第15話:君が遺した種子は、森には還らなかった。
世界を覆い尽くしていた漆黒の空が、ガラスが割れるように砕け散り、突き抜けるような青空と眩い太陽が顔を出した。
死を覚悟し、恐怖にうずくまっていた世界中の人々は、一斉に天を仰ぎ見た。
「空が……晴れたぞ……!」
「魔王の呪いが消えたんだ! 助かった、私たちは助かったのよ!」
神に祈りを捧げていた者も、子供を抱きしめていた母親も、盾を構えていた衛兵も。彼らは武器を放り出し、見ず知らずの隣人と抱き合い、安堵と歓喜の涙を流して奇跡を讃えた。
こうして、世界を終わらせるはずだった絶望は、誰に知られることもなく、深い森の奥で起きた「途方もない愛の衝突」によって完全に消え去ったのだった。
──それから、十五年の月日が流れた。
かつて、誰も足を踏み入れることができなかった絶対の聖域『原始の森』。
魔王の瘴気と共に朽ち果てたその跡地は、今では見渡す限りの色鮮やかな美しい花畑へと姿を変えていた。
爽やかな風が花の香りを運ぶ中、その花畑の中心に、小さな石碑が佇んでいる。
その前には、胸に手をかざした一人の少年が立っていた。
月光を紡いだような美しい白銀の髪に、千年前の勇者を思わせる、真っ直ぐで力強い瞳を持った十五歳の少年。
「……行くのかい?」
少し離れた場所から、優しく、けれどどこか寂しげな声がかけられた。
声の主は、王国騎士団の紋章が刻まれたマントを羽織る、白髪混じりの領主だった。
あの日。彼は『原始の森』の方角へ天を衝くような黄金の光柱が立ち上るのを見て、数名の兵を率いて駆けつけた。そして、魔王の瘴気が消え去り、柔らかな陽だまりとなった森の跡地で、力強い産声を上げていたこの少年を見つけ出したのだ。
最初は、伝承にある『魔王の生まれ変わり』ではないかと剣の柄に手をかけた。だが、赤子の傍らに大切に残されていた一冊のボロボロの日記を読み、その不安がまったくの杞憂であったことを、むせび泣きながら理解したのだった。
偉大な恩人たちが、千年の命と引き換えにこの世界に遺してくれた、たった一つの奇跡。彼の一族は、この少年を『恩人たちの忘れ形見』として大切に保護し、実の子以上に愛情を注いで育て上げてきたのだ。
「はい」
少年は振り返り、育ての親である年老いた男に向かって、深く、綺麗な礼をした。
「父様と母様が、千年の時間をかけて守り抜いてくれたこの世界……。それがどれだけ美しくて、温かいものなのか。この目で、しっかりと見てみたいんです」
少年の手には、一冊の古い皮表紙の本が大切に握られていた。それは、少年の傍らに唯一遺されていた、ボロボロの『日記』。
そのページには、スパイスや香草が一粒単位で正確に記された「世界一美味しいシチューの作り方」や、不器用な文字で綴られた何気ない日常の記録。
そして最後のページには、『貴方との間に子供は遺せなかったけれど、この種子が二人の愛の結晶よ』という痛切な告白と、互いをどれだけ深く想い合っていたかの証が、ありったけの感謝と共に記されていた。
少年は、そのボロボロの日記を愛おしそうに撫で、静かに閉じて旅の鞄にしまった。
エルフは死ねば光となり、自然の一部として森に還る。それが神代から続く美しい理だった。
けれど、彼らは還らなかった。愛する人を独りぼっちにしないために、千年の愛を一つの命へと昇華させ、新しい未来としてこの世界に確かに根を下ろしたのだ。
少年は、見渡す限りの花畑から、どこまでも続く青空へと顔を上げた。
そして、晴れやかな笑顔で告げる。
「行ってきます、父様、母様」
少年が力強く大地を蹴り、新しい世界へと歩き出す。
その背中を。どこからともなく吹いてきた陽だまりのように温かい風が、愛おしい我が子を送り出すように、優しく、優しく撫でていった。
『君が遺した種子は、森には還らなかった。』
(完)










