一度
◇◇◇◇
白かった。
どこまでも。
果てなど存在しないみたいに。
空もなければ地面もない。
境界線すら曖昧な純白の空間の中で、俺はただ一人、立ち尽くしていた。
静寂だけが広がっている。
音もない。
風もない。
温度さえ感じない。
世界から切り離されたような、そんな場所だった。
そして、その白の中心には、不自然な文字が浮かんでいる。
【コンティニューしますか?】
無機質な文字列。
俺の目の前には、二つの選択肢。
【YES】
【NO】
見慣れた光景だった。
何度見ただろう。
何度この場所へ来ただろう。
数えるのも馬鹿らしいぐらいの回数は来たと思う。
俺は小さく息を吐いた。
「またここか」
呟いた声は、どこにも反響しない。
ただ白へ溶けて消えていくだけ。
俺の死の、その先。
これは俺が再び生へ戻るための待合室。
それが、この場所だった。
視線を落とす。
自分の手を見る。
血も付いていない。
傷もない。
戦いの痕跡は何一つ残っていなかった。
けれど覚えている。
短剣を振るった感触。
自分の骨が折れる感触。肉が裂ける感触。
血を吐いて、身体が冷たくなっていく感触。
そして。
最後に、自分の身体が切り刻まれる感触も。
全部。
鮮明に。
嫌になるほど、体が覚えている。
忘れられない。
『一筋の奇跡』
俺が持つ、たった一つの理不尽を可能にするスキル。
一度だけ。
一度だけ死を無効にする奇跡。
死ぬ直前へと体の時間を巻き戻し、生存の可能性を与える力。
その力があるから、俺は生きてこれた。
誰も踏み込めない階層へと、上がっていけた。
誰も挑まない戦場へと、立ち向かえた。
誰も成し得なかったことへと、手を伸ばせた。
ソロで。
ただ一人で。
誰にも頼らず。
誰も信じず。
それでも。
生き残れたのは……。
「……この力があったからだ」
自嘲するように笑う。
笑ったつもりだった。
だが顔は、ピクリとも動かなかった。
疲れているのだろうか。
ずっと前から。
きっと。
思っていた以上に。
「こんな奇跡があるから」
ぽつりと漏れる。
「俺は……」
最底辺の人間が。
最底辺の人生が。
普通の日常なんてものへと、変わることを期待してしまった。
「夢を見てしまった」
だから。
もう夢を見ることはやめよう。
「休んでもいいよな。ずっと目指してきたんだ。でもダメだった。もう……疲れた」
ゆっくりと【NO】へ視線を向ける。
真っ白な世界の中。
その文字だけが妙に鮮やかだった。
自然と、指が引き寄せられていく。
俺は、ダンジョンマスターになった。
世界が変わると思った。
人生が変わると思った。
けれど何も変わらなかった。
理不尽は理不尽のままだった。
ルールを守っても殺される。
俺が何をやったんだ? 目障りだったのか? こっちから手を出さなくても狙われる。
反撃すれば犯罪者。
殺されれば、最底辺の不敬罪。
ただそれだけ。
世界はどこまでも単純。
「結局。どれだけ俺が強くなっても、この世界の生きづらさは変わらなかったな」
白い空間に声が落ちる。
返事はない。
当然だ。
誰もいない。
ずっと一人だった。
これからも。
俺の味方はいない。
ここでリタイアするのが賢明だと思う。ノースレッドに人生を変える瞬間なんて来ない。
このスキルは、無駄に希望を与えるだけのクソスキルだ。
頑張っても無駄だと、やっとわかった。諦めが悪い俺は、その答えを得るために、随分と長い時間が掛かってしまった。
うさぎも分かってくれる。
だから……。
【NO】
ゆっくりと指が近付いていく。
あと少しで触れる。
その時だった。
ふいに。
記憶の底から声が浮かんできた。
柔らかい声。
どこか呆れたようで。
けれど優しい声。
『死にそうになったら、いつでも反撃してくださいよ』
ルナの声だった。
『だって』
脳裏に笑顔が浮かぶ。
馬鹿みたいに真っ直ぐな顔。
眩しいくらいに。
『ソルさんが生きてる方が、私は嬉しいです』
鮮明に俺の心を打つ。
「――ッ!」
指先が止まった。
目を見開いて、スっと息を吸い込む。
胸の奥が強く締め付けられる。
数秒。
数秒の時が経ち、やっと、ゆっくりと息を吐く。
「……なんだそれ」
思わず漏れた。
あの時と同じ言葉。
同じ反応。
同じ呆れ。
同じ困惑。
そして。
同じ温度。
伸ばした指を握り締める。
強く。
強く。
強く。
「くそ」
思わず悪態がこぼれた。
情けない。
本当に。
情けない。
たかがルナの言葉一つに、たったそれだけことで。
死ぬ理由がどうしようもなく、どうでも良くなってきた。
俺は慣れた手付きで、
【YES】
を押した。
白い世界が砕け始める。
光が走る。
景色が崩れる。
意識が現実へ引き戻されていく。
「どうせ」
消えていく世界の中で呟く。
「次に死んだら終わりだ」
あと一回。
本当にあと一回。
それだけ。
それだけの命。
それなのに。
口元が少しだけ歪む。
「死ねない理由が増えただけ」
世界が弾けた。
視界に色が戻っていく。
崩れた石壁。
血の臭い。
体の痛み。
乾いた路地。
現実が戻ってくる。
瓦礫の下から腕が伸びる。
石を押し退ける。
身体を起こす。
肺が空気を求めて、息を吸い込んだ。
『|春華終実・死ぬ気の時間』
淡い黄金の光が身体を包む。
肉体が、無理やり繋ぎ合わされたみたいだ。
全身が悲鳴を上げている。少しでも気を抜くと、死んでしまいそうだ。
【HP:1】
視界に映った数字は、まさにその通りだった。
風が吹けば消えそうな残り火。
それでも。
俺は立ち上がるしかない。
血塗れの身体で。
震える足で。
ゆっくりと。
前を向く。
まだ終わっていない。
だから。
あと一回だけ。
この一回だけは、
死ぬ気で、戦うことにする。




