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冥光輪廻 ― 二つの神に愛された魂 ―  作者: ミルハ


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1/21

プロローグ ――創世の調べ

遥か昔。

まだ天地がその名を持たず、空と大地の境さえなかった時代。


時は流れず、昼も夜もなく、世界にはただひとつのものだけが満ちていた。

それは――“息”だった。


目には見えず、音もなく、けれど確かにそこにあるもの。

あらゆる命の源となる、ひとつの大きな“想い”。


その息が、あるとき静かに揺らめいた。

ほんのわずかな揺らぎだった。


けれど、その揺らぎは次第に強くなり、やがて一筋の光となった。

世界で初めて生まれた光は、何もない虚空を照らした。


そして、光が初めて何かを照らしたその瞬間――

その足元に、ひとつの影が落ちた。

それが、闇の始まりだった。


光から生まれたもの。

そして、光によって生まれたもの。

二つの存在は、やがて神となった。


光を司る神――白 澄昊(バイ・チョンハオ)。

闇を司る神――沈 炎冥(シェン・イェンミン)。


二柱は、同じ源から生まれた。

それゆえ、兄弟のように長い時を共に過ごした。


チョンハオは光をもたらした。


凍える大地を照らし、眠る種に春の訪れを告げ、あらゆる命に生きる力を与えた。

その光は眩しく、温かく、何よりも美しかった。


一方、イェンミンが司るのは闇だった。


けれど、彼にとって闇とは決して“終わり”ではない。

夜の静けさ。

疲れ果てた命が身を休める場所。

古い命が土へ還り、新しい命が芽吹くための時間。


光が「生」を照らすものならば、闇は「生」が再び巡るための場所だった。


二柱の役割は異なっていた。

それでも、どちらが欠けても世界は成り立たない。


昼があれば夜があり、誕生があれば死がある。

光があれば、そこには必ず影が生まれる。

そうして世界は、二つの力の均衡の上で、静かに息づいていた。


――人が生まれるまでは。


人は、土と息と涙から創られた。

神々に比べれば、あまりにも弱く、あまりにも儚い存在だった。


けれど、人には神々が持たなかったものがあった。

誰かを想う心。

失うことを恐れる心。

そして――愛するということ。


人々は太陽を見上げ、光を讃えた。

朝が来れば喜び、作物が育てば天に感謝し、病に伏した者がいれば光の神へ祈りを捧げた。


「どうか、明日も太陽が昇りますように。」


「どうか、この命をお守りください。」


その祈りを、チョンハオは喜んで受け取った。

人々が光を愛することを、彼は嬉しく思っていた。


けれど――夜が来ると、人々は怯えた。


太陽が沈む。

辺りを闇が覆う。

見えないものへの恐怖が、心の奥から湧き上がる。


やがて人々は、夜を恐れるようになった。

そしていつしか、闇そのものを“禍”と呼ぶようになった。


「夜には悪いものが潜んでいる。」


「闇は死を連れてくる。」


「闇に近づいてはいけない。」


その言葉は、世代から世代へと受け継がれていった。


やがて人々は、闇の神の名を口にすることさえ忌むようになった。


イェンミンは、そんな人々を黙って見つめていた。

怒りはなかった。

悲しみは、少しだけあった。

彼には、人々がなぜ闇を恐れるのか分かっていた。


人は弱い。

見えないものを恐れる。

そして、愛するものを失うことを何より恐れる。

だからこそ、人々は死を恐れた。


けれどイェンミンにとって、死とはすべての終わりではなかった。

命がその役目を終えれば、土へ還る。

土へ還ったものは、やがて新しい命を育む。

終わりは始まりへと繋がり、すべては巡っていく。

それが、世界の理だった。


それなのに――

人々は闇を拒み続けた。

そして少しずつ、世界の均衡が崩れ始めた。


光ばかりを求める祈りが積み重なり、光は次第に強くなっていった。

照らすはずだった光は、いつしか影を押し潰し始めた。


夜は短くなり、闇は居場所を失っていく。

かつてひとつだった“息”が、光と闇の二つに裂かれていくようだった。


ある夜。

チョンハオは、静かにイェンミンのもとを訪れた。


「イェンミン。」


呼ばれたイェンミンが振り返る。

そこに立っていたのは、かつて共に世界を見つめた兄弟だった。


「人々が怯えている。」

チョンハオの声には、責める響きよりも、深い嘆きがあった。


「お前の闇が、人の心を惑わせている。」


沈黙が二柱の間に落ちた。


その沈黙を破るように、チョンハオが静かに口を開く。

「だが…人々は、闇そのものを憎んでいるわけではない。」


イェンミンは黙って兄を見る。


「彼らが恐れているのは――失うことだ。」


その言葉に、イェンミンはわずかに目を伏せた。


「愛する者を失うこと。」

チョンハオは続ける。

「自分自身が消えてしまうこと。知らないものへ還ってしまうこと。そして、もう二度と戻れないと思うこと。」


「…そうか。」

イェンミンはようやく呟いた。


チョンハオは、そんな弟を見つめていた。

「だからといって、お前が悪いわけではない。闇が必要なことは、私も分かっている。世界に夜が必要なのと同じように…」


「ならば…」

イェンミンが、ふいに言葉を遮った。

その声は、驚くほど穏やかだった。

「私がいなくなればいいということだな。」


チョンハオが目を見開く。


「イェンミン、そういうことでは…」


最後まで言い終わるより先に。

イェンミンは立ち去った。

振り返ることはなかった。


チョンハオは、その背中をただ見送るしかなかった。

自分の言葉が、弟を傷つけたことに気づきながらも――

その姿を追うことはできなかった。


それ以来。

闇の神、イェンミンは神々の前から姿を消した。


彼は、人の目の届かぬ深い山へと身を潜めた。

陽の光さえ届きにくい、険しく暗い山。


そこには古くから、人々が恐れて近づかない場所があった。

イェンミンは、その山に一人で館を構えた。


神として崇められることも求めず、自ら人々の祈りを聞くこともせず、ただ己の力を磨くためだけに、日々を過ごした。


闇の力を操る術。

魂に触れる術。

自然界に満ちる気を取り込み、自らの力へと変える術。


それは神々の間でさえ禁じられていた、危うい術だった。

けれどイェンミンは、構わなかった。


必要とされないのなら。

世界に居場所がないのなら。

せめて、自分だけの力を極めればいい。

そう思っていた。


やがて、その山には奇妙な噂が流れ始めた。

深い山の奥に、闇を操る者がいる。

人の世では扱えない術を知る者がいる。

病を癒すこともあれば、望む者には呪いを授けることもある。


そして――

その者のもとで修行をすれば、常人には扱えぬ力を得られる。


噂を聞きつけ、山を訪れる者が少しずつ現れた。

最初は一人。

次に、二人。

そして、また一人。


弟子を取るつもりなどなかったイェンミンだったが、彼らを追い返すこともしなかった。

来る者には術を教えた。

力を求める者には力を。

己を守る術を求める者には、その術を。


そうして長い年月が流れるうちに、いつしか彼の周りには弟子たちが集まり、小さな館は、ひとつの場所として形を成していった。

人々はその場所を恐れながらも、同時に頼るようになった。


けれどイェンミン自身は、何も変わらなかった。

人々に頼られることは受け入れていた。

でも、自ら人間のもとへ行くことはなかった。

神々の座にいた頃と同じように、静かだった。


人の世に深入りすることもない。

誰かに愛されることも求めない。


ただ、闇の中で己の術を磨き続けていた。

――そうして、幾千、幾万もの夜が過ぎていった。


そして――ある満月の夜。


深い山の中で、一人の娘が薬草を探していた。

蘇 静嵐(スー・ジンラン)。


村ではほとんど足を踏み入れる者のいない山の奥まで、一人で分け入っていた。

険しい斜面を登り、草木をかき分け、地面に這いつくばるようにして薬草を探している。


手にした小さな籠には、いくつかの薬草が入っていた。

けれど、まだ足りない。

母の病を治すには、もっと効き目の強い薬草が必要だった。


どれほど探し続けたのだろう。

足は傷だらけになっていた。

衣の裾は泥に汚れ、細い指にもいくつもの擦り傷ができている。


それでも、ジンランは諦めなかった。


「…どこにあるの。」

小さく呟きながら、また草むらへ手を伸ばす。


けれど、探している薬草は見つからない。

ジンランはしばらくその場にしゃがみ込み、両手を胸の前で強く握った。


そして、誰に聞かせるでもなく、静かに祈った。

「お願い…」


声が震える。

「どうか…母を助けてください…」


その声は、深い森の中へ消えていった。

――はずだった。


けれど。


山のはるか奥。

館の中にいたイェンミンが、ふと顔を上げた。

何かが聞こえた気がした。


風の音でもない。

弟子たちの声でもない。

もっと遠くから届く、かすかな声。

けれど、その声は不思議なほどはっきりと彼の耳に届いた。


「…母を助けて…」


イェンミンは眉を寄せた。


誰の声だろう。

なぜ、自分に聞こえたのだろう。

理由は分からなかった。


ただ、気づけば彼は立ち上がっていた。


自分でも、なぜ外へ出ようと思ったのか分からない。

長い間、人の世に興味を持つことなどなかった。

まして、自ら誰かの祈りに応えようなどとは考えたこともない。


それなのに。

イェンミンは、館の扉を開けた。


冷たい山の風が頬を撫でる。


しばらく立ち尽くしたあと、彼は声のした方へ、ゆっくりと歩き始めた。

森の中を進む。

木々の間を抜け、岩場を越える。


やがて、かすかな人の気配が近づいてきた。

イェンミンは足を止めた。

そして、大きな木の陰へ身を隠す。


その先に――一人の娘がいた。

ジンランだった。


彼女はまだ、イェンミンの存在に気づいていない。

膝をつき、地面に生える草を一つひとつ確かめている。


「…これじゃない。」

小さく呟いて、摘みかけた草をそっと戻す。


また別の場所へ移る。

見つからない。

それでも諦めずに探し続ける。


その姿を、イェンミンは木陰から黙って見つめていた。


やがて、ジンランが立ち上がった。

その瞬間、背中に流していた黒髪が、さらりと風になびいた。


艶やかな黒髪。

夜の泉を思わせる、滑らかな輝き。

そして、ふと顔を上げたときに見えた瞳は、深い湖のように静かだった。


泥に汚れた衣も、傷ついた手も、その美しさを隠すことはできない。


けれどジンランは、自分が見られていることなど知らない。

ただ母を救うために。

もう一度、薬草を探すために。

必死に周囲へ目を向けている。


イェンミンは、いつの間にかその姿に目を奪われていた。


――美しい。

その瞬間、イェンミンは初めて、誰かを美しいと思った。


けれど、彼はまだ知らない。

目の前にいるこの娘との出逢いが、自らの長い孤独を終わらせることになるとは。


そして――

失うことへの恐れが、やがて自らの独占欲となり、自分自身を苦しめることになるとは。


ジンランもまた、知らなかった。

誰にも届かないと思っていた自分の祈りが、闇の奥に生きる一人の神へ届いていたことを。


これが――二人の出逢いだった。


やがてイェンミンは、ジンランの祈りを叶える。

母を救うため、自らの力の一部を分け与え、その命を繋いだ。


そして、その代わりに――

ジンランを自らの弟子として迎え入れた。

その日から、彼女の魂は永劫、闇と共に在る定めとなった。


それがどのような意味を持つのか。

その縁が、二人の未来に何をもたらすのか。

このときのイェンミンは、まだ知らなかった。


師として結んだその縁が、やがて彼自身の心をも縛ることになるとは――


師弟の縁とは、ただ定められた運命ではない。

魂を導こうとする者と、その教えを受け取る者。

互いの間に生まれた“想い”が、長い時を経て、ひとつの縁となったもの。

そして、その縁は時に師弟という境界さえ越えていく。


これは、闇に身を置くことを選んだ神と、光を司る神。

そして、その二柱に導かれ、見守られながら、やがて“弟子”であることを越えて愛を知る、一人の娘。

三つの魂が、幾多の試練を越え、姿を変えながら、やがてひとつの光へと還っていく。

これは、切なくも儚い魂たちの記録である。

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