか、打撃意欲に満ちている。
もっと言えば、このチームは役割分担をしっかりとする傾向がある。
その中で、走塁に紛れもない才能を有しているリックの存在は、実は貴重だった。
そのことに気が付いていたから、自分の役割というものが明確に見えた時
──自分の理想に固執するべきじゃない
と思ったのである。
これが、彼の「諦め」だった。
この考えによって、失ったものもあるだろう。
しかし得たものは、それ以上に多かった。
試合の後半、リックが誰かの代わりに塁上に立った時、観客は一斉に歓声を上げるのである。
一塁にいるときはツーベースで、二塁にいるときはシングルで、一気にホームベースに帰ってこれるだけの脚がある。
もっと言えば、スチールも彼が塁上にいるときに考慮しなければならない。
相手チームにとっては、リックが塁上にいるときには負担を感じるだろうし、自チームにとっては逆で。攻撃をしやすくなる。
リックの小さな体がダイヤモンド上に現れたときこそ、チームにとっての「攻めどころ」の合図でもあった。
彼の存在感は大きかった。
彼のおかげで得点できた試合が何試合あったのか、という議論が巻き起こった時
「勝ち試合の全てだよ」
という言葉が出るほどには、彼は塁上で躍動した。
だからチームメイトがリックを「チビ」と呼ぶとき、それは身体的な特徴を言い表すだけではない。
リック自身が「チビ」という一般的な形容詞で言い表しても良いくらい、存在感のある選手になったという証だった。
ただ、やはりリックは自分の体の小ささを気にはしている。
いくら脚が速くても、体が大きくない以上は他の要員として使われ辛い。
もちろん、ピンチランナーとして出た後に、守備要因として内外野を守ることはあるが、打席には立てないことが多い。
もう理性的な部分では諦めがついているとはいえ、感情の部分で認めきれない所も多かった。
そういった意味ではリックも若い。
どこか矛盾を抱えながら、彼は自分自身を入団してから戦役に赴くまで、野球という競技に人生をつぎ込んだのである。
──・──・──・──
世の中が戦争に突入してから、半年の後。
リックは戦役に向かうまでの前段階として、軍事訓練に明け暮れていた。
体力には自信がある。
しかし、何より辛かったのは軍隊の気風だった。
軍隊の中では
──精神を鍛えるため
という名目のもとで、汚い言葉が飛び交っていた。
その中でリックは、たびたび「チビ」とか「ノミ」とか言われた。
チェッカーズに居たころの愛嬌を含んだ物言いではなく、本当の罵倒として飛んでくるのである。
リックは辟易とした。
自分の気にしていることをずけずけと言い放ってくるのは、確かに精神を鍛えるのに良いかもしれないし、意図してやってもいるだろう。
ただ、そこに時たま感じる嘲笑や軽蔑のニュアンスが腹立たしく、悲しく感じるのである。
洗礼は半年間続き、苛つきよりも落胆が強くなった時、リックは戦線に送られることになった。
本国から遥か西方の、戦火がにわかに激しくなってきた地域である。
危険な地帯への派遣であったが、すでに兵士となったリックには、そのことに反対する権利などは無かった。
派遣された場所へと到着した時、予想以上の光景が広がっていたことにリックは茫然とした。
かつて市街だっただろう土地は瓦礫の山になり、木々は炭化して倒れていた。
そして、人の匂いがしない。
周りは煙の臭いばかりで、かつての生活の風情を感じない、静かな荒廃が一面に広がっている。
リックたちは、廃れた光景を横目にしながら移動を続けた。
旧市街地は襲撃の拠点になりやすい。危険な場所から遠ざかるための撤退である。
1週間かけて隣の地域の北端にまで来たときに、リックたちは初めてテントを張って寝た。
食べ物は少ない。粉っぽいレーションと、酸っぱいインスタントコーヒーくらい。
ここまで敵との交戦はなかったが、それでも独特の緊張感から逃れることはできない。
自然と皆が無口になった。
リックは隣の兵士に声をかけた。
「リック・ハートだ。お前は?」
単純すぎる問いかけだったが、この単純さが兵士の心を開かせた。
「お前、まさかチェッカーズのリック・ハートか?」
この兵士、名前をデイビット・モラレスというが、どうやらクロークハッチ・チェッカーズのファンだったらしい。その顔がほころぶのが、リックにもわかっただろう。
「俺を知ってくれているのか?」
リックが明るく言うと
「もちろんだよ! チビのリックと言えば、知らないやつはいない」
と、モラレスも興奮気味に返した。
リックにとっても、モラレスの言葉は嬉しかった。
なにしろ軍に配属されてから初めて聞いた、愛情のある「チビ」だった。どこか懐かしさを感じたのだ。
リックはそれから饒舌になった。
会話に花が咲き、周りの兵士も巻き込むようになった。
上官からは
「うるさいぞ、黙れ」
と言われることもあったが、そこはコーチに逆らってフルスイングを続けた男である。上官がいない所で仲間との会話を楽しんだ。
会話のおかげだろうか。リックのいる部隊は、戦場の雰囲気に吞まれなかった。
重たい気持ちになることは多かったが、身を蝕むまでにはならなかった。
周りに恵まれていれば過酷な状況に陥ろうとも、あんがい心身は保つ。リックは周囲に常々
「仲間のためになるのなら、やれることは何でもする」
と言っていた。
言葉の調子は、野球をしていた頃と全く同じだった。
リックは当時から、どこか奉仕精神の強い人間だった。
それこそ自分が望むものよりも、他者の望むものに従順な部分があった。
それは自分が「持たざるもの」である、というコンプレックスからかもしれないが、周りも助けられている以上、なにも文句は言わなかった。
そういうリックが苦難に直面したのは、先の地点からさらに北東へ、80km進んだ時である。
この辺りにで、周りに敵が多くなった。軍事的に衝突することも考えられた。
しかし所属する部隊は、さらに敵陣地の深奥の部分にまで赴かんとする足を止めなかった。
リックたちは口々に言いあった。
「この上官は正気なのだろうか」
結論から言えば、上官(名前をトニー・ブレイマンという)は正気だった。しかしながら、作戦を立てた人間が正気ではなかった。
敵の深部に潜り込ませ、囮として目を向かせた後に、沿岸部から一気に攻め込む。そんなことを思い描いていたらしいが、相手の思惑をケアしないほど敵も馬鹿ではない。
さらに言えば敵中に潜りこんだことで、リックたちの部隊は連絡が遮断される憂き目に遭った。
──・──・──・──
ブレイマンだって
──無謀な
と思ったが、上層部からの命令に逆らうことができず、不安を抱えながら進んでいたのである。
しかし、そのような中で進み続けるのにも限界があった。
行軍を始めてから半月が経った時点で食料が尽きた。ブレイマンから基地との連絡を試みた。
無線は繋がった。そのことは喜びであった。
しかしながら基地からの通信は、おおよそ次の一言に集約された。
「進み続けろ」
ブレイマンは失望した。様々な御託が並べられていたが、そんなものはどうだって良い。
食べ物も無いのに進めとは、どういう了見なのか。叫びたい気持ちを押し込んで
「承知しました」
とだけ伝えていた。
さらに1週間が経った。
少量の食料を分けながら食べたりしていたが、空腹が続いている。水も思ったように手に入らない。
部隊の士気は下がり、味方が来る気配もない。
──こうなったら、助けを求めるしかないだろう
ということが、ブレイマンの心の内にあったらしい。
自分たちが進んだ距離や、今いる場所を考えると、時間的な余裕はない。基地との連絡も、もはや役に立たないと分かった。
ならば誰かに状況を託して、直に伝えさせるしかない。
「だれか、行ってくれる人はいないか」
ブレイマンは呼びかけた。
応じる人間はいない。
当然のことだった。ここから味方の元に走れ、と言うことは、敵の中を突っ切れと言っていることに他ならない。
しかも大人数だと目立つから、多くても数人で行かなければならない。
この空腹の状態で、それが可能なのか。
もっと早くに決断していれば、とブレイマンは後悔していた。
皆が口籠っていた。しかし一人、声を上げた男がいた。
「俺が行きます」
リックだった。
「お前、良いのかよ」
モラレスがリックに問いかけた。心配する気持ちもあったが、自分が行かなくても良いんだ、という期待もあった。
リックは自慢げに言った。
「ああ。俺は脚に自信があるからな」
──よくぞ、そこまで自信を持てるものだ
モラレスをはじめ、仲間たちは思った。
リックにも恐怖心があるに違いない。だが、それを振り払うだけの勇気がある。
皆はリックを応援したい、という気持ちで一体になった。
それからのち、仲間たちはリックのために食料を分けたり、頼みごとを聞いたりした。
その中でモラレスはリックに
「もしものことがあるといけない。手紙でも書いておくか?」
と、提案した。
周りは反対した。
「縁起でもないだろ」
という文脈である。ただリックだけが
「そうしよう」
と、賛成していた。
リックは、手早く一枚の紙に鉛筆で文章を認めると、仲間から分けられた少量の食料と水を持って、ブレイマンからの
「西に走れ」
という言葉をもとに走り始めた。
──・──・──・──
走り始めてから3日目。
いつの間にか、眼前には野原が広がっていた。目線を遮るものが無く、先にキャンプが張ってあるのが見える。
──ここは危ない
リックは、すぐにそう思った。
しかしながら、体を隠せそうな所は無い。
体を伏せて、なるべく見つからないようにしながら、リックは考えた。
このような場合なら、夜まで待つのが最善手だ。しかし味方の食料に余裕がない。悠長に待つという選択肢が取れるだろうか。自分が楽をしたいだけではないのか。
すでに体は乾いているし、脚は張っている。目がぼやけているし、幻聴もある。
それでも仲間の為に、歩みを止めるわけにはいかない。
ならば多少遠回りになるだろうが、南にキャンプが見えなくなるまで行ってから、また西進する。
そうすれば見つからずに済むし、少しでも早く味方のもとに到達できる。
リックはコンパスを取り出し、方角を確認してから立ち上がって走り始めた。
──・──・──・──
敬愛する人へ
僕は使命を与えられ、この手紙を書くことになりました。とても重要な任務です。部隊のみんなを助けるための任務です。僕たちは食料に苦しんでいます。だから補給を求めるために、遠くの基地へと走って向かわなければならないんです。
自分は脚が速い。だから、いちばん適任だと思って引き受けました。思えば背は一向に大きくなりませんでしたが、愛情は多く受け取って生きてきました。チェッカーズでも、いまの部隊でも、自分を必要としてくれているのは、家族の愛情があったからだと思います。ありがとう。
もしかしたら、帰るころには足が棒になって走れなくなるかもしれませんが、心配は無用です。何とかなります。
自分はきっと帰ります。どうか、元気でいてください。
これが、リックの遺言である。




