第1話 諦死
始まりは、たった一筋の火だった。
己の弱さを火種として、心の奥底から湧き上がる炎。
胸から腕へ。足へ。内から外へ。
炎が広がり、姿を顕わにする。
内界と外界からの熱が、決断を今か今かとせき立てるようだ。
自分が在ろうとする限り、これは終わりなく何度でも何度でも繰り返し続いていく。そう気づいたのはいつだったか。
熱い。
痛い。
何度味わおうとも、この感覚が鈍ることはない。
今にも逃げ出してしまいたい。
投げ出したい。
諦めたい。
炎は傷を塞ぎ、身体は元の形を取り戻していく。
瞼を閉じ、絶え間ない喘ぎを堰き止め、すうっと息を吸い込んだ。
二叉に分かれた未来を天秤にかけ、今一度確認する。
この旅路を続ける覚悟を。
*
ーーピピピッ......ピピピッ......ピピピッ......
「んぁ......」
すでに人生で数千回は聞いたであろう不快な機械音で目が覚めた。
いつもの位置にあるはずのスマホの画面をタップし、アラームを止める。
手繰り寄せたスマホのスクリーンには7時30分と映っていた。
あー、非常にまずい。
寝坊防止にいくつかアラームをセットしているが、7時30分はその中でも一番遅い最後の砦だった。
つまり、大学に行くか行かないかの瀬戸際。
今日一日の生と死の境目と言ってもいい。
いやそれは言い過ぎだな。
さて今起きるかどうか。
ぼんやりと天井を眺める。
よし、脳内コイントスで決めよう。
脳内で硬貨を一枚、親指で弾いた。
複雑な曲線を描き、コインが示したのは裏だった。
つまりは起きない、だ。
まあこんなことしなくても、最初から決めていたんだけどね。
かくして、今日の一限は諦めることに決定したのだった。
モゾモゾと布団の中で体勢を変えて、スマホに背を向け、もう一眠りしようと目を閉じようとした時。
「アキラ!起きなさい!大学入ってからだらしないわよ!」
母の怒号にも似た大声に全身の細胞が覚醒する。
俺は飛び起きて、支度を始めた。
俺の名前は目浪 アキラ。
なりたてほやほやの大学一年生だ。
信条は諦めること。
何を言っているんだこの変人はと思われるかもしれないが、自分なりには納得して掲げている。
生きていれば、何かしら選択する場面に遭遇する。
例えば勉強。例えばスポーツ。例えば恋愛。などなど。
そのどの場面に対しても用意されている答え。
それが『諦める』だ。
『諦める』ということは、物事を追い求めずに、現状維持に努めることだと俺は思う。
無欲、と言い換えても良いかもしれない。
今のまま変わらずにいるということ。
おお、なんと無駄がなく、コスパが良いことか。
不必要なエネルギーを使わなくていいとはこの上ない至福だ。
人生は諦めの連続である。
そんな風なことを有名な哲学者だか、有名な作家だかも言っていた気がする、確か。多分。
しかし、実際はそううまくいかないもので、今朝は母親による妨害が入り、こうやってダッシュして大学に向かっているわけだが。
ちょうど、すぐそこの信号が点滅を始めた。
ここからギアを上げれば間に合うだろう。
けれど、もちろんここで、渡るのを諦めて次を待つのが俺だ。
まあ多少は講義に遅れてしまうかもしれないが、しょうがない。
そもそも大学の講義で遅刻に怒る先生の方が少ないだろう。
信号待ちの暇つぶしにスマホを取り出そうとすると、紺色の前髪が右目にかかった。
髪、伸びてきたな。
前髪を左右に分け、視界を確保し、ちょうど首元ぐらいまで伸びた襟足をパーカーのフードに納める。
信号が青の点滅から赤へと変わろうとした時だった。
右肩に衝撃を受けた。思わず右足を前に出し、バランスを取る。
すぐ後に制服姿の女子生徒が、右脇を走り抜けていった。
おいおい、危ないじゃないか。信号もすぐに赤になるし。
心の中で文句を垂れると、ものの見事に女子生徒が目の前でつまずいた。
言わんこっちゃない。
幸い、少し手を伸ばせば届く距離だったので、咄嗟に倒れかけたその子の腕を掴んだ。
それぐらいの思いやりはまだ持ち合わせていた。
いずれそれも諦めるかもしれないが。
しかし、右腕にかかる負担が思った以上に大きく、身体がグイッと引っ張られた。
(鍛えておけばよかったな......)
その子と場所が入れ替わる形となり、体勢が前に崩れる。
車道に足を踏み入れるとはいえ、まだ信号は変わったばかりだ。
すぐに車も来ないだろう。
そう思ったのも束の間、全身に響くクラクションが俺を恐怖のどん底へと突き落とした。
大型のトラックがこちらへと向かってきていたのだ。
(まずっ......!)
考える暇もなく、経験したことのない衝撃が全身を襲った。
瞬きをすると、人影が見えたような気がした。
視界はぼやけて、赤色が縁からじわじわと侵食してくる。
(あれ、俺ってさっきまで横断歩道の前にいたような......)
先ほど派手にこけたはずの女子生徒が血の気の引いた顔を向けていた。
口を必死に動かしているが、何を言っているのかまるでわからない。
それよりも身体中が痛い。
今まで味わったことのない痛さだ。
動くこともできない。
死ぬほど痛いとはこういうことなのか。
少しすると、耳に入る音は多少なりとも鮮明になっていった。
「今、救急車が来ま......ら!諦めな......くだ......い!」
嗚咽混じりの声が言う。
ん、救急車?
俺のこと、か。
……
いや、そんなわけないな。
ここから助かるとは到底思えなかった。
死ぬのは...... 嫌だなぁ......
呼びかける声は段々小さくなり、意識は砂のように崩れ落ちていく。
死ぬのは嫌だけど......
もう間に合わないのなら......
すっと首が楽になると同時に全てが砂と化した。
最期まで意識に焼き付けられていたのは、自分が掲げた信条。
走馬灯がよぎることもなく、俺、目浪 アキラは自分の命さえも諦めてしまった。
はずだった。




