15、気がついたとき愛していたのです
15、気がついたとき、愛していたのです
さしあたりやっておかなければならない事務処理が一段落した明美は、事務所で独り物思いにふけっていた。大滝は今頃仙台にある和菓子のチェーン店の本部を訪れているころである。仙台は北関東地方より1週間遅い桜が満開の頃であろう。
大滝が仙台に出張した2日目の午後で、明日の土曜日には帰るはずである。
このところ事務所の業績は順調に推移している。
仕事が増えて、ときおり頼むリマーケット・リサーチやマニュアル作成指導など外注に出す仕事も多くなった。この一年間で男子社員は3人女子も自分を入れて3人になっていた。いずれも、プロのコンサルタントやその志望者である。事務所はますます活気づいてきた。うれしいことではあるが、これまでのように大滝との接点が減ってきたのが寂しくもあった。
そんな心境がそうさせたのか、明美は大人気ない振る舞いをした自分を責めていた。
明美の心を重くしているのは、出かける前の大滝のいくつかの電話の話を聞くともなしに聞いてしまったことが発端である。
どうやら、債務の残る銀行とのやりとりと、息子の就職の問題にまつわる問題のようである。
仕事は順調とはいえ、すべての負債が消えたわけではない。コンサルタントとして名前の売れ出した大滝にしてみれば、ないものは払えないと言っていつまでも開き直っているわけにはいかない。債権者もそのへんのところは心得ているようだ。
最近とみに大滝の背負う苦労を、遠くで眺めているだけでは耐えられない自分を愛おしくさえ思う明美であった。
そして何よりも、ときおり明美の心を締め付けた大滝の優しさが、遠ざかっていくのが怖かった。
「何かあったのですか」腕組みして宙を見つめている大滝に思わず言った。
「なんでもない。君が心配することではない」大滝がピシャリと言った。
「申し訳ありませんでした」明美は素直に謝ったが、悲しかった。
こんなことではいけない。立ち入ってはいけないことはわかっているのに、どうしてこうも軽率なのか。これは明らかに恋をしている。しかもかなり重症である。だから苦しい。この苦しみから逃れる方法は、この恋を成就させるか、潔く破れるしかない。しばらくは辛いだろうがそれも仕方ない。
相変わらず結論を急ぐ自分の性格をコントロールするのは容易ではない。できることなら職場で物思いにふけるのもこれで終わりにしたい。
明美は、恋をしていてもやはり自分は自分でしかないと思うのであった。
携帯電話のメロディが鳴った。仙台のホテルである。
こんな時間に誰だろう?大滝は枕元の灯りをつけてから起き上がりデスクの上で紫色に点滅する携帯電話を取った。電話は明美からであった。
「遅い時間にすいません。もうお休みになられていました?」
「うん、どうした?」眼をこすりながら見た時計の針は、思ったより早い時間で午前零時を回ったばかりであった。
「社長、これから仙台に行ってもいいですか」
「この時間に・・・何かあったの?」
「会いたいのです」
「なぜ?」
「好きなのです」
「突然どうした・・・酔っているの?」
「お酒は飲んでおりません」
いつもの明美とは明らかに違う。大滝は出張に出かけた朝のことを思い出した。
矢継ぎ早にやってきていた難問にいらいらしていたとはいえ、明美が善意で心配してくれているのに、心ならずも冷たく突き放してしまった自分のことばが気にかかっていないわけではなかった。
それはともかく、明美には唐突な言動で他人を驚かせるあるクセがあることは、わかってはいるが、まさかこんな時間に・・・。
「とにかく行きます。ホテルみちのくですね?」
「うん」言ってから大滝は何に対して、うんと言ったのか考えたが遅かった。
電話は一方的に切られていた。明美の心はすでに東北高速道路を走っていたのかも知れない。
ホテルの部屋のチャイムが鳴ったのは3時間後である。
ドアを開けた大滝の眼の前に軽やかなピンクのワンピースをまとった明美が立っていた。
「来てしまいました」照れながらも、上気した明美の顔。しかし、その瞳はうっすらと濡れているようだ。
「さあ中へ・・・」
大滝は、真夜中に宇都宮から仙台まで車を飛ばしてきた明美のひたむきさを、心の底から愛おしく思った。まだこの自分にも眩しいような愛があったのかもしれない。ぐらりと恋に酔った気分で聞いてみたくなった。
「どうして僕のことなど好きに・・・」
「理由なんて聞かれても・・・、ただ・・・」
「ただ・・・?」
「電話では、好きになっていましたと言いましたが、あの言葉は訂正させてください」
「どのように?」
「ここへ来る道すがら考えたのですが、社長といつも一緒にいたいと思っています。どんなことでも理解してさしあげたい。独占したい。これって、好きを超えているのです」
「・・・・・」
「気がついたとき、愛していたのです」明美はためらいながらも大滝を正視して言い切った。
「・・・・・」大滝は明美を静かに抱き寄せた。
心から愛おしく思った。
たがいの唇が唇を求めていた。
ベッドに倒れ込む。
明美は、大滝の胸の中で切なくあえいだ。
純白のシーツにゆったりと黒髪が舞う。
匂いたつ甘美なぬくもり。
明美は激しく思う。この人のためなら、惜しむものは何もない。
「社長の苦しみの半分くらい私にもください」明美が耳元でつぶやく。
「ありがとう」大滝は不覚にも涙ぐんでいた。そして考える。どうあろうとこの人を裏切るようなことはできない。
しらじらと春の夜が明けてきたようだ。




