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古今堂怪異綺譚  作者: 一宮九葉
第3章

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 四本の笹竹ささだけを手に入れ、弔いの儀式に必要な最初の準備は整った。

 一行はさらに深く、そして神秘的な山の気配が満ちる、未知の領域へとその足を進めていった。


 笹竹の群生地ぐんせいちを抜けた途端、森の空気が明らかに変わった。

 これまではただの深い山であったが、ここから先は、目に見えぬとばりが一枚下りているかのように、空気が濃密のうみつで静まり返っている。

 鳥の声さえ聞こえず、風の音も何もかも、吸い込まれているかのようだ。


 先頭を行く源兵衛げんべえの足取りは、これまで以上に慎重になった。

 彼は、もはや猟師としてではなく、この聖域せいいきに立ち入ることを許された、一人の修験者しゅげんじゃのように、一歩一歩、大地を踏みしめて進んでいた。


 水上は、ふところから取り出した方位磁石ほういじしゃくを何度も見ては、首をかしげていた。

 針が、まるで狂ったかのように定まらず、くるくると回り続けている。

 科学の理屈が通用しない場所に、足を踏み入れたのだ。


 最後尾のいさおは、その巨体きょたいをさらに低くかがめ、周囲への警戒を怠らない。

 彼の目は、もはやただの人間や獣を追っているのではない。

 木々の影、岩の形、その全てにひそむかもしれぬ、「よからぬモノ」の気配を、その研ぎ澄まされた感覚で探っていた。


 そして志乃しのは、この異様な静けさと、濃密な気配の中心にいた。

 彼女の『しずめの力』が、この聖域の気配と共鳴し、彼女の五感を、常人ではありえぬほどにまで増幅ぞうふくさせている。


(…いる)


 彼女には分かった。

 木々のこずえに、こけむした岩の上に、名もなき複数の小さな存在が、じっとこちらを見ている。

 それは敵意とは違っていた。

 むしろ好奇心と、自分たちの領域によそ者が入ってきたことへの、純粋な警戒心にように思えた。

 見知らぬ彼らは恐らく、この山の古くからの住人なのだ。

 志乃は、巌から教わった呼吸法を続け、自らの気配を消し、ただ「お邪魔いたします」という敬意の念だけを、心の中で静かに送り続けた。


 どれほどの時間が経っただろうか。

 一行が、巨大な一枚岩を回り込むようにして進んだ、その時であった。


 不意に視界が開けた。


 そこは、鬱蒼うっそうとした森の中に、ぽっかりと空いた、小さな円形の窪地くぼちであった。

 中央には、人の背丈せたけほどの大きさの、苔むした岩が鎮座ちんざしており、その根本から、こんこんと水晶すいしょうのように透き通った水がしている。

 その水は小さな池を作り、そして静かに森の奥へと流れていた。


 池の周りには陽光が、まるで天からの光の柱のように、まっすぐに差し込んでいる。

 その光を受けて水面みなもはきらきらと輝き、周囲には季節外れの小さな花が、色とりどりに咲き乱れていた。

 空気はどこまでも清浄で、甘い花の香りに満ちている。


 ここが『巫女みこの泉』。


 一行は、そのあまりに神々《こうごう》しく、美しい光景に、言葉を失って立ち尽くしていた。

 ここだけが、三十年前の悲劇からも、人の世のけがれからも、完全に隔絶かくぜつされた聖域なのだ。


「……千代ちよも」源兵衛が、かすれた声で呟いた。「ここで祈りをささげとった…」


 志乃は、ゆっくりと泉のほとりへと歩み寄ると、その冷たくありながら優しさをも感じる泉水に、そっと指先を浸した。

 母もこの場所で、自分と同じように、この清らかな水に触れていたのだろうか?


 その時、それまで静かに周囲を観察していた水上が、不意に「ん…?」と、低い声を漏らした。

 彼は、泉を取り囲む苔むした岩の一つを、鋭い目つきで凝視ぎょうししている。


「どうかなさいましたか、水上さん」


 志乃の問いに、水上は興奮を抑えきれない様子で答えた。


「志乃さん、源爺殿、巌殿、こちらへ。…これは、驚いた。ただの自然の造形ではないようです」


 三人が水上の元へ集まると、彼が指差す岩の表面に、苔と土に覆われながらも、明らかに人工的じんこうてき意匠いしょうが刻まれているのが見て取れた。

 それは、渦を巻くような古代の文様であった。


縄文じょうもんの…火焔土器かえんどきに見られる文様に酷似こくじしている。ですが、この様式は、この信濃しなのの地で見つかっているものとは、明らかに系統けいとうが違う…」


 水上は、懐から手袋を取り出すと、慎重に岩の表面の苔を払い始めた。

 すると、その下に隠されていたものが姿を現した。


 泉を取り囲むようにして、いくつかの巨石が規則的な配置で並べられている。

 そして、それぞれの石には、太陽や月、あるいは蛇のような動物をかたどったと思われる、素朴ながらも力強い線刻画せんこくがが施されていたのだ。


「…磐座いわくらだ」水上は、畏敬いけいの念を込めてつぶやいた。「それも、ただの磐座ではない。これは縄文の、それも極めて古い時代に作られた、祭祀場さいしじょうです。神邑の民がここを聖地とする、遥か昔から…何千年もの間、この場所は、人が神と交わるための、特別な場所だったのです」


 その発見は、一行に新たな衝撃をもたらした。

 彼らが足を踏み入れたのは、日本の歴史が始まる以前の、名もなき古の民が大自然への祈りを捧げた、原初げんしょの聖域だったのである。


「だとしたら…」志乃は、息を呑んで言った。「玄洋会げんようかいの人たちも、このことに気づいているのでしょうか」


「いや」水上は、きっぱりと首を振った。「彼らが頼りにしているのは、陸軍の近代的な測量地図と、神社の場所を記した文献だけのはずです。このような、土に埋もれた古代の祭祀場の存在にまで考えが及ばなかったでしょう。これは、我々だけが手にした、大きな利点りてんと言えるでしょう」


 水上の言葉は、一行に希望を与えた。

 しかし、それと同時に、彼らがこれからそうとしている儀式の、本当の重さを改めて突きつけるものであった。

 彼らはただ、魂をとむらうだけではない。

 この地に眠る、数千年の時の記憶そのものと、向き合おうとしているのだ。


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