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古今堂怪異綺譚  作者: 一宮九葉
第3章

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 志乃《しの》は、泉の中央に鎮座《ちんざ》する、ひときわ大きな磐座《いわくら》を見つめた。

 そして、決意を固めて、仲間たちに向き直った。


「ここで、儀式を執り行いましょう」


 その声には、もはや迷いはなかった。


「水上さんのお話にあった『神籬《ひもろぎ》』…この古代の祭祀場《さいしじょう》こそ、神邑《かむら》の皆さんの魂をお招きするのに、最もふさわしい場所だと思います。ここならきっと、三十年の間、誰にも届かなかった私たちの声が届くはずです」


 その提案に反対する者は誰もいなかった。

 一行は、この原初《げんしょ》の聖域《せいいき》を借り、三十年前に非業《ひごう》の死を遂げた魂たちを弔《とむら》うための儀式を準備し始めた。


 まず水上の指示のもと、巌《いさお》が先程切り出した四本の『神迎えの笹』を、泉を取り囲む磐座の四隅に深くまっすぐに突き立てた。

 それは、この聖なる泉を中心とした、確かな結界の柱となった。


 次に源兵衛《げんべえ》が、背負っていた荷物の中から乾かした稲藁《いなわら》を取り出した。

 慣れた手つきでその藁を綯《な》い、一本の太く立派な注連縄《しめなわ》を作り上げていく。

 その間、水上は沢で汲《く》んだ水で米を丁寧に研ぎ、和泉《いずみ》は持参した塩を清浄《せいじょう》な白紙の上に広げた。


 志乃は、その全ての準備を静かに見守っていた。

 そして、彼女は泉のほとりにそっと膝をつくと、冷たい湧き水で自分の手と顔を清めた。

 水面《みなも》に映る自分の顔が、どこか知らない遠い昔の巫女《みこ》の素顔《すがお》のように見えた。


 やがて準備は整った。

 四隅に立てられた笹竹の間には、源兵衛が作った注連縄が張られ、中央の磐座の前には、清められた米と塩、そして泉の水が厳《おごそ》かに供えられた。

 日は西の山に傾き、森は夕闇に包まれ始めている。

 木々の梢《こずえ》を渡る風の音が、まるでこれから始まる儀式のための雅楽《ががく》の調《しら》べのように聞こえた。


 水上と源兵衛、そして巌は、結界の外側で静かに頭を垂《た》れた。

 ここから先は志乃一人の役目であった。


 志乃は、ゆっくりと結界の内側へと足を踏み入れた。

 そして、供え物が置かれた磐座の前に、静かに正座した。

 彼女は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

 自分の内にある『鎮《しず》めの力』を、そして斎部《いんべ》の血に流れる遥か古からの記憶を、今、呼び覚ますために。


(聞こえますか…)

 彼女は、心の中で語りかけた。


(私は、神邑斎部が一人、千代《ちよ》の娘、志乃と申します。三十年の長きにわたり、皆様がどれほどお辛く、寂しい思いをされてきたか…。お慰《なぐさ》めする言葉もございません…)

 志乃が、その清らかな祈りを捧《ささ》げ始めた、その瞬間であった。


 彼女が手を触れていたわけでもないのに、目の前の巨大な磐座が、ごおおん、と地響きのような低い唸《うな》りを上げた。

 それは物理的な音ではない。

 魂に直接響く、古の岩の咆哮《ほうこう》であった。

 岩に刻まれた縄文《じょうもん》の文様が、淡く青白い光を放ち始める。


「なっ…!?」


 結界の外で、水上が驚愕《きょうがく》の声を上げる。

 源兵衛と巌も、信じられないものを見るように、その光景に釘付《くぎづ》けになっていた。


 磐座の光は、泉の水面に反射し、周囲の森を幻想的《げんそうてき》な光で照らし出した。

 そしてその光は、まるで生きているかのように志乃の体へと流れ込み始めた。

 彼女の意識が急速に遠のいていく。

 自分の身体が、この場所と三十年前とが溶け合っていくような感覚。


 次の瞬間、志乃は見た。


——それは今日のように、よく晴れた秋の日であった。

 穏やかだったはずの神邑に、不釣り合いな怒号《どごう》と悲鳴が響き渡っている。

 村の中心にある、簡素だが立派な社殿《しゃでん》の前で、村人たちが数人の背広姿の男たちと揉み合っていた。

 男たちの手には拳銃が握られている。

 その中心にいたのは、間違いようも無い、若き日の今と変わらぬ冷酷《れいこく》な眼差しをした『海龍光太郎《かいりゅうこうたろう》』であった。


——「大人しく『陽霊《ようれい》の玉』を差し出せば、命だけは助けてやろう。どこに隠した!」


 海龍の怒声に、村の長老らしき老人が毅然《きぜん》として立ちはだかる。


——「あれは人の手に余るものじゃ! 山の怒りに触れるぞ!」


——問答《もんどう》の末、痺《しび》れを切らした海龍の部下が長老を突き飛ばす。

 それを合図に男たちは社殿へと押し入り、祭壇の奥から、まばゆい光を放つ宝玉を乱暴に奪い取った。


——その時、社殿の奥から一人の若者が飛び出してきた。

 その顔は怒りに燃えている。

 彼は、玉を奪った男に飛びかかり、その腕に食らいついた。


——次の瞬間、乾いた銃声が谷に響き渡った。

 若者の胸が赤い血で染まる。

 彼は、信じられないものを見るような目で、自らの胸を見つめ、そしてゆっくりと崩れ落ちた。

 神聖なる社の庭に、斎部の血が、初めて流された。


——「…あ…あぁ…」


——村人たちの絶望的な悲鳴が響き渡る。

 その瞬間、天候が急変した。

 空が、みるみるうちに血のような赤黒い色に染まり、大地は地の底から響くような低い唸りを上げ、激しく揺れ始めた。

 山そのものが、そこで起きた殺生《せっしょう》という穢《けが》れに、激しく怒っているのだ。


——「な、なんだこれは!?」

 海龍の部下たちが、狼狽《ろうばい》の声を上げる。

 彼は、手に入れた『陽霊の玉』を、まるで戦利品《せんりひん》のように高々と掲げていたが、その顔にも焦りの色が浮かんでいた。


——山の斜面に巨大な口が開き、轟音《ごうおん》と共に、村を、そして人々を、悲鳴と共に飲み込んでいく。


——地獄絵図の中、海龍は村で最も高い場所にある社殿にいた。

 彼は、奪った『陽霊の玉』を懐にねじ込むと、眼下で部下たちが土砂に呑まれていくの姿を一顧《いっこ》だにすることもなく、ただ一人、崩れていく村とは反対側の、山頂へ続く険しい斜面を獣のような身軽さで駆け上がっていく。

 目的はただ、神器《じんぎ》を手に入れることだけなのだろう。

 部下の命も、村人たちの命も、彼にとっては一片の価値もなかったのだ。


 志乃はその地獄絵図と、海龍の非情《ひじょう》な決断を、なすすべもなく見つめていた。

 これはただの幻視ではない。

 三十一人の魂が、その最期に見た絶望の記憶そのものであった。


「…う…あ…っ!」


 現実の世界で、志乃の口から苦悶《くもん》の声が漏れた。

 彼女の体は磐座の光を浴び、けいれんするように震えている。


「志乃殿!」


 巌が結界を破って中に飛び込もうとするのを、源兵衛が制した。


「ならん! 今あの子は、人ならざるモノと繋がっておる! 下手に触れれば、お前さんの魂ごと巻き込まれるぞ!」


 志乃の意識は、もはやこの場にはなかった。

 彼女は三十年前の、あの悲劇の瞬間に完全に囚《とら》われていた。


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