七話
そもそも、あの日わたしたち家族に会う予定の人間は誰だった?
最初に倒れていたわたしを介抱したのは誰だった?
あの人は時間に厳しい人だ。遅刻なぞまずありえない。時間ぴったりに――だが、そこが違かったら? もし、わたしより早くに着いていて……。
……だめだ。疑いだしたらキリがない。
でも、でもよく考えてみよう。
一人、光沢をみせる白米に箸を突き刺して物思いに浸る。
早とちりはだめだ。今、わたしの中で最も怪しいというだけで先生の行動が全て悪い方向に働いてしまう。意味もなく犯人なのではないかと無理に繋げようとしてしまうのだ。それこそ、簡単な問題なはずなのに難しく考えてしまうような。
そうだ。考え過ぎだ。これ以上考えるのは止めよう。第一、わたし一人が頭を抱えていようがどうにもならないのだから。
――それでいいのだろうか?
口の中に一塊にまとめた白米を放り込み、もぐもぐと噛む。
―― お前だけは、父さんが守ってあげるから ――
だから。と父は続けて言った。
―― お前は、お前の安全だけを考えるんだ ――
それで、何が守れる。それで何を失うのだ。
それじゃあ、何の解決にもならないじゃないか。
わたしは、今朝また発見されたとされる八人目の死者を通告するテレビの電源を切った。
――たぶん、わたしは今生涯で最も己の限界に挑戦しているのだと思う。
ここ数日、父の送り迎えを遅らせて、わたしは一人校舎の中に隠れ潜んで担任の学校生活を観察しようとした。だがその必要はなかった。どうやら彼女は優秀なようで、定時になれば帰宅というポリシーを持っているようだ。そのまま跡をつけて自宅を把握――と簡単にはいかず、車の運転席に乗り込んだ担任の姿を見て計画は頓挫した。こうなったら、職員室から直接教師陣の住所が書かれてある書類を発見するしかないだろう。
そして今、わたしは担任が車の中に乗り込むのを見届けた後、職員室前に立っている。右手はノックをしようと胸元に掲げている。ごくり。唾が喉で音を鳴らした。
え、えっと、どうしよう。
戸を叩くことはできなかった。怠慢にも、わたしの右手はその動きを止めていた。どうやら、わたしの限界というものは上限が随分と低いらしい。
じゃなくって、どうしようじゃなくって……! ここまで来たんだからすることは一つでしょ! ええい、ままよ!
ガラリ。ドアが開いた。しかし、それはわたしの手によってではない。わたしの手ではない誰かの力によるものだった。
「入らないのですか?」
機械に似た感情のそぎ落とされた声が、隣から聞こえた。
ひゅぅ――と、引き攣れた風音が喉を鳴らす。わたしはそれを飲み込んで言葉を吐き出した。
「な、なん……で」
「なんで? その言葉は扉を開けた真意、あなたが入ることを理解していた理由――それとも、帰宅したはずの私がなぜここにいるのか、ということでしょうか」
カチリと合った黒水晶の双眸。そこには不快も愉悦の色も見えない。確信できるのは、己の稚拙な追跡などとっくに見破られていたのだということだった。
心臓が握られたかのような錯覚に襲われる。チリチリと胸底が炎に炙られている。
「でもちょうどよかった。南条さん、今お時間はありますか?」
「……じ、じかん、ですか……?」
「ええ、少しお話したいことが――あなたの、今後のことで」
帰りは送るからと、先生の家で話し合うことが決定した。いや、正確には言いくるめられたと言ったほうがいいかもしれない。夜遅くまで生徒を留まらせてはいけないからと彼女は言っていたが、その理由は定かでない。こうなったら一か八か、危険に身を乗り出すしかないだろう。逃げられないのであれば、立ち向かうまでだ。
わたしたちは外靴に履き替えると、先生が乗り込む車へと向かった。学校所有の駐車場に停めているため、その場所まで一分とかからない。
背筋の伸びた背中を追いかける。しかし、手を繋がれているわけでもないのに距離は遠ざかる気配はない。足の長さも歩くスピードもまるで違うはずなのに、人形のようなその人は後ろに目でもついているのか、わたしのゆったりとした歩調に合わせている。――それこそ、慣れているみたいに。
担任はわざわざ助手席のドアを開けて、わたしが乗り込むのを見届けると自身も運転席へと乗り込んだ。黒い軽自動車だった。消臭剤もなにもつけていないのか、新品のような香りが座った瞬間に鼻についた。怖いほどに無機質な車内だった。
エンジンがかかる。静かに車が発進した。裏口から出る際、教員の一人が驚いたようにこちらを見つめていた。
「お父様の様子はどうです?」
「あ……はい。……疲れてる、みたいで」
「大変でしょうね」
「……藤巻さんが、亡くなったから、それで……」
「彼女が亡くなったから、あなたが次に殺されると? ずいぶんと短慮な思考をなさる」
ぐるりとハンドルを右向きに回す。まもなく寂れたアパートが見えた。
そのアパートが管理しているであろう駐車場に車を後ろ向きに停める。今時珍しい鉄鋼の通路に階段。それも、手入れを怠ったのか、以前の管理人の扱いが杜撰だったのか、所々が赤く錆びれている。とても人が住んでいるように見えなかった。
「さ、着きました。降りてください」
素っ気無く言って、担任はシートベルトを外す。
カンカンカン。缶を蹴ったような響きを踏んで階段を上る。
きぃ、と引っかく音を立ててドアが開かれた。
奥には丸テーブルが一つ。一対の座布団がテーブルを隔てて用意されている。娯楽性も何一つ見られない虚ろな部屋だった。
「どうぞ、座っていてください。お茶でも用意します」
靴を脱いで、彼女は壁で遮られているキッチンへと姿を消した。
◇
彼女がいる。
壁を伝って彼女の心の臓の音を感じる。
壁一つ先にいるのだ。あの弧弱な命が。
――ああ。
触れたい。触れたい。赤い実の脈動を。滴る血の雫で口内を埋め尽くしてしまいたい。
未だに耳元に残る心臓の音色を思い出す。孤独だ。悲しみだ。胸を掻き毟りたくなるほどの弱者の叫びに通じるものがある。まさしく、彼女は私と同じだ。社会に適合できずに苦しみ果てている。たった一人きりであることを憂いている。
だが、もう一人ではない。最愛の人よ。あなたのすぐそばに、私がいるのだから。
◇
ゴーゴー。エアコンの活動している音が響く。どこかで冷房でもつけているのだろうか。
辺りを見回すと、襖で固く閉じられている部屋があった。ふと思い立って近づいてみると、嗅いだことのある刺激臭が鼻についた。忘れようにも忘れられない。化学の実験で確かに嗅いだホルマリンだ。
理科準備室でよく見られるように、主に防腐処理などに用いられているのは知っている。それが、なぜ担任の家の一室から臭うのか。
そういえば、犯人は心臓を集めているのだったか。では、その集められた心臓はどのようにして保存されているのだろう。
もしかしての想像がわたしの頭に広がった。
「気になりますか」
ことりと、氷が浮かんでいるコップが二つ、テーブルの上に置かれた。
「どうぞ。あなたには見る証が十分にある」
言われて、開けるよう促されたものの、わたしは丸い襖引き手に手をかけるのみで開ける勇気が出ない。開けて何が見えるのだろう。考えるのすら恐ろしい。弱者の象徴であるわたしの心臓は悲鳴をあげて、すぐにでもここから逃げたいと叫んでいる。
――そっと、白魚のような指がわたしの手に重ねられた。
「何も怖がる必要はありません。あなたと私は同士なのですから」
外からの有無を言わせない力によって、襖が開かれた。
その部屋は実験室のようだった。電灯は外されており、カーテンは窓を蔽って日光を遮っている。
壁際にかけられているのは一体の人間を模した人形だった。内臓は一部一部が欠けており、さながら不十分な人体模型といったところだろう。模型を装飾するかのように、脇の棚にはホルマリン浸けにされている何かが詰められた瓶詰めが並べられていた。
いや、何かなどと現実を直視しない言い方はやめよう。それは内臓だった。脳みそだった。指だった。目玉だった。舌だった。乳房だった。心臓だった。――人間の一部だった。
両手で悲鳴を押さえて一歩後ろに下がる。彼女は艶やかに笑みを浮かべて中に立ち入っていく。
「よくできてるでしょう? 数年かけて集めたんです。肋骨は最近親しい友からいただいたので乾燥させています。藤島さんの心臓は入手したばかりですし、好みでもないので浸けているところですが」
「ふ、じじま、さん……。やっぱり、殺したのは……」
「ええ、私です」
「どう、して……」
彼女はわたしの発言に対し、驚いたように切長の眼を見開いた。
「それをあなたが言うんですね……。彼女は亡くなるべくして亡くなったのですよ。私としては告白のつもりだったのですが、こう言ったほうがいいですか? さらしあげです。あなたを傷つけた」
「さらしあげ……?」
「はい」
と、花が咲いたように彼女は絹糸のような黒髪を揺らした。まるでそれが当然だとでも言うように。
初めは恐怖だった。彼女の思考が理解できなかった。
次に冷静になった。彼女の行動が理解できなかった。
最後に怒りになった。理解できないものに対して、わたしは憤慨するという行動を知っていた。
わたしは奪われた人間の一人である。自身の命を奪われた藤島由美の痛みに――苦しみに――怒りに、いたく共感してしまったのだ。
わたしは憤慨した。人一人の命をそんな意味もない行動で失わせたのかと怒りに前が見えなくなりそうだった。それこそ、最初の犠牲者も、母も、何の意味もなく。
「そんな、そんなことのために……っ?」
「そんなこととは心外ですね。彼らの一部にしないのはともかくとして、わざわざ浸けたのですから褒めて欲しいものです」
「彼ら……?」
「おや、わかりませんか? 人体模型ですよ。本物の人間の部品を使った」
それは暗い部屋の奥に立っている。明かりはない。動いているはずもない。しかし、じっとこちらをねめつけている。感情の見えない本物の瞳で、死してなおその生き恥を晒していることを訴えている。
悲鳴はあげられなかった。それは酸味の強い液体となって床を汚した。吐き気を催す刺激が喉を焼く。わたしは床に膝をついて、目の前に広がる悪意の井戸の一滴でも吐き出そうともがいた。
「当初はホルマリン浸けにしたものを形にしようとしたのですが……。如何せん、あれは外に出してしまうと崩れてしまったので。ですから改めて新鮮なものを取り寄せて乾燥させて――」
訊いてもいないことを、彼女は子どものように嬉しそうに話す。
くらくらと、急激な体力の消費が視界を揺らした。心臓が痛い。これ以上の無理は命にかかわるといっている。これでは、歩くことも難しいだろう。だが、おかげで少し冷静になった。
「なんで」
声を出すと、彼女は忙しく動かしていた口を止めた。
「なんで、殺したんですか」
その問いに対して、彼女はきょとんとした表情を浮かべた。思案するように眼球を移動させる。
「……それ以前の問題点として、私は〝殺す〟という動作に〝殺人〟という意味を見出せないのです。あ、いいえ、これでは理解しづらいでしょうか。……そうですね、これがいいでしょう。私は人を殺しているつもりがないのです」
「な……」
「殺しているはずなんでしょうが、私にとって彼らは同族でない。だから殺せるのです。ですが、殺した瞬間彼らは同族となる。わかりませんか? 私は〝孤独〟なんです。これは、孤独にならないための生存確認なんですよ。南条さん、あなたならわかってくれるでしょう?」
わたしは首を振った。
「……わからない。わたしには、あなたの言っていることが、まるでわかりません」
「そんなことはありません。あなたは私の孤独を理解できるはず。あなたは私と同じなんです。もう嘘を吐かなくてもいいですよ。だって、私たちは同様のことしたじゃないですか」
「――ちがう。わたしと、あなたの孤独は違う……っ。あなたのそれは押し付けです。確かに、わたしはわたしを孤独だと思っていた。だけど、それはわたしが周りを見ていなかったからです……! わたしは孤独じゃない。孤独じゃなかった……! あなたのそれは、わたしに同じものを押し付けているだけの自己満足です」
薄く、彼女は紅の唇を三日月の形に変える。真夜中の暗闇を吸い込んだような瞳が、じっとわたしを狙っている。
「おかしなことを言う。私は、これまでに満足を感じたことは一度たりともないのに」
「誰かから大切な人を奪う人が、満足になれるわけがない。あなたは永遠に空っぽです。自分と同じものを他人に求めて、得られずに苦悩する廃人だ」
「……黙れ。私は私にそのようなことは言わない」
「それこそ、間違えです。わたしがあなたと同じなわけがない。――だって」
――だって、わたしはとっくの昔から満たされていたのだから。
見えなかった母の愛に。取り繕いの鳥かごに。
わたしは弱者だ。強者とは違う。だが、誰だって形は違いはあれど弱者なのだ。自分だけじゃない。全てはわたしが受け入れなかっただけだ。鏡だけを見て、それに背を向けることを知らなかった。
ああ、確かに。
確かに、あの瞬間、わたしは幸せだったんだ。
「空っぽのあなたと満たされているわたしとじゃ、全く違う」
「……本当に、残念ですよ。南条さん。わたしはあなたを失いたくなかったのに」
彼女が近づいてくる。わたしは少しだけ回復した活力を用いて、転がるように玄関の扉へと向かう。外へと飛び出すと、自身の鼓動が今までにないほど揺れた。錆び色混じりの通路に倒れこむ。鉄骨が大きく鳴る音がどんどん小さくなっていく。現実が遠く、遼遠のものとなっていく。
「可哀そ――に」
襟を引っ張られ、内へと戻される。後頭部が床にぶつかる衝撃を感じた。痛みは感じない。衝撃が息となって吐かれた。
彼女はわたしに馬乗りになる。視界がぼやけている。彼女は悲しそうに祈るように包丁を掲げている。
「とても悲しいです。あ――同士だったのに。もっと早くに私があなたを見つけ出せ――ば、あなたはこん――おかしく――かった。ええ、せ――の償い――。彼らにし――あげます。これ――は、一緒に」
目蓋が下りる。漆黒のベールが世界を侵食する。半分だけの世界で、彼女の後ろにだれかが立っていたのが見えた。
銀色の何かが彼女の胸から生えている。赤色が垂れる。きっとわたしの胸元に零れているのだろう。彼女がわたしの上に崩れようとしたが、後ろから伸びた手が彼女を横に倒した。
世界を閉じる。わたしは暗闇に墜ちる。意識が切れる瞬間、胸がちくりと痛んだ。
次回本日20時に投稿。