ルッキズム社会と外形価値論
人の容姿には、本人が選んだわけでも、努力して得たわけでもない部分が多々ある。
顔立ち、身長、骨格、毛深さ、肌や髪の性質。私は本稿において、そうした生まれつきの身体的特徴を「外形」と呼ぶことにする。
本来、外形それ自体に、人としての優劣はない。
目が大きい者が優れているわけでも、鼻が高い者が誠実なわけでも、背が高い者が努力家であるわけでもない。容姿の特徴は、その人物の人格や能力、生き方を判断する根拠にはならないからだ。
しかし現実には、その外形によって笑われたり、軽んじられたり、恋愛や就職の場で不利益を受けたりすることがある。
外形に人間的な優劣はないことと、外形によって社会的な損得が生じること。この二つは、残念ながら矛盾せずに成立してしまう。
人間としての価値とは無関係な差に、他者や社会の側が勝手に価値を与えているからである。
人は、自分の容姿を恥じて生まれてくるわけではない。
誰かに笑われたこと。誰かと比較されたこと。望んでもいない評価を繰り返し聞かされたこと。自分と他人に向けられる態度の違いを、何度も見せつけられたこと。
そうした他者の反応が積み重なった結果、人はいつしか、自分の外形に問題があるのだと思い込む。
だが、本当に問題があるのは、損をする側の容姿なのだろうか。
私はむしろ、他人の顔や身体ばかりを気にして、その人物の価値まで外見によって決めようとする人間や社会の方に、よほど深刻な空虚さがあると思っている。
もちろん、外見のすべてが生まれつき決まっているわけではない。
体型には生活習慣によってある程度変えられる部分があり、髪型や服装、身だしなみも本人の選択によって変化する。自分の望む姿へ近づくために努力することや、外見を整えること自体を否定するつもりはない。
他者の容姿を好ましくないと感じること自体は、他人に禁じられるものではない。しかしその個人的な感覚は、相手を不必要に傷つけてよい理由にはならない。
まして、生まれつき備わり、本人には選びようのなかった外形に優劣をつけることに、何の意味があるのだろうか。
外形を人格や能力、人間としての価値にまで結びつけるルッキズムには、合理性がない。それによって誰かの能力が伸びるわけでも、人格が磨かれるわけでも、社会がより豊かになるわけでもないからだ。
そこにあるのは、ただ人を順位づけ、選ばれなかった者に劣等感を植えつけるだけの、何一つ建設的ではない評価である。
そして、現代ではしばしば、外見に悩む者に対して「なら変えればよい」という安易な言葉が投げかけられる。
痩せればよい。化粧をすればよい。髪型や服装を変えればよい。気になる部分があるなら、美容整形を受ければよい。
確かに現代には、外形であっても変えるための方法が数多く存在している。
本人が不可逆性や身体的・経済的な負担を理解した上で、それでも自ら望むのであれば、その結果に納得できるのであれば、そうした手段を選ぶことに問題はない。
しかし、技術的に変えられることと、変える義務が本人にあることは同じではない。
他者や社会がある外形を劣ったものとして扱い、その結果として傷ついた人間に対し、「嫌なら整形でもして変えればよい」と迫るのは、あまりに身勝手な話だろう。
社会が人にコンプレックスを植えつけておきながら、その傷を治すための費用も、苦痛も、危険も、すべて本人に負わせる。
それは問題を解決しているのではない。差別する側の価値観を据え置いたまま、差別される側に適応を要求しているだけである。
本人の自由意思によって外見を変えることと、不利益を避けるために変えざるを得なくなることには、大きな違いがある。
自分をより好きになるために努力を以て容姿を磨くことは、自己実現の一つになり得る。しかし、人間として尊重されるために外形を変えなければならないのなら、それを自由意思に基づく健全な選択とは到底呼び難い。
外見至上主義の厄介なところは、一人の価値観だけでは終わらないことにある。
外形によって人への態度が変わる社会構造では、不利益を避けるために、多くの人が外見を過剰に気にするようになる。
他人から笑われないため。恋愛の候補から外されないため。就職や仕事で軽く扱われないため。集団の中で恥をかかないため。
その一つ一つは、個人が自分の身を守るために行う、現実的な適応なのかもしれない。
しかし、そうして適応する人間が増えるほど、「外見を気にすることは当然である」「外形を整えなければ他者から傷つけられたり、損をしても仕方がない」という歪んだ認識もまた、社会の構造として強化され、いずれは常識になってしまう。
誰かが傷つくまいとして選んだ行動が、結果として次の誰かを縛る価値観を支えてしまうのだ。
外見至上主義とは、そうした負の連鎖である、と私は考える。
もちろん、外見を磨く者自身を責めるべきではない。問われるべきなのは、適応した個人ではなく、適応しなければ不利益を受ける構造の方だろう。
そして、この価値観は、外形によって損をする側だけを歪めるものではない。
他人の外見に優劣をつける人間は、自分だけをその基準の外に置くことはできないからだ。
若さを価値とすれば、自分が老いることを恐れるようになる。整った顔立ちを人間の価値と結びつければ、自分の容姿にも絶えず不足を探すようになる。他者との比較を続ければ、どれだけ外見を磨いたとしても、より高く評価される誰かの存在から逃れることはできない。
他人を値踏みするために使っていた物差しは、やがて必ず自分自身にも向けられる。
ルッキズムは、評価される側にコンプレックスを植えつけるだけではない。評価する側をも、他人との比較によってしか自分の価値を確かめられない、空虚な生き方へと追い込む。
それを果たして、豊かな人生と呼べるのだろうか。
外形は、時間とともに変化する。どれほど美しいと評価された者でも、病気や怪我によって姿が変わることはある。老いを完全に避けられる人間も、少なくとも現代には存在しない。
変化する外形だけを人間の価値の中心に置けば、その価値は常に不安定なものになる。
それに対し、誠実さや思いやり、知性、能力、責任感といった内面は、その人自身の意思や選択、積み重ねてきた行動によって形づくられる。
もちろん、内面にも生育環境や先天的な能力の影響はある。努力さえすれば誰もが同じ場所へ辿り着けるなどと言うつもりもない。
しかしそれでも、他者をどう扱うか、何を大切にするか。自分にできる範囲で何を学び、どう生きるかには、必ず本人の意思が介在する。
外形を評価する社会は、人に「変えようのないもの」を気にさせる。
内面や行動を評価する社会は、人に「変えられるもの」を磨こうと思わせる。
どちらの価値観が人間を成長させ、社会をよりよくするかは、明らかではないだろうか。
誠実な人間が誠実さによって信頼され、努力した者がその努力によって評価される。能力を磨いた者が、その能力によって機会を得る。他者を思いやる者がその生き方によって、他者からもまた尊重される。
そうした社会であれば、人は自分の外形を恥じることではなく、自分の在り方そのものを磨くことに視線を向け、時間を費やせる。
人間の価値を内面だけで完全に判断することは、現実には難しい。人は他者と出会うとき、最初にその姿を見る。清潔感や服装、表情などが、相手に与える印象へ影響することも否定できない。
だが、それでも私は繰り返したい。
外見によってその人物の価値を決めることは空虚である、と。
それに私は、外見が美しいと感じる感性や、それを好むことまで否定するつもりもない。
人にはそれぞれ嗜好がある。特定の顔立ちや体型を魅力的だと感じることも、自分の容姿を磨くことも、それ自体は個人の自由である。
好みは、自分が何を選ぶかという話である。
差別は、好みでない相手の価値まで一方的に引き下げる行為である。
恋愛や人間関係において、外見を重視する者同士が互いを選ぶのであれば、他者がそれを咎める必要もないだろう。
問題は、個人の嗜好を社会全体の価値基準へと拡張し、それを望まない他者にまで押しつけることなのである。




