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債務奴隷解放宣言  作者: 大垣 壽雄
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14、針の穴くらいの抜け道はあったのに

14、針の穴くらいの抜け道はあったのに


大滝が顧問先の大洋中古車センターを訪れたときのことである。社長の大道洋平が「先生ちょうどよいときにお見えになって頂きました。いま、あるお客さんと先生の噂をしていたのですが紹介させて頂いてよろしいですか」

この頃先生という呼びかけに自然に反応できるようになってきた大滝である。

「結構です、どなたですか」

「ウチの古くからのお客で、教材・文具店の老舗である文教堂の山市社長です」

「ああ、名前は知っております。たしか文教堂さんは最近店を大きくしたのではないでしたか?」

「そうです。ところがなかなかうまくいかないようです。なんでも、近くにできたホームセンターの影響で、売上が思ったようには伸びなくて大変だという話です」

最近多くの文具店がホームセンターや百円ショップの影響で、苦戦を強いられていることは、間違いない。

「いまここへ呼んでもいいですか」

「どうぞ」

間もなく大道に連れられて、山市好夫が入ってきた。

大道の紹介により型どおりの名刺の交換がすむと大道は、気をきかせて「先生、私は用事がありますので席をはずさせていただきます。よろしくお願いします。用事があるときは、この電話で内線五番を押してください」と言って応接室から出ていった。

「突然お時間を頂きありがとうございます。かねてより大道社長に先生の話を聞いておりまして、ぜひお会いしたいと思っておりました」

色白のインテリ風の社長である。大道の話ではアウトドア派であるということから、日焼けしたたくましい男を想像していたのだが意外であった。

「どうぞ、お役にたてればよいのですが」

「実はホームセンターのグリーンホームが、私どものすぐ近くに出店するということを聞いて、ある有名なコンサルタント会社の指導を受けたのです」

「なるほど」

「グリーンホームを迎え撃つ覚悟で、借金をして売り場面積を2倍に増やしたのですが、裏目に出てしまいました。売り上げが当初の目標どおり伸びずに、増えた借金の返済に苦しんでおります。期待していた新年度の学校関係の受注も小さな金額のものまで入札になり、まともには、落札できない価格にまで落ちてしまい、売り上げも粗利益も半減してしまいました。おまけに、企業向けのコピー機など事務機の売り上げもまったくふるいません」

「なぜ、グリーンホームの出店を見てから計画しなかったのですか」

「はい、いまにして思えば私が焦ったのですね。あれほど文具・事務用品の売り場を充実させてくるとは、想定外でした」

「出店を指導されたコンサルタント会社の担当者は何といっているのですか」

「出店までの指導は熱心でしたが、グリーンホームの開店で形勢が悪くなったら足が遠のきました。私の方も高いコンサルタントフィーをいつまでも払える状況ではないので、先月限りで契約を解除しました」

「出店の指導料はいくら払われたのですか」

「銀行に出した事業計画書の作成料などを含めて総工費の約八パーセントでした」

「最近コンサルタントといっても、単なる立ち上げ屋が多いようですね」

「立ち上げ屋?」

「はい、私が勝手にそう呼ぶのですが、経営者をその気にさせて新規事業や出店を立ち上げさせて、その後、業績が悪いのは経営者の努力不足ということで縁を切るコンサルタントのことです。飲食店などがいい鴨になっているようです。」

同業者の悪口は言いたくないが、いくつかの事例を知っている大滝は、腹にすえかねていたのである。

「うーん」山市は腕を組んでため息をついた。

大滝の知る限りでは設計事務所や工事業者、設備工事会社あげくのはてには食材卸会社まで紹介してマージンを取っている事務所もあるという。そして、繁盛すれば成功事例として自分の事務所の宣伝に使い、失敗すれば知らぬ顔の半兵衛ということになる。

「銀行からいくら借りたのですか」

「六千万円です」

「連帯保証人は付けさせられたのですか」

「妻を連帯保証人にさせられました。妻は今度の投資には反対だったので拒んだのですが、私が強引に説得して借入をしたのです。妻には頭が上がりません」

「何年返済の約束ですか」

「10年です」

大滝は最近あった、いくつかの案件を思い出していた。それは、クライアント候補から新たな投資や新規事業の相談を受け、自分が反対して計画を断念させた事例である。

大滝からすれば、計画を実行させれば、その後もクライアントになるはずであるが、勝ち目のない戦いは断固反対してきた経緯がある。反対したために失敗を免れた、などといって報酬をもらえるわけもない。それどころか、あいつが反対したために儲けそこなった、と恨まれているかも知れないのである。

「借入を申し込んだとき、銀行へ出した事業計画書はお持ちですか」

「はい会社にあります」

「後で見せて頂きたいと思いますが、売上はいくら見込んだのですか」

「はい、8千万円です。これまでの2倍です」

「6千万円の投資で4千万円の売り上げ増ということですね?」

「はい」

「ということは、新たな投資分の目標回転数が0.66回ですね」

「そういうことになりますか」

「目標とおり売れたとしても無理な投資をされましたね」

「そうですか」

「それで目標は達成したのですか」

「それが、この調子ですと3千万円がいいところでしょう」

「売り上げ増の8パーセントの純利益率があったとしても、3,000万円×0.08=240万円、純利益240万円÷投資額6,000万円=0.04、つまり利回り4%、ということは、税金を見ないで二十年で回収できることになります。言い換えれば借入の返済が約25年かかるということです」

「どうして?」

「1÷0.04=25だからです」

「なるほど、しかし、売上の8パーセントの純利益率など夢のまた夢です。それができたとしても回収には20年かかるのですか」

山市は沈痛な表情を隠さなかった。

「10年では返せるはずがありませんね」

「はい」うつむきながら山一がうなずいた。

大滝は、投資額を決めた段階で勝負が決まったということを言いたかった、しかし、いまの山市にとってそれは酷に過ぎると思い、それ以上はことばにしなかった。

「起きてしまったことは仕方がありません。問題はこれからどう乗り切るかを考えなければなりませんねぇ」

「はい、先生どうか力になってください。私はいま、不安でどうしていいか分かりません」

「私で、できることがあればお手伝いさせて頂きます」

大滝は、その日はひとまず山市と別れて、あらためて教文堂を訪問することを約束して別れた。

帰り際に大道から聞いた話によると、山一社長は景気が良かったころは釣り、狩猟、ゴルフなど多趣味であったが、この頃は金の回りが悪くなったのか、控え目になったという。そしてひどい糖尿病で医師からは好きな酒も止められているという。

大滝は、翌々日文教堂を訪れ、出された経営資料をつぶさに読み、分析したが、財務内容は想像以上に悪かった。

苦境から脱出するために打った手が裏目に出て、いっそう苦しい状況を招くことはよくあることであるが、文教堂もその例にもれなかった。

明らかに資金繰りに詰まっている。

銀行に泣きついたが、借入の返済が始まって半年くらいでの条件変更には応じてくれなかったという。

やむなく、ノンバンクを頼り始めたが、借金を返すために借金をすることが続いている。

資金繰りの苦労は経営者のエネルギーを消耗させる。自転車操業になると本来の経営や営業活動がおろそかになるのがふつうである。悪循環に陥り、状況はますます悪化するのである。

教文堂の経営環境によい材料は全くといってよいほど見当たらなかった。唯一救われるのは、社長夫人の高子が明るく前向きであることである。大滝の前でも開けっぴろげな話をする。

「お父さん、事業に失敗はつきものよ。やり直せばいいのよ」

「やり直すと言ったっておまえ、どうすればいいのだ」

「自己破産してゼロから出発しましょうよ。借金さえなければ何とか食べて行くくらいはできるわよ」

「自己破産するって、簡単に言うけどおまえ、多くの人に迷惑をかけるし金だってかかるし、ねぇ先生」

「確かにおっしゃるとおりです。しかし、手をこまねいていては、状況は悪くなるばかりです。奥さんの言われるように方針を決めることが大切です」

「倒産の道しかありませんか」

「申し訳ありませんが、私にほかの道は考えつきません」

「そうですか。もっと早い時期に先生に会いたかった」

「私もそう思います」

ここにも見えない鎖に繋がれた債務奴隷といえる夫婦がいる。重い空気が流れるなかで、大滝は思う。世の中に失敗を望んで経営者になる人はいないが、現実には多くの倒産があり、それぞれ、悲劇的なストーリーが生まれる。問題は、人生そのものが崩壊してしまうことである。復活の機会を失ってしまうことや、やり直す時間を失ってしまう人が多いことである。気力を無くした時が時間を失ったときでもある。

山市社長の場合はどうであろうか。これから起こるはずの倒産劇にまつわるさまざまな出来事に思いをはせると気が重い大滝であった。

「先生、もし私に万が一のことがあったら、私にかけられた生命保険はどうなるのですか」

「生命保険金も債権者に差し押さえられる可能性がないとはいえません。保険料の引き落とし口座や保険金の受取の口座は借り入れのない銀行の個人の口座に変えておいた方が安全だと思います。いちばん安全なのは受取人を借入人や保証債務のない人、例えばお子さんたちに分散しておくことでしょう」

「お父さん、縁起でもない、いまどうしてそんなことを心配するの?」

高子が眉をしかめて口をはさんだ。

「人間だれでも生身の体だ。明日どんなことが起きるか分からないだろう」

「それはそうですが」

「自己破産をした場合、自分たちはいいが、子供たちが負債を負わなければならないと言う話を聞いたことがありますが、その場合子供たちまで自己破産をしなければならないのですか」

「財産を相続した場合は負債も相続しなければなりません。したがって、相続する資産より負債の方が多い場合は相続放棄の手続きをとればよいのです」

「手続きは難しいのですか」

「いいえ、簡易裁判所で簡単にできます。ただし、手続きは被相続人が死んでから三か月以内にやらなければなりません」

「なるほど分かりました、それでは、いまの私にはもっとも重要な自己破産のことについて教えてください」

「私は法律の専門家ではありませんが、わかる範囲でお話します」

大滝は、かいつまんで自己破産のメリットとデメリット、手順、費用、用意すべき資料、注意すべきことがらなどを説明した。

山市夫妻はだいぶ腹が据わったとみえ、大滝の話を落ち着いた様子で聞いていた。

自己破産申し立ての代理人には、大滝が紹介する約束で横田弁護士に依頼することになった。その際裁判所に納める予納金はともかく、弁護士費用はできるだけ安くしてもらうために関係書類は、自分たちで揃えておくことにした。

その後、ときおり山市高子から質問の電話がかかってくる内容から推測すると、自己破産のための準備は着々と進んでいるようだ。

自己破産を申し立てる日は、比較的現金が溜まる三月の末日を想定している。

申し立てる日現在の現金はゼロにするが、その前日までにどうしても不義理できない人には、支払や返済を済ませておきたいし、自分たちの最低限の生活費などは用意しておかなければならないからである。


三月も半ばを過ぎ、春の気配が漂い始めた早朝である。大滝の携帯電話がなった。ベッドの中から手を伸ばした大滝はなぜか電話の主が山市高子のような気がした。

「もしもし大滝です」はたして電話は山市高子からであった。

「先生、山市です。主人が今朝亡くなりました」

「まさか、どうして急に?」大滝は絶句した。

「自ら命を絶ちました」この時初めて冷静であった高子の声が、嗚咽に変わった。

大滝は、慰めの言葉が見つからなかった。

「力を落とさないでください。今すぐ伺います」

文教堂の近くにある山市家の庭から警察の車が出て行くところであった。一応検死が行われたのであろう。

隣組や近所の人たちなのであろう、ひそひそ話をしながら遠巻きにしている。大滝はその間を縫って玄関から飛び込んだ。

大滝は、会釈を交わした山市高子の目を見て、自分と彼女だけが思い当たることを、無言で会話した。

「このたびはどうも・・・」

言葉になったのはそれだけであったが、大滝は遺体の前にひざまずいて叫んだ。

「山市さん!どうしてそんなに死に急ぐ必要があったのです?もっと楽に生きられるようになるのはこれからだったのに・・・」

山市の頭は白い包帯が分厚く巻かれていた。顔は安らかで、大滝には笑みさえ浮かべているように見えた。

「もしかして、銃で?・・・・」

高子は、泣きはらした目でうなずいた。

おそらくは、銃口を口にふくんで足で引き金を引いたのであろう。

そのうちに、文教堂の店員や葬儀社の社員などがきて、あわただしい雰囲気の中で大滝は高子に別室に呼ばれた。

「倒産の話はまだ誰にも言っておりません。それから、生命保険料の引き落とし口座や保険金の振り込み口座は変えていたようです。念のため先生には、お知らせしたくて・・・」

「わかりました。どうか、気強く葬儀を仕切ってください。すべては、その後で・・・」

「どうか、よろしくお願いいたします」


文教堂の社長山市好夫の葬儀が終わってから、2か月近くになろうとしていた。

山市高子から電話が入ったのは、ゴールデンウイークの合間の平日であった。

「山市です、先だっては大変お世話になりました。お蔭さまで先日四十九日の法要も終わりまして落ち着きを取り戻したところです。いろいろとありがとうございました」

「いいえ、お役にたてませんで・・・。お疲れのことが多かったことと思いますが、奥様の体調はいかがですか」

「ありがとうございます、私は大丈夫です。お電話さし上げましたのは、今後のことでご相談申し上げたいと思いまして・・・」

「じつは私も気になっておりましたが、そちらから電話があるのをお待ちしておりました」

「申し訳ございませんでした。先生のご都合のつく日で結構でございます。恐縮ですができるだけ早くお目にかかりたいと思いますがいかがでしょうか」

「私は、連休明けはちょっと塞がってしまいましたので、差し支えなければ明日の午後でも結構です」

「それでは、明日ということで、こちらから出向きましょうか」

「いえ、なにか見たい資料があるかもしれませんので、こちらからお伺いいたします。午後1時ということでよろしいですか」

「結構でございます、お待ちいたしております」

驚いたことに、翌日の話し合いは極めてビジネスライクに進んだ。山市高子はめそめそした態度は微塵も見せなかったのである。

大滝は女性の強さに改めて感心した。

多くの場合自己破産の打ち合わせのときなど、当初は女性の方があれやこれや心配してささいなことまで質問するが、いざ腹を固めるとたくましいのは女性のほうである。

まず大滝は、社長が死んでしまった会社を自己破産することもないと考えた。そして、山市高子は会社役員にもなっていない。以前一緒に仕事をしていた弟が専務取締になっていたが、数年前に退社していた。弟は銀行に対する保証はないという。

夫妻個人の債務は銀行の保証だけである。文教堂の保証人として、銀行に対する保証債務を支払う資産も能力もないのだから個人が自己破産をすればよいのである。会社の債務は山一社長があの世に持っていったと考えてよい。個人の自己破産なら同時廃止といって、破産管財人を必要としないために管財人の費用もかからない。破産申し立てが受理された後、破産の決定と同時に免責の手続きに入るから免責決定に時間はかからない。いまでは費用もあまりかからなくなった。書類は大滝の指導によって自分で書けば安上がりである。申し立て書は一日で書けたが添付書類の準備に何日間かはかかった。それでも、一週間後には大滝は高子に付添って裁判所に出かけたのである。

裁判所の窓口の度の強い眼鏡をかけている女性職員は、差し出した申立書を一瞥するなり「弁護士さんに相談をしてから来てください」とけんもほろろの扱いである。

「申立書を持って本人がきているのに、なぜ見て受理できないのですか」

大滝は想像通りの対応に対し、予定通りの質問をした。

「書類の不備や不足する添付書類が多く、結果として本人の手間がかかることと、自己破産せずに債務整理などの方が、本人にとってメリットがある場合も多いので、できるだけ弁護士さんに相談されるようお勧めしているのです」

「弁護士さんに代理委任をするお金が無いので、私たちだけで参りました。書類に関してはざっと目を通して頂ければ受理できるかどうかの、ご判断はできると思います。それに債務は保証債務だけで、サラ金やノンバンクからの借り入れはありませんから、債務整理の選択肢はないと思います」

「あなたが本人ですか」

「いいえ、この方が本人です」

大滝はそばにいる山市高子を前へ押し出すようにして言った。

「あなたはどういう関係の方ですか」

「私はこのかたの知人で、申立書の作成のお手伝いをした者です」

「少々お待ち下さい」

女性の職員は、後ろの方にいる上司らしき人間と話合っていたが、ややしばらくして戻ってきて言った。

「申し訳ありませんが決められた方針ですので、弁護士さんに相談してからにしてください」

「決めたことっていいますが、そういう法律があるはずないでしょう。誰が決めたのですか」

「申し訳ありませんが、そう決まっておりますので・・・」

「わかりました、それでは破産申し立てを受理できないという、不受理の理由書を書いてください。それを見て再検討させていただきます。しかし、私どもは受理できないという理由に納得がいかない場合は引き下がりませんからそのつもりでいてください」

「たびたびすいませんが、ちょっとお待ちいただけますか」

困った顔をしてそう言い残してまた引っ込んだが、少し丁寧な言葉使いに変わってきたようだ。

しばらくしてから、男性の職員が出てきた。どうやら担当者らしい。

「お待たせしました。自己破産の申し立てだそうですが、書類を拝見させてください」

これまでのいきさつからでは飛躍していたが、申立書を見てくれればいうことはない。そう思いながら、申立書に添付書類などを差し出した。

ぱらぱらとめくった後「どうぞ廊下でおかけになってお待ちください。目を通してからお呼びいたします」

「はい」

二人は廊下に出て廊下の壁際にあるベンチシートに腰かけた。

「初めから見てくれればよいものを・・・」

大滝のぼやきに山市高子は「先生の押しが強かったから、受け付けてもらえましたが、そうでない場合どうすればよいのでしょうね。裁判所も人によって対応が変わるということですよね」と不服そうだ。

「多くの役所ではそういうことが多いようです」

しばらくして、山市高子が呼ばれた。大滝は廊下で待っていた。裁判所によると、特に出張所の場合などは、ご一緒にどうぞ、と書類の作成の指導や支援した人も招き入れられる場合もあるようだ。その方が仕事が早いからである。

経済的な理由で、弁護士や司法書士に頼めない人は友人知人で、ある程度の知識がある人や馴れている人の力を借りて書類の作成をするが、裁判所はそれを嫌うところが多い。

大滝は書類の作成には自信があった。間もなく山市高子が部屋から、明るい顔をして出てきた。

「お蔭さまで、受理されるそうです。1階にある出納室で予納金の支払いをした後、売店で印紙と切手を買ってきます」

「それはよかった、後はお子さんたちの相続放棄の手続きをするだけです」


その後破産の確定、免責、広報による告知がすみ山市高子は趣味の手芸を活かして、教室を開いたという知らせが入った。

「主人は私たちのことを本当に心配していてくれていたのですね」

その後あいさつにきたとき、しみじみといった高子のことばがいまでも大滝の耳に残っている。

元気になった高子は、いまではいきいきと活動しているようである。

ただ、浮かない顔をして考え込んでいるのは大滝である。それは、日が経つにつれ山市社長の死について、気になり出したのである。自分のアドバイスに落ち度はなかったのか。うかつにも生命保険の相談を受けたのも他ならぬ自分である。そこに釈然としないものがあった。

しかし、文教堂の場合はコンサルティングのクライアントというより会社のたたみ方を相談されたといえることが救いといえば救いであった。

ただ、このたぐいの仕事は、血を流さずに会社をたたむことが大滝のひそかな自慢でもあったがこんどばかりは、いろいろな意味でそうはいかなかった。

ある日、大滝は大洋自動車の大道社長を訪ねた。

「私のアドバイスが引き金となって、山市社長を自殺させてしまったのか気になっています。あの時点では、精神的にそこまで追い詰められているとは考えてもみませんでした」

「これは本人にしか分からないことですが、私が思うに山市社長は、先生に会えたので安心して死ねたのではないかと思うのです」

「というのは?」

「山市社長はいつでも、家族のことを心配していました。男なら当たり前と言ってしまえばそれまでですが、それは異常なくらいでした。私が思うには、奥さんや子供たちにとって、決してよき夫、よき父親ではなかったと思っていて、そのことを負い目に感じ、最後には償いたいと考えていたのだと思います。しかし、それを決してことばにするような人ではありませんでした」

「よき夫や父でなかったというのはどうしてですか?」

「とにかく、お金のやりくりは奥さんまかせでしたし、自分の趣味で忙しくて子供の相手などはおろそかになっていたようです」

「何がそうさせたのかなぁ?」

「いつも突っ張っている人でした。カッコよく生きたいタイプで、強がりは半端ではありませんでした」

「なんとなく分かってきました、それにしても、私との出会いはよかったのか、悪かったのか」

「そればかりは、本人に聞いてみなければ分かりませんよ」

「本人に?」

「はい、もしあの世に行って彼に会えたら聞いてみたらいかがです」

大滝は大道のことばによっていくぶんか救われたような気がした。

「そうしましょう。それにしても針の穴くらいの抜け道はあったのに・・・」言いながら大滝はかつて自分を救ってくれた松田無弦老師のことばを思い出していた。


それにしても、借金を苦に自殺する人は実際のところ、どれほどいるのであろうか。

警察庁発表によると日本の自殺者数は31,690人(平成22年)で、13年連続で3万人を超えている。これは交通事故死の6.51倍に上りその深刻さが分かる。

自殺率は24.9人つまり、人口10万人当たりの自殺者数が24.9人であり、世界で4位アメリカの2倍である。

自殺未遂者は自殺者の10倍といわれており毎日1,000人もの人が自殺を図っていることになる。

最近自殺者数が増えている原因は不況によるものと推測されており不況の影響を受けやすい中高年男性の自殺率が急増している。

そのうち経営不振、資金繰り悪化、倒産などによる経営者の自殺数がどれだけあるかは定かではないが相当な数あることに間違いないはずである。

それは、うつ病など病気が直接の原因で自殺することがあるが元をたどれば経済問題にいきつくことが多い。いまや自殺問題は個人の問題ではなく社会問題といわれている。

自己破産をして資産と負債のすべてを投げ出せば身軽にはなることはできるが、自分のために保証してくれた人を奈落の底へ突き落すことを考えると誰しも躊躇する。保証人に自殺されることにもなりかねない。しかも連帯保証に時効はないし保証債務は負債であり、負債は資産を相続する者には相続される。

苦しまぎれに業績不振を隠して家族や友人・知人に連帯保証させた結果が借金を背負わせるとなれば自責の念にさいなまれる。

そして、経営者が失業すれば休業補償がないため、まったくの無一文になってしまう。

うつ病は心の弱い人がなるのではなく、商売熱心で、几帳面、約束事は守る人等に多いと聞く。

「社長はその日までいつもと変わらず仕事をして、深夜に遺書も残さずこの世を去ってしまった」

「自営業だけに日本独特の個人保証や連帯保証人制度が彼を死に追いやった」

「最後には生命保険で償うしか方法はなかったのでしょう」などの話を聞くにつれ中小企業の経営者こそ形を変えた債務奴隷そのものといえよう。

事業不振、生活苦、多重債務、家庭不和、うつ病そして自殺という経路をたどる人々は少なくない。

ある人は事業に夢を求め、家族に豊かな暮らしをさせたい一心で起業したはずであり、またある人は親の事業を継承してより良い会社をつくるべく努力してきたはずだ。

また、多くの人びとに便利さや豊かさを提供して社会的な貢献をしたいと考え、ひたすら事業に邁進してきた人もいるだろう。

その結果、志に反して敗れ去ったからといってやり直しができないわけではないし、一人のサラリーマンとして新たな出発ができないわけはないはずである。

これまでの価値観を変えることによって救われるのである。

自ら命を絶った山一好夫に大滝は「今がどんなに苦しくても借金のために命を断つなんて馬鹿げていますよ。あなたとっては、刀折れ矢尽きて、まさに性も根も尽き果てたのでしょうが、視点を変えれば怖いことなんて何もないのです。打つ手は無限にあります。針の穴くらいの抜け道はあるのです」そういってやれなかったことが悔やまれてならなかった。



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