法の死臭
指先が、ぬるりとした。
それは死者の首筋に残っていた、最後の一滴の湿り気だったのか、あるいは、ただの夕露が街の煤と混じり合った汚泥だったのか。クセノフォンには判別がつかなかった。ただ、自分の爪の間に、誰のものでもない腐りかけた皮膚の破片が挟まっているという事実だけが、胃の腑を、まるで冷えた鉄の鍵で抉られるような不快感で満たしていた。
アテネは、いまや巨大な「胃袋」だった。
疫病という名の消化液が、かつての栄光も、ペリクレスの演説も、大理石の神殿も、すべてを等しくドロドロの排泄物へと変えていく。クセノフォンが引きずっているこの「物体」――かつては勇敢な重装歩兵として、都市国家の法を守ると誓ったはずの男――は、いまや四本の木の棒のような手足がついた、ただの「重たい袋」に過ぎなかった。
「……重い。なぜ、魂が抜けただけの肉が、これほどまでに重力を憎んでいるんだ」
クセノフォンは喘いだ。肺の奥に、甘ったるい、そして鼻腔の粘膜をチリチリと焼くような死臭がこびりついている。
ふと、視界の端に、歪な影が映った。
道の向こう側、死体が山積みにされた荷車の脇に、その男は立っていた。
師、ソクラテス。
その容貌は、相変わらず不格好だった。突き出た目玉は、死人のそれよりもなお、執拗にこの世の卑俗な細部を凝視している。潰れた鼻は、この街に満ちる悪臭を、まるで極上の香料であるかのように深々と吸い込んでいた。
「クセノフォンよ、君は何を運んでいるのかね?」
ソクラテスの声は、ひどく平板で、乾いた石が擦れ合うような響きだった。
クセノフォンは、自分の手にこびりついた「元・市民」の脂を、履き古したサンダルで拭おうとして、やめた。無意味だった。
「法を運んでいます、師よ。かつてアテネを支えていた、あの立派な法の残骸を」
「ほう、法がか。それは随分と鼻につく臭いがする法だな。では教えてくれ。その『法』という袋が破れて、中から腐った内臓が溢れ出したとき、君はその中身を、まだアテネと呼べるのかね?」
クセノフォンは答えなかった。答えるための筋肉が、疲弊しきって麻痺していた。
彼は、目の前の死体の顔を見つめた。
右目は閉じているが、左目は半開きになり、そこには一匹の、青光りする肥えた蝿が、まるで宝物でも見つけたかのように止まっている。蝿は、死者の虹彩の上で、自身の脚を丁寧に掃除していた。
その瞬間、クセノフォンの脳裏で、何かがパチンと音を立てて弾けた。
(これは、家ではない)
彼が守るべきだと言い聞かされてきた「国家」や「共同体」という概念が、急激に色褪せ、ただの悪趣味な書き割りへと変貌した。
アテネは、若者を育む母などではない。
動くこともできず、ただ腐臭を放ちながら、生きている人間の生気を吸い取って膨れ上がる、巨大な、醜悪な死体そのものだ。
「……俺は、もういい。この臭いには飽きました」
クセノフォンは、死体の足を掴んでいた手を離した。
ドサリ、という鈍い音が響く。それは、彼が「市民としての義務」という名の重石を、泥の中に捨て去った音でもあった。
法も、道徳も、ソクラテスの問答も。
この、胃をせり上がらせる死臭の前では、何の役にも立たない。
唯一確かなのは、自分の指先がまだ動くこと。自分の肺が、まだこの汚れた空気を吸い込もうと躍起になっていること。
そして、自分だけは、この「死体」の一部になりたくないという、卑屈で、しかし狂おしいほどの自己保存の衝動だけだった。
「おや、もう行くのかね。どこへ?」
ソクラテスの声が背中に投げかけられたが、クセノフォンは振り返らなかった。
「どこでもいい。ただ、この臭いがしない場所へ。金と、剣と、俺自身の肉体だけが支配する場所へ」
彼は、暗い路地の向こう側へと歩き出した。
その足取りは、先ほどまでの重労働の疲れを忘れたかのように、奇妙に軽く、痙攣するように急いでいた。
彼の内側で、一人の「アテネ市民」が死に、一人の「傭兵」が産声を上げた。
それは、汚泥の中から這い出る蛆虫のように、醜く、しかし凄まじい生命力に満ちていた。




