幼い悪役令嬢に触れた感触
「……ふっ、やぁっ!」
甲高い、だが覇気のない掛け声とともに、木剣が空を切る。
室内訓練場の中央。純白のドレスを身に纏ったフィーネが、必死に剣を振るっていた。
だが、そのフォームは素人目に見ても酷いものだった。足幅は狭く、腕の力だけで剣を振り回しているため、三回振るごとに彼女自身の体勢が崩れそうになる。
(まあ、当然だよな)
少し離れた壁際に立ちながら、俺は内心で納得していた。
未来の『淫欲の災厄魔女』。ゲーム内での彼女の初期ステータスは、魔法攻撃力と状態異常付与に極振りされている反面、物理防御と筋力は初期値に等しい。そもそも肉弾戦をするようなボスではないのだ。
「あの、カイル先生……。これで、合っていますか?」
肩で息をしながら、フィーネが不安そうにこちらを振り向く。
「刃の軌道がブレていますね。手首の角度をもう少し内側に——少し、手本を見せましょう」
俺が壁から背中を離し、歩み寄ろうとした瞬間。
「こ、来ないでくださいッ!」
フィーネが鋭い声で叫び、木剣を胸に抱きかかえるようにして後ずさった。
俺の足がピタリと止まる。
「……何か、問題でも?」
「と、とにかく。離れた場所から見ていてください。近づいちゃ、ダメです」
彼女の紅い瞳が、怯えで小刻みに揺れている。
俺は小さく頷き、「分かりました」とだけ答えた。
(なぜ近づくのを嫌がる? いや、理由は明白か)
俺の視線は、彼女の足元に漂う黒いモヤ——『瘴気』へと向けられていた。
それから三十分ほど素振りを続けさせると、フィーネの息は完全に上がり、立っているのもやっとという状態になった。
「今日はここまでにしましょう、フィーネお嬢様」
「っ、はい……」
俺が休息を告げると、部屋の隅で待機していたメイドが、銀のトレイに水差しとグラスを乗せて小走りで近づいてきた。
だが、メイドの動きはひどくぎこちない。フィーネから約二メートルほどの距離で立ち止まると、両腕を限界まで伸ばしてトレイを差し出した。
「お、お嬢様、お水をお持ちしました……っ」
「……ありがとう」
フィーネはメイドのその不自然な距離感に何も言わず、ただ伏し目がちにグラスを受け取った。メイドはそそくさと壁際へ退避していく。
(……やはり、あの瘴気のせいか)
ゲームの設定では、彼女の魔力は周囲の生命力を無差別に削り取る『猛毒』だ。メイドがあれほど怯えるということは、すでに屋敷の人間には実害が出ているのだろう。
(俺の体にはどう影響する? ゲームの主人公には耐性スキルがあったが、モブの俺はどうなるんだ?)
検証する必要がある。もし近づいただけで即死するようなら、指南役など即刻辞任して夜逃げするしかない。
「お嬢様。少し、よろしいですか」
「えっ?」
俺はゆっくりと、フィーネとの距離を詰めた。
フィーネが一瞬ビクッと身をすくませるが、俺は構わず彼女の目の前まで歩み寄る。空気は冷たくないが、肌の表面がピリピリと粟立つような妙な圧迫感があった。
「木剣を貸してください。ヒビが入っていないか、確認します」
「あ……はい」
フィーネが戸惑いながら木剣を差し出す。
俺は柄を握ろうと手を伸ばし——誤って、フィーネの青白い指先に触れてしまった。
「——ッ!」
瞬間。
指先から手首、そして肩口まで。右腕の骨髄を直接削り取られる暴力的な激痛に、俺の息が止まった。
腕全体の筋肉が意志に反して硬直し、不規則な痙攣を起こす。声帯が麻痺し、呼吸すら一瞬止まる。
(痛えええええええええッ!? なにこれ、神経の束を引き千切られてるのか!?)
「あっ、ごめんなさい! ごめんなさいっ!」
俺の腕が跳ねるように痙攣したのを見て、フィーネが悲痛な声を上げ、両手で自分の顔を覆い隠すようにして後ずさった。
(ここで倒れたら終わりだ。公爵家での立場も、俺の命の保証もなくなる)
俺は奥歯を強く噛み締め、口の中に血の味が広がるのを無視した。
左手で右の手首を掴み、無理やり痙攣を抑え込みながら、努めて平坦な声を出した。
「……どうかされましたか、お嬢様」
「だって、今、私のせいでっ……先生の手が……!」
「ああ、これですか」
痛覚を麻痺させる勢いで顔の筋肉を操作し、俺は穏やかな笑みを作った。
「ただの筋肉痛ですよ。最近、少し素振りの回数を増やしすぎてしまって。お恥ずかしいところをお見せしました」
「……嘘。絶対に痛かったはずです。私に触れたから……」
「ただの痙攣です。それ以外の何物でもありません」
俺のきっぱりとした断言に、フィーネの紅い瞳が見開かれる。
「……本当、ですか?」
「疑うなら、触ってみますか? 少し冷えているかもしれませんが」
俺は強がり100%で、痙攣の治まった右手を差し出した。
フィーネは数秒間躊躇った後、恐る恐る、自分の小さな両手で俺の右手を包み込んだ。
俺の指先は、瘴気のショックアウトによって完全に感覚を失っていた。フィーネの体温すらも感じ取れないほどの麻痺。
だが、俺は笑顔を崩さなかった。
「ほら、何ともないでしょう? さ、剣の確認も終わりましたし、今日の訓練はこれで終了です。ゆっくり休んでください」
フィーネは俺の右手を握りしめたまま、じっと俺の顔を見上げていた。
その紅い瞳は微かに潤み、小さく震える唇を必死に噛み締めている。
やがて彼女は、ゆっくりと俺の手を離した。
何も言わず、深く一礼だけを残して、メイドを伴わずに訓練場を後にしていく。
パタン、と重厚な扉が閉まる音が響く。
「……っっっっっづぅぅぅぅぅぅ!!」
一人きりになった瞬間、俺はその場に蹲り、右腕を抱え込んで声にならない絶叫を上げた。
震える左手で、懐から小瓶を引っ張り出す。実家を出る前、念のためにとこっそりパクってきた『初級回復ポーション』だ。
コルクを歯で引き抜き、生ぬるい液体を一気に喉に流し込む。
「あっぶねぇ……! 実家から保険で持ってきて正解だった……っ。あんなの、まともに食らい続けたら腕が腐り落ちるぞ……」
息も絶え絶えに壁にもたれかかりながら、俺は自分の二度目の人生のハードさに天を仰いだ。




