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雑記  作者: 創綴世 優


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人間中心主義と動物愛護論


 私は、自然や野生動物は自由であると考えている。


 ただし、ここでいう自由とは、何ものにも縛られずに生きることではない。そんな自由は、人間にも存在しない。


 私がいう自由とは、生命がそれぞれ意思や欲求を持つ主体であり、初めから人間のためだけに存在しているわけではない、という意味である。


 この考えは、ヴィーガンや動物解放思想に近く見えるかもしれない。


 だが、ヴィーガンを一枚岩として語るつもりはない。私が疑問を呈したいのは、「いかなる場合も動物を殺すべきではない」「人間の管理下にある動物はすべて不自由であり、解放されるべきだ」といった、一部の急進的な思想である。


 現実には、人間も法や社会、経済、肉体、環境によって縛られている。その中でどのような意思を持ち、何を選び、どう生きるのか。自由とは、あらゆる制約から解放されることではなく、制約の中に残された自己決定の余地に宿るものだろう。


 莫大な富や権力を持つ人間であっても、社会に生きる以上は何らかの制約を受ける。逆に、文明から離れて一人で生きたとしても、今度は飢えや病、気候や外敵に縛られる。


 社会を捨てれば自由になれるのではない。制約の種類が変わるだけである。


 だからといって、檻に入れられた動物も自由なのだと言いたいわけではない。


 選択肢を過度に奪われ、苦痛から逃れることも、習性に従って行動することもできない環境は、明らかに動物の自由を侵害している。


 しかし、人間の管理下にあることと、ただちに不幸であることも同義ではない。


 安全な環境で食事を与えられ、病気や怪我を治療され、人間や他の動物との関係を築きながら生きる個体もいる。その生が幸福であるかを、人間の理想とする「野生」だけを基準に決めつけることはできないだろう。


 同じことは、平等という言葉にもいえる。


 私は、すべての生命が同じ境遇や結果を得るという、完全な意味での平等が実現可能だとは思わない。自然には食物連鎖があり、人間社会にも能力、環境、財産、運の差が存在する。


 だが、境遇の差と、生命の価値の差は同じではない。


 困窮している者を助けたいと願うことと、その者の人生を外側から一方的に不幸だと決めつけることも違う。同情は誰かを助けるきっかけにはなるが、その人の感情や人生を理解したことの代わりにはならない。


 上か下か、幸福か不幸か。それを最終的に決めるのは、意思を持つ本人であるべきだ。


 飼育されている動物についても同じだろう。


 人間社会において、投獄された犯罪者が脱獄すれば罪に問われる。しかし、ペットや動物園の動物が人間の管理下から逃げ出しても、その動物自身が犯罪を犯したことにはならない。


 人間は安全上の問題から追跡し、捕獲するだろう。だが、逃げようとした動物の意思そのものを悪だと非難することはできない。


 人間を襲い、時には捕食する動物についても同様である。


 その動物に、人間社会の法律や道徳を理解し、遵守する義務はない。人間を殺す動物を、人間と同じ意味で邪悪だと裁くことはできない。


 もちろん、それは人間が黙って捕食されるべきだという意味ではない。


 動物が自らの生存に従って行動するように、人間も自分や家族、仲間を守るために抵抗する。危険な動物を追い払い、場合によっては殺すこともある。


 私が人間を最優先にするのは、人間が宇宙で最も価値のある生命だと証明されたからではない。私自身が人間であり、人間社会の中で生き、人間の生命に対して責任を持つからである。


 ただし、「人間が人間を優先するのは自然だから」という理由だけで、あらゆる行為が正当化されるわけではない。


 自然に存在することと、道徳的に正しいことは別である。


 動物を殺すことが許容されるかは、人命を守る必要性があるか、他の現実的な手段があるか、被害と手段が釣り合っているかによって判断されるべきだろう。


 人間は、道具と協力によって文明を築き、他の生物や環境に極めて大きな影響を及ぼす存在になった。


 生物は、生きているだけで周囲を変化させる。何かを食べ、土地を使い、他の生命の生存を妨げる。程度の差こそあれ、何ものも他者に一切の影響を与えずには生きられない。


 私は、その避けられない犠牲を「罪」と呼びたい。


 ここでいう罪とは、法や道徳に反したという意味ではない。他の生命を犠牲にし、環境を変えなければ生きられないという、生存そのものに伴う負債である。


 罪があることと、悪であることは同じではない。


 そして人間の特性は、その負債を認識し、言葉にし、倫理や制度として向き合えるところにある。だからこそ、人間は他の動物より無条件に偉いのではなく、持つ力に比例して重い責任を負っている。


 かつて日本では、感染症や人為的な駆除などが重なり、ニホンオオカミが絶滅した。


 現在のクマ問題においても、人間の安全を守るため、人里に現れた危険な個体を捕殺することがある。人命を守るために必要であり、他に現実的な手段がないのなら、その選択を悪だとは思わない。


 しかし、それは種全体を憎み、無差別に滅ぼしてよいという意味ではない。


 一度失われた種は、二度と元には戻らない。人間を優先するからこそ、その選択が本当に必要なのか、将来どのような影響を及ぼすのかを慎重に考えなければならない。


 一方で、娯楽や利益を第一とした動物の利用については、私も懐疑的である。


 動物園のすべてを、単なる娯楽施設だと断じるつもりはない。希少種の保全や研究、教育という役割を持つ施設もある。


 だが、それらを名目にしながら、実態として見世物性や集客が動物の福祉より優先されているのなら、正当化は難しい。


 ペットショップで生命を商品として陳列することや、人間の好みに合わせるため、健康を害するほど極端な特徴を持つ動物を生み出すことも同様である。


 生きるために動物を殺すことと、楽しみや虚栄のために動物を苦しめることは同じではない。


 私は、人間を最優先に考える。


 人間と他の動物の命が直接衝突したときには、まず人間を守るべきだと考えている。


 しかし、それは人間以外の生命には価値がないという意味ではない。動物は人間に奉仕するためだけに生まれてきた存在ではなく、それぞれの意思や欲求に従って生きる主体である。


 人間は、他の生命を圧倒できるほどの力を手にした。


 だからこそ、避けられる苦痛や犠牲を減らす責任も、人間が引き受けなければならない。


 動物愛護は、人間の存在や文明を否定する思想である必要はない。


 同時に、人間中心主義も、動物への無関心や残酷さを許す免罪符であってはならない。


 人間を守り、動物を侮らず、避けられない犠牲から目を逸らさない。


 必要な殺生と、欲望のための加害を同一視しない。


 それが、私の考える人間中心主義であり、動物愛護である。

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