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源兵衛の警告は、ただの迷信ではない。
長年、この山で生きてきた男の本能が、志乃の身に起きている異変が、物理的な法則を超えたものであると告げていた。
巌は、悔しそうに歯を食いしばり、その場に立ち尽くすしかなかった。
その間にも、志乃の容態は悪化していく。
彼女の呼吸は浅く速くなり、その顔からは血の気が引いて、まるで死人のように青ざめていた。
磐座の光は、ますますその輝きを増し、まるで彼女の生命力を吸い取っているかのようであった。
「くそっ!」
最初に動いたのは、水上だった。
彼は、学者としての冷静さをかなぐり捨て、志乃を救うための方法を必死に探し始めた。
源兵衛の言う通り、直接触れることはできない。
ならば、この儀式そのものを、外側から中断させるしかない。
(何か、何か手がかりは…!)
水上の脳裏を、神宮文庫の書庫にあった膨大な古文書の記憶が、猛烈な速さで駆け巡る。
鎮魂の儀式、降霊の術、そして、それらが暴走した際の禁断の解呪法…。
彼は、自らが設えた『ひもろぎ』の結界に目をやった。
四方に立てられた笹竹、清められた米と塩、そして泉の水。
これらは、魂を『招く』ためのものだ。
ならば、その逆を行えばいいのではないか?
「源爺殿!」水上は叫んだ。「火を! すぐに火を焚いてください! それも、できるだけ煙が出るように、湿った木や葉を!」
「火、だと…?」源兵衛は、一瞬その意図を測りかねたが、水上の必死の形相に、ただならぬものを感じ取った。
「古来、煙は、この世とあの世の境界を曖昧にし、同時に招かれざるものを祓う力を持つとされてきました! 儀式の場を煙で満たし、この聖域の気を乱すのです! 志乃さんと魂たちとの繋がりを、強制的に断ち切る!」
それは聖なる儀式を穢す、禁じ手とも言える方法であった。
しかし、今は志乃の命が最優先だ。
「巌殿! 落ち葉を! 乾いた小枝もだ! 火口になるものを、ありったけ!」
源兵衛と巌は、水上の指示の意図を即座に理解した。
巌が、熊のような手で周囲の乾いた落ち葉や枯れ枝を素早くかき集める。
その間に、源兵衛は懐から火打箱を取り出し、火打石と火口金を打ち合わせた。
カチ、カチ、という硬い音と共に火花が散る。
その火花を、箱の中の火口に受け止めると、赤い小さな火種が生まれた。
源兵衛は、その火種を巌が集めた枯れ葉の山にそっと移し、静かに息を吹きかける。
ふっと、小さな炎が立ち上った。
炎が上がると、水上は叫んだ。
「笹だ! その笹の葉を火にくべるんだ!」
巌が、結界を張るために使っていた青々とした笹の葉をむしり取り、燃え始めた焚き火の上へと投げ込む。
やがて生の笹は、もうもうと白い煙を上げはじめた。
二人は、さらに湿った落ち葉や枝を火に投げ込み、煙の量を増やしていく。
たちまち、巫女の泉は、濃い白煙に包まれた。
清浄であったはずの空気は、煙と灰で淀み、聖域としての結界は、その力を失っていく。
その効果は、てきめんであった。
磐座が放っていた青白い光が、まるで嫌がるかのように明滅を始めた。
志乃の体へと流れ込んでいた光の奔流が弱まっていく。
「…あ…」
志乃の口から、か細い声が漏れた。
彼女の意識が、三十年前の地獄から、ゆっくりと確実に、現代へと引き戻されようとしていた。
だが、その時。
ごう、と、これまでとは比べ物にならないほどの突風が、谷の奥から吹き下ろしてきた。
その風は、彼らが焚いた煙を一瞬にして吹き飛ばしてしまう。
そして、煙が晴れた磐座の上で、志乃の体は再び激しいけいれんに襲われた。
中断に失敗した。
それどころか儀式を穢したことで、この地に眠る何ものかの、さらなる怒りを買ってしまったようである。
磐座の光は、以前にも増して禍々《まがまが》しい輝きを放ち、志乃の意識を、さらに深い絶望の記憶の底へと引きずり込んでいく。
(…痛い…苦しい…悲しい…)
三十一人の魂が最期に感じた絶望の奔流が、志乃の心になだれ込んでくる。
それは、ただの共感ではない。
魂が砕け散るほどの、圧倒的な負の感情。
十五歳の少女が到底受け止めきれるはずのない、三十年分の怨嗟と悲嘆であった。
彼女の精神は、その奔流に呑み込まれ、今にも引き裂かれようとしていた。
もうだめだ。
誰もがそう思った、その時であった。
志乃の身体の中心から、ふわりと温かく、どこまでも優しい金色の光が放たれ始めた。
それは、彼女がこれまで無意識のうちに使ってきた、『鎮めの力』そのものであった。
絶望的な量の負の感情に晒されたことで、彼女の内に眠っていた斎部の血が、その本来の力を無意識のうちに解き放ったのだろうか。
金色の光は、初めはか弱い灯火のようであったが、瞬く間にその輝きを増し、磐座が放つ禍々しい青白い光と、激しく拮抗し始めた。
それは、破壊と混沌の力に対する、調和と慈愛の力。
二つの相反する巨大な力が、志乃の身体を媒介として、激しくぶつかり合っているかのようだった。
「…これは…」
結界の外で水上が息を呑む。
目の前で起きていることは、もはや彼が知る、いかなる古文書の記述をも超えていた。
志乃の身体のけいれんは収まり、まるで嵐の中心におきる凪のように、静かに宙に浮き上がった。
彼女の周りで、青と金の二色の光が、火花を散らしながら渦を巻いている。
そしてその力は、志乃が囚われていた幻視の世界にも変化をもたらした。
——地獄絵図のような土砂崩れの光景が、まるで水面に落とした絵の具のように、滲み、溶けていく。
悲鳴と怒号は遠ざかり、代わりに、どこからともなく、静かで物悲しい歌のようなものが聞こえ始めた。
——気がつくと志乃は、見渡す限りの白い花の野に、一人佇んでいた。
空には大きな、慈愛に満ちた月が浮かんでいる。
そして彼女の周りには、三十一人の魂たちが、透き通った姿で静かに立っていた。
彼らの顔からは、先程までの苦悶の表情は消え、ただ深い悲しみを湛えた目で、志乃を見つめていた。
幻視の暴走は止まった。
しかし、儀式が中断されたわけではない。
志乃の『鎮めの力』は、魂たちの怒りを鎮めはしたが、その悲しみを完全に解き放つには至らなかった。
彼女は、もはや過去の記憶に囚われているのではない。
三十一人の魂の、三十年分の悲しみを、その一身に受け止める、巨大な『器』となってしまったのだ。
現実の世界では、磐座の光は完全に金色の輝きに変わり、泉の周辺は、神々《こうごう》しくも物悲しい空気に満たされていた。
志乃はゆっくりと、その瞳は閉じたまま、磐座の上に静かに降り立つ。
彼女は救われたのか、それとも、さらに深い新たな苦しみの中に囚われてしまったのか。
三人の男たちには、もはやこの状況を判断することができなかった。




