第40話 最深部への導き
翌朝――。
小鳥のさえずりが、静かな部屋に優しく響いた。
ライアンはまぶたをゆっくり開き、天井をぼんやりと見つめる。昨夜の疲労はまだ体の奥に
残っていたが、外から差し込む柔らかな陽光が、それを少しずつ溶かしていくようだった。
「……朝か」
眠そうに目をこすりながら、ライアンはベッドから起き上がり、窓のそばへ歩いた。
開け放ったカーテンの向こうでは、枝に止まった小鳥がさえずり、気持ちよさそうに羽を震わせている。
その姿を眺めていると、胸の奥にじんわりと温かい感情が広がった。
――森にいたころの朝。
鳥、風、母ゴリラの腕の重み。懐かしい景色が一瞬だけ胸の裏側をかすめる。
ふと視線を落とすと、床に置きっぱなしの鞄が目に入った。
「あれ……昨日、そのままか」
屋敷に着いてからはあわただしかった。
ドロテアに抱きつかれ、ロニーと話をし、そして眠りに落ちた。
学院から持ってきた荷物は、まるで投げ捨てたように散らばっている。
ライアンは鞄を持ち上げ、机の上に広げて中身を並べ始めた。服、ノート、筆記具、教科書……。
そのとき、教科書の間に挟まった一枚の紙が目に留まる。
「……これ、なんだっけ」
取り出して広げると、大きくこう書かれていた。
《期末試験のご案内》
「あっ……これ、授業中にもらったやつだ」
その時はぼんやり聞いていたせいで、鞄に突っ込んだままだった。
ライアンは姿勢を正し、読み進める。
――期末試験は学院地下迷宮にて実施。
――三人一組で挑み、進んだ階層に応じて得点加算。
――最深部到達者には特別褒賞を授与。
「……迷宮、か」
読めば読むほど、胸が高鳴る。
そして同時に、妙な胸騒ぎもした。理由は分からない。ただ、何か大きなものが動き始めているような、
そんな感覚。そのとき、背後からノックもなく扉が開いた。
「おはよう、ライアン。起きてたんだな」
ロニーが柔らかい笑みを浮かべて部屋に入ってきた。
そして、ライアンの様子をうかがうように視線を向ける。
「朝飯できてるぞ。……ライアン、それ、何読んでるんだ?」
その声にライアンはハッと顔を上げた。
「あ、ロニー……おはよう」
慌てて挨拶を返しながら、手に持っていた紙を差し出す。
「これ、期末試験の案内なんだ。……地下迷宮に潜るってやつ」
ロニーは紙を受け取り、静かに目を走らせる。
その横顔はいつも通り落ち着いていたが――ほんの一瞬、口元がわずかに上がった。
「……ロニー? なんか今、笑った?」
ライアンが首をかしげると、ロニーはびくりと肩を揺らし、いつもの柔らかい微笑みに戻った。
「ん? いや、なんでもないよ。試験、頑張れよ。お前なら大丈夫だ」
そう言われても、胸の奥に小さな不安が残る。
ライアンは不安気にロニーに尋ねた。
「地下迷宮って……どんな所なんだ?」
ロニーは少しだけ考え込んでから答えた。
「俺も入ったことはないけど……噂じゃ、階層ごとに魔物がいるらしい。深い所ほど強い、とか」
その言葉に、ライアンの喉がひゅっと鳴った。
シュタインルー村の洞窟、シグムント、黒衣の男――記憶が一瞬にして蘇る。
ロニーはその強張った表情を見逃さず、そっと頭を撫でた。
「大丈夫。ライアンは強いよ。それに……もう一人じゃないだろ?」
「あ……そっか。レグナスも、フィオナもいる」
その事実を思い出した途端、胸の奥に灯りがともる。
ロニーはその変化を見て、満足そうに笑った。
「よし。じゃあ朝飯行こう。令嬢様待っているぞ」
「うん……行こう」
二人は並んで廊下へ出て、屋敷の食堂へ向かって歩き始めた。
食堂の扉を開けると、すでに席についていたドロテアがぱっと顔を上げた。
「ライアン、やっと来たのね。おはよう」
その笑顔に、ライアンも瞬時に“母さん用の笑顔”を作り、丁寧に頭を下げた。
「おはよう、母さん」
席につくと、ほどなくパンと湯気の立つスープが運ばれてきた。
ライアンはスプーンを手に取り、スープをすすると、温かさが体の冷えをほどいていく。
そんな様子を、ドロテアは頬を緩ませながら眺めていた。
「今日は学院へ戻るのよね? ……何か大変なこと、あるのかしら?」
柔らかな声。だがその裏には、“完璧にこなすことを期待する母”の圧が潜んでいる。
「えっと……期末試験があって。チームで地下迷宮に潜る試験なんだ」
ライアンが説明すると、ドロテアの目がぱっと輝いた。
「まぁ……ライアンが迷宮に? なら、しっかり点を取らなきゃね。
あなたなら最深部まで行けるでしょう?」
その声音は優しさより“期待”や“強制”が勝っている。
ライアンは思わず眉をひそめそうになったが――ぐっとこらえ、また笑顔を作った。
「……がんばるよ、母さん」
その素直な返事にドロテアは目を細め、満足そうにパンをちぎった。
しばらく穏やかな朝食時間が流れた後、ロニーが静かに近づき、恭しく頭を下げる。
「令嬢様。少しよろしいでしょうか」
「どうしたの、ロニー?」
ドロテアが振り向くと、ロニーは礼儀正しく口を開いた。
「ライアン様は今期、占いの授業にも参加されます。その際、水晶玉が必要でございますが……
屋敷にございましたら、お借りしたく思いまして」
「まぁ! ライアンが占いまでできるようになるなんて……素敵じゃない」
ドロテアの目は一気に楽しげな色に染まった。
ロニーは柔らかく微笑み、さらに言葉を重ねた。
「占いがうまくなれば、将来……ライアン様にふさわしい結婚相手を見つける助けにもなるかと」
「結婚……?」
ドロテアの頬が一瞬で上気する。
視線は遠くへ向かい、まるで“未来のライアン”を勝手に描き始めていた。
「大人になったライアンが花嫁を連れてきて……その子どもを私が抱いて……」
ドロテアはぶつぶつと妄想を膨らませていくように見えた。
(……また始まった……)
ライアンは冷や汗をかきながら、苦笑いでパンをかじった。
やがてドロテアはふっと現実に戻り、思い出したように言った。
「そういえば……倉庫に水晶玉があったわ。昔、旅商人から買ったのよ。
ずっと置きっぱなしだったけど……役に立つならいいわね」
そう言うと、腰に下げていた鍵束から一本を取り出し、ロニーへ差し出した。
「倉庫の奥の棚にあるはずよ。持っていきなさい」
ロニーは深く頭を下げ、鍵を両手で受け取った。
「ご配慮、誠にありがとうございます、令嬢様」
その声は穏やかだが――ライアンには気付けないほど僅かに、ロニーの目が鋭く光った。
(……ロニー、なんで水晶玉なんて……?
それに“占いの授業”なんて……あったっけ?)
ライアンは首をかしげつつも、黙ってスープを飲んだ。
胸の奥で、小さな違和感がゆっくりと芽生え始めていることにも気付かないまま。
朝食を終えたライアンは部屋に戻って荷物をまとめ、玄関へ向かった。
扉の前では、すでにドロテアが待っていた。
ライアンの姿を見るなり、ぎゅっと抱きしめてくる。
「……もう行ってしまうのね。ライアンは本当に、私の自慢の息子よ」
髪を撫でる手は驚くほど優しい。
ライアンは胸の奥をぎゅっと押されるような感覚になったが――それでも笑顔で応える。
「行ってきます、母さん」
その一言で、ドロテアはようやく手を離した。
ライアンはロニーと共に屋敷を出て、馬車へ乗り込む。
やがて馬車が動き出し、屋敷が後ろへと遠ざかる。
ドロテアの姿が完全に見えなくなった瞬間、ライアンは思わず胸をなでおろした。
「……ふぅ……」
その様子がおかしかったのか、ロニーはくすっと笑い、優しく頭を撫でた。
「よく頑張ったな、ライアン」
「べ、別に……」
頬を膨らませるライアンの表情が可愛くて、ロニーはますます笑みを深めた。
しばらく草原の風を感じていると、ライアンは思い出したように口を開いた。
「そういえば……ロニーが言ってた占いの授業。あれ、本当にあるの?」
ロニーは視線を遠くへ向け、ほんのわずかに考え込んだように見えた。
しかしすぐに柔らかい笑顔へ戻る。
「まぁ……近い内に受けることになるさ。気にすんな」
「なんか……曖昧だなぁ」
不満そうにむくれるライアンだったが、すぐに別のことを思い出し、睨むようにロニーを見た。
「それより……結婚相手の占いってなんだよ」
ロニーは待ってましたと言わんばかりにニヤリと笑う。
「お? なんだ、ライアン。もしかして……もう好きな子がいるとか?」
「っ……い、いない!」
顔を真っ赤にして否定するライアン。
その反応で、すべて確信したようにロニーはさらに追い打ちをかける。
「フィオナって子だろ? この間、名前出してただろ」
「~~っ!」
息が詰まりそうになりながらも、ライアンは観念したように小さく頷いた。
ロニーはそんなライアンの頭を優しく撫でる。
「で? フィオナのどんなとこが好きなんだ?」
「えっと……笑顔が……すごい可愛いし……明るくて……」
言いながら自分でも恥ずかしくなったのか、ライアンは耳まで赤くなった。
ロニーは微笑ましく見守りつつ、軽く冗談を投げる。
「そうかぁ……。でも、人間の恋人ができたら……森には帰れなくなるかもな?」
「……っ!」
その言葉は雷のように胸に落ちた。
森に帰りたい自分と、レグナスやフィオナと一緒にいたい自分。
両方の感情が激しくぶつかり合い、ライアンの表情が曇る。
胸の奥に、ずっと隠していた小さな願いが浮かび上がる。
(……もし、レグナスとフィオナと三人で……森に住めたら。
毎日あいつらと笑って、好きなだけ走り回れて……)
その景色は、見えるほど鮮やかで――なのに、同時に霧のように遠かった。
(……でも、無理なんだよな。そんな未来……叶うわけ、ないよな)
そう心の中で呟いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
ロニーは沈むライアンに気付くと、そっと肩に手を置いた。
「……今は今を大切にしろよ。
そのうち、お前にとっていちばんいい道が見つかるさ」
その言葉は、不思議と胸に温かく染み込んだ。
ライアンはゆっくりと息を吐き、曇った気持ちを胸の奥にしまい込む。
馬車は順調に進み、やがて学院の寮が見えてきた。
遠くでレグナスとフィオナが大きく手を振っている。
「……あ!」
ライアンは思わず笑顔で手を振り返した。
馬車が停止する直前、ロニーがぽつりと言った。
「ライアン。……なるべく迷宮の最深部まで行けよ。
そこには……お前が探してる“答え”があるから」
「え? 答えって……どういう――」
問い返そうとしたが、ロニーは曖昧に笑って誤魔化した。
「……まぁ、そのうち分かるよ」
その曖昧な返事で、ライアンの心に不安が膨れ上がった。
「……なぁ、ロニー。最深部の魔物とか……倒せるかな」
ロニーはゆっくりとライアンが背負っている剣へ視線を向ける。
「お前には、メリックの知恵が詰まった剣がある。
……それに、お前は一人じゃない。レグナスも、フィオナもいるだろう。
きっと倒せるさ」
言葉が胸の奥に染み込んでいく。
ロニーの声には嘘がない。“わざと励ましてる”感じでもない。
静かな確信――それが強く伝わる。
ライアンはゆっくり息を吸い、その空気を肺に押し込んだ。
「……うん」
胸のざわめきが、少しずつ光のように変わっていく。
「僕……頑張るよ。ちゃんと、最深部まで」
ロニーは満足そうに微笑んだ。
「そうだ。それでいい」
やがて馬車が完全に止まり、寮の建物がすぐそばに見えた。
ライアンは振り返り、ロニーに笑みを向ける。
「行ってくるよ、ロニー!」
「……あぁ。気をつけてな」
その声に後押しされるように、ライアンは馬車から飛び降り、
レグナスとフィオナへ向かって駆け出した。




