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古今堂怪異綺譚  作者: 一宮九葉
第3章

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 源兵衛げんべえの警告は、ただの迷信ではない。

 長年、この山で生きてきた男の本能が、志乃しのの身に起きている異変が、物理的な法則を超えたものであると告げていた。

 いさおは、悔しそうに歯を食いしばり、その場に立ち尽くすしかなかった。


 その間にも、志乃の容態ようだいは悪化していく。

 彼女の呼吸は浅く速くなり、その顔からは血の気が引いて、まるで死人のように青ざめていた。

 磐座いわくらの光は、ますますその輝きを増し、まるで彼女の生命力せいめいりょくを吸い取っているかのようであった。


「くそっ!」


 最初に動いたのは、水上だった。

 彼は、学者としての冷静さをかなぐり捨て、志乃を救うための方法を必死に探し始めた。

 源兵衛の言う通り、直接触れることはできない。

 ならば、この儀式そのものを、外側から中断させるしかない。


(何か、何か手がかりは…!)


 水上の脳裏のうりを、神宮文庫じんぐうぶんこの書庫にあった膨大ぼうだいな古文書の記憶が、猛烈な速さで駆け巡る。

 鎮魂ちんこんの儀式、降霊こうれいの術、そして、それらが暴走した際の禁断の解呪法かいじゅほう…。


 彼は、自らがしつらえた『ひもろぎ』の結界に目をやった。

 四方に立てられた笹竹ささだけ、清められた米と塩、そして泉の水。

 これらは、魂を『招く』ためのものだ。

 ならば、その逆を行えばいいのではないか?


源爺殿げんじいどの!」水上は叫んだ。「火を! すぐに火をいてください! それも、できるだけ煙が出るように、湿しめった木や葉を!」


「火、だと…?」源兵衛は、一瞬その意図を測りかねたが、水上の必死の形相ぎょうそうに、ただならぬものを感じ取った。


古来こらい、煙は、この世とあの世の境界を曖昧あいまいにし、同時に招かれざるものをはらう力を持つとされてきました! 儀式の場を煙で満たし、この聖域せいいきの気を乱すのです! 志乃さんと魂たちとの繋がりを、強制的に断ち切る!」


 それは聖なる儀式をけがす、禁じきんじてとも言える方法であった。

 しかし、今は志乃の命が最優先だ。


巌殿いさおどの! 落ち葉を! かわいた小枝もだ! 火口ほくちになるものを、ありったけ!」


 源兵衛と巌は、水上の指示の意図を即座に理解した。

 巌が、熊のような手で周囲の乾いた落ち葉や枯れ枝を素早くかき集める。

 その間に、源兵衛はふところから火打箱を取り出し、火打石と火口金ほくちがねを打ち合わせた。

 カチ、カチ、という硬い音と共に火花が散る。

 その火花を、箱の中の火口に受け止めると、赤い小さな火種が生まれた。

 源兵衛は、その火種を巌が集めた枯れ葉の山にそっと移し、静かに息を吹きかける。

 ふっと、小さな炎が立ち上った。


 炎が上がると、水上は叫んだ。


「笹だ! その笹の葉を火にくべるんだ!」


 巌が、結界を張るために使っていた青々とした笹の葉をむしり取り、燃え始めた焚き火の上へと投げ込む。

 やがて生の笹は、もうもうと白い煙を上げはじめた。

 二人は、さらに湿った落ち葉や枝を火に投げ込み、煙の量を増やしていく。


 たちまち、巫女みこの泉は、濃い白煙に包まれた。

 清浄せいじょうであったはずの空気は、煙と灰でよどみ、聖域としての結界は、その力を失っていく。


 その効果は、てきめんであった。

 磐座が放っていた青白い光が、まるで嫌がるかのように明滅めいめつを始めた。

 志乃の体へと流れ込んでいた光の奔流ほんりゅうが弱まっていく。


「…あ…」


 志乃の口から、か細い声が漏れた。

 彼女の意識が、三十年前の地獄から、ゆっくりと確実に、現代へと引き戻されようとしていた。


 だが、その時。


 ごう、と、これまでとは比べ物にならないほどの突風が、谷の奥から吹き下ろしてきた。

 その風は、彼らが焚いた煙を一瞬にして吹き飛ばしてしまう。

 そして、煙が晴れた磐座の上で、志乃の体は再び激しいけいれんに襲われた。


 中断に失敗した。

 それどころか儀式を穢したことで、この地に眠る何ものかの、さらなる怒りを買ってしまったようである。

 磐座の光は、以前にも増して禍々《まがまが》しい輝きを放ち、志乃の意識を、さらに深い絶望の記憶の底へと引きずり込んでいく。


(…痛い…苦しい…悲しい…)


 三十一人の魂が最期に感じた絶望の奔流が、志乃の心になだれ込んでくる。

 それは、ただの共感ではない。

 魂が砕け散るほどの、圧倒的な負の感情。

 十五歳の少女が到底とうてい受け止めきれるはずのない、三十年分の怨嗟えんさ悲嘆ひたんであった。

 彼女の精神は、その奔流に呑み込まれ、今にも引き裂かれようとしていた。


 もうだめだ。

 誰もがそう思った、その時であった。


 志乃の身体の中心から、ふわりと温かく、どこまでも優しい金色の光が放たれ始めた。


 それは、彼女がこれまで無意識のうちに使ってきた、『しずめの力』そのものであった。

 絶望的な量の負の感情にさらされたことで、彼女の内に眠っていた斎部いんべの血が、その本来の力を無意識のうちに解き放ったのだろうか。


 金色の光は、初めはか弱い灯火ともしびのようであったが、瞬く間にその輝きを増し、磐座が放つ禍々しい青白い光と、激しく拮抗きっこうし始めた。

 それは、破壊と混沌こんとんの力に対する、調和と慈愛じあいの力。

 二つの相反する巨大な力が、志乃の身体を媒介ばいかいとして、激しくぶつかり合っているかのようだった。


「…これは…」


 結界の外で水上が息をむ。

 目の前で起きていることは、もはや彼が知る、いかなる古文書の記述をも超えていた。


 志乃の身体のけいれんは収まり、まるで嵐の中心におきるなぎのように、静かに宙に浮き上がった。

 彼女の周りで、青と金の二色の光が、火花を散らしながら渦を巻いている。


 そしてその力は、志乃がとらわれていた幻視げんしの世界にも変化をもたらした。


 ——地獄絵図のような土砂崩れの光景が、まるで水面に落とした絵の具のように、にじみ、溶けていく。

 悲鳴と怒号は遠ざかり、代わりに、どこからともなく、静かで物悲しい歌のようなものが聞こえ始めた。


——気がつくと志乃は、見渡す限りの白い花の野に、一人(たたず)んでいた。

 空には大きな、慈愛に満ちた月が浮かんでいる。

 そして彼女の周りには、三十一人の魂たちが、透き通った姿で静かに立っていた。

 彼らの顔からは、先程までの苦悶くもんの表情は消え、ただ深い悲しみをたたえた目で、志乃を見つめていた。


 幻視の暴走は止まった。

 しかし、儀式が中断されたわけではない。

 志乃の『鎮めの力』は、魂たちの怒りを鎮めはしたが、その悲しみを完全に解き放つには至らなかった。

 彼女は、もはや過去の記憶に囚われているのではない。

 三十一人の魂の、三十年分の悲しみを、その一身に受け止める、巨大な『器』となってしまったのだ。


 現実の世界では、磐座の光は完全に金色の輝きに変わり、泉の周辺は、神々《こうごう》しくも物悲しい空気に満たされていた。

 志乃はゆっくりと、その瞳は閉じたまま、磐座いわくらの上に静かに降り立つ。


 彼女は救われたのか、それとも、さらに深い新たな苦しみの中に囚われてしまったのか。

 三人の男たちには、もはやこの状況を判断することができなかった。

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