九万の影、あるいは算術の破綻
市場。
風が抜ける。割れた壺から漏れた安い油が腐った匂い。
ハエがたかっている。青光りするでかいやつ。
日除けの下に木の机。徴兵の登録係。
パピルス。葦のペン。墨。
ガリ。
係の男がペンを押し付けて線を引く。名簿から名前を削り落とす。ただそれだけ。昨日まで広場で大声で演説ぶってた小太りの陶器屋も、その隣で適当な相槌を打ってた小汚い靴屋も、ただの黒い線に変わる。
「また七十人消えた。第3区画はこれでゼロだ」
係が爪の間に溜まった黒い泥をほじりながら言った。
「ゼロって。あそこの金持ちの連中もか」
隣の兵士が兜を脱いで頭をボリボリ掻く。白いフケが肩の青銅当てに落ちた。クセノフォンはそれを見て、少し吐き気がした。道端で腐ってる死体より、こいつのフケの方が今はよっぽど気持ち悪い。
「ああ。親父も息子も揃って荷車で郊外の穴行きだ。開戦の時に九万いたはずのアテネの兵隊が、今じゃただの帳簿のシミだ」
「スパルタが壁まで来たらどうすんだよ。シミに槍持たせるのか」
「持たせるさ。ただし、銀貨を食うシミにな」
親父が足元の汚い革袋を蹴り飛ばした。
じゃらり。
鈍い音。中から銀貨が数枚、土の上にこぼれた。ドラクマ硬貨。フクロウの不細工な顔が刻んである。
「今朝、ピレウスに船が入った。クレタの弓射ちと、バレアレスの石投げ。上の連中がこっそりよそから買い付けてきたらしい」
「よそ者かよ。俺たち市民の誇りってやつは」
「誇りでスパルタの長槍が折れるかよ。陣形の穴は肉で塞ぐしかないんだ。どこの馬の骨だろう が、銀貨一枚で血を流すなら、立派なアテネの、替えの槍の柄だ」
クレタの弓射ち。バレアレスの石投げ。
頭に汚い布を巻いて、鉛の玉を振り回すだけの山猿ども。アテネの言葉すら解さない連中が、昨日まで自分が立っていた防壁の上に並ぶ。
おれたちは何のために甲冑を磨いていたんだっけか。
自前で槍を買い、重い盾を構え、隣の男と肩を組んで押し合う。それがアテネ市民の特権だったはずだ。だが、フタを開けてみれば、そんな特権はただの安上がりな労働力に過ぎなかった。
金さえ払えば、代わりはいくらでも海を渡ってくる。
九万の影。
名簿の上にびっしりと書き込まれていた誇り高き名前の羅列が、ただの使い捨ての薪の束に見えてくる。減ったら補充する。ただの算数だ。
係の親父がまた葦のペンを走らせる。
ガリ。
どこかの誰かの親父が死んだ。
ガリ。
どこかの誰かの弟が死んだ。
そのたびに、親父の足元の袋から銀貨が吐き出され、得体の知れない外国人の血肉に変換される。人間の交換比率。いや、もっと単純な引き算と足し算。
クセノフォンは革袋からこぼれて土に半分埋まった銀貨を見ていた。
フクロウの丸い目。ギザギザの縁。
市民。愛国心。名誉。そんなものはパピルスの上に引かれた墨の線より薄っぺらい。疫病がくればあっさり消える。ただの勘違いだ。
靴の先で、転がってきた銀貨を軽く踏んだ。
硬い。
アテネの法律やらソクラテスの御託やらより、この冷たい金属の塊の方がよっぽど信用できる気がした。
数百年前。古のメソポタミアで生まれた会計技術と、成員全てに平等な価値を認めるギリシャ共同体の精神が、東西の交錯地アナトリア半島で融合し、奇跡的な化学変化が起こった。第三者に譲渡可能な債務と債権の自動記録。通貨の誕生だ。
自分もいつかあの墨の線になるのか。それとも、こいつをいくつか懐にねじ込んで、どこか別の場所で「替えの柄」として立ち回るか。
腹が鳴った。
銀貨一枚。これなら、まだ港でウジの湧いてない干し肉が買える。それと水で薄めてない安いワインも。
国家の存亡とか、どうでもよかった。
ただ、ひどく腹が減っていた。クセノフォンは顔の周りを飛び回るハエを追い払いながら、足元の乾いた土に唾を吐き捨てた。




