六話
彼女の姿を夢想してそれを裂く。彼女は喜んでくれるだろうか。うっとりと、未来を想って乾いた唇を舐めた。舌先が頬に飛び散った血潮を掠めて、鉄の味を教えてくれる。
ひぃひぃと耳鳴りのしそうな音を出して、それは汚ならしく地面にしがみついている。イタイイタイイタイ。壊れたビデオテープでも流しているみたい。それは羽をもがれた蝉に似ていた。
細首を踏みつけて、ぽきんと鳴らす。暗闇に響く骨の音色は心地がいい。女の悲鳴よりよっぽど綺麗だ。
「少し、静かに。私は煩わしいのが嫌いです」
女は答えない。彼女は感情をもう伝えることができない。
胸元目掛けて裂いた部分を縫うように手を沈ませる
──あったあった。これだ。
ぶちぶちと力任せにコードを千切ると、ほんの僅かな力で稼動している赤色の電池を手に取った。
──うん、綺麗。
嬉しくて笑った。
◇
帰宅途中の生徒たちを横目に、わたしはシートベルトを引いてバックルをカチリと鳴らした。
騒音の小さな車の中、もたれかかる車窓を伝って体を揺らしている振動にたゆたう。
眠たげな、思考を生まない眼差しを何処かへと向ける。隣にはハンドルを握る父の姿。厳格な眉には皺がいっそう刻まれていて、口はぎゅっと引き結ばれている。
クラスメイトの一人が故殺されてから父は変わった。いや、変わったというのであれば、それは母が死んだあの日からだったのだろう。ただでさえ妻を亡くしたというのに、娘の近くでまた殺人があったとあれば気が気でないのも当然だ。
神経質に。二度と失わないように。父はわたしを迎えに来る。次の日も。また次の日も。日に日に父はやつれていく。頬骨は目に見えて肉を削ぎ落として浮き立ち、目元は暗く窪んでいっていった。
「お父さん。わたし、大丈夫だから。だから――」
「大丈夫、父さんを信じなさい。お前は――お前だけは、父さんが守ってあげるから」
父は母を亡くしてから、失うことを恐怖していた。それは、母に手を下した犯人が未だにこの町に潜伏しているからに他ならない。わたしが母になってしまうことを、父は己の命を削りながら避けようとしているのだ。
「近々引越ししよう」
父の提案に頷かない手はなかった。このままここにいれば、父はさらに弱ってしまうに違いない。ただ一人の家族、わたしたちは互いに依存し、恐れを抱いていた。
ある日、父の迎えが来なかった日がやってきた。
きっと仕事が延びてしまったのだろう。はたまた、体力の限界を迎えたのか。手元に携帯電話がないわたしには事実を確かめることは出来ない。わたしは日が落ちる前にと、帰路を急ぐ生徒たちに紛れて歩き出した。
家に近づくにつれて人通りは少なくなる。飴色の光に晒された家々が白い塀をも覆って黒く濡らす。
ゆったりとしたわたしの足音が無人の住宅街に沈む。細長いわたしの影がアスファルトの上を這う。地面に貼られたわたしの影は、実際のわたしよりスリムだ。
ふと、わたしの影に異なる影が重なっていることに気づいた。
電柱に似た長々とした陰り。一歩進めばズレるかと思いきや、それはぴったりと糊で貼り付けられたかのように離れない。その影は、わたしの足元よりも後ろから伸びていた。
己の呼吸が鮮明になる。気を研ぎ澄ませば、二つ目の呼吸が聞こえる気がした。
気づいてしまった。気づかなければよかった。ザクザクと、それは隠しきれない足音を立ててわたしの後ろを歩いている。足を止めれば、見えないそれは音を消してこちらを窺っている。ガチガチ、口の中で歯車がぶつかる音がした。
──つけられている。
殺されると思った。このままではわたしも、母のように。
だが、このまま家に帰ってどうする。犯人は家の中に入ってくるだろう。もしかしたら窓を壊してくるかもしれない。
どうする。
恐怖で心臓が軋んだ。
どうしたらいいの。
吐き出す呼吸が、夏の熱気に溶けて散る。背筋が、氷水を浴びたかのように痺れて寒々しい。
足音が動いた。わたしのものではない。それは、ゆっくりと急所に狙いを定めるように近づいてくる。
カツ、カツ。
わたしの足は、動かない。石膏と取って代わられてしまったかのように。しかし今にも罅割れようと膝は震えている。大きくなるであろう影を直視したくなくて、わたしはぎゅっと目を閉じた。
「――南条さん」
ぽん、と。肩を叩かれた。
引き攣れた悲鳴をあげてわたしは崩れるように座り込む。見事にコンクリートに両膝がぶつかった。二度目の悲鳴が上がった。
わたしを驚かせたその人は慌てた様子で、わたしの正面に立つ。
「だ、大丈夫?」
彼の鼻に掛けられている日に照らされた眼鏡が眩しい。太陽の輝きに隠れた部分から、彼の困惑している様子が見てとれた。
「だい、じょうぶ……」
安心させるよう立ち上がろうとするものの、それに反して膝はがくりと倒れる。足が痺れたのだ。
情けない。本当に情けない。泣きたくなった。
西谷くんはわたしの手を取って助力してくれるが、脆弱なわたしの足はそれでバランスが取れるわけでもなく崩れてしまう。咄嗟に彼の裾を掴んで倒れるのを静止する。
「あ、ごめ……」
――んなさい。と続けようとしたが、それは至近距離にあった彼の端正な顔に阻まれてしまった。
じっとこちらを見つめる彼の瞳。熱の篭った地上で密着する若い男女の体は、夏の暑さのせいか汗ばんでいる。顔が熱いのも、夏のせいに違いない。大きく高鳴っている心臓の音が聞こえていないか、心配でたまらなかった。
動揺の色すら見られない彼の顔は、凍っているのかと見まごうほどに涼しげだ。だが、黒い双眸の奥で熱が翳ったのが見えた。しかし、それも一瞬のことで彼は息を抜くように微笑む。
熱が離れて、体を支えてくれる両手だけが彼との繋がりを絶たないでくれた。
「立てる? 南条さん」
「う、うん。ごめんなさい」
「ならよかった」
彼の手が離れていく。そのあっけなさに、先ほど見えた熱は勘違いだったのかと思うほどだ。
以前と同じように、彼と並んで歩く。
視界の端で見上げてみせれば、こちらを向いてにこりと笑う彼と目が合った。途端に頭は真っ白になって下を見る。首から上が燃えているみたいだ。自分はこんなに挙動不審な人間だっただろうか。
先ほど自分を支えてくれた大きな手を思い出す。
がぶり振って邪な感情を散らした。いったい何を考えているのだわたしは。
「――あのさ、南条さん」
「はっ、はい?!」
唐突に振られた発言権に、わたしは飛び上がりかねない勢いで応えてしまった。
自身の四肢を切り刻んで小さな穴に入りたい。どうしてこうも自分はうまくいかないのだろう
西谷くんはわたしの失敗を気にしていない素振りで、会話を続ける。
「さっき、先生と何話してたの?」
「……? 何の話……?」
「ほら、さっきうちの担任と話してただろ? 俺が近づいたら先生離れてったからさ。聞かれちゃまずいことでも話してたのかと思って……」
話の途中で、西谷くんは苦虫でも噛み潰したかのような顔をした。
「でも、そういうの無闇に訊いちゃだめだよね。ごめん」
「……てない」
「え?」
思わず、わたしは身を震わした。ついさっき浴びたはずの氷水の名残を感じたのかもしれない。
顔を強ばらせて、わたしはあってほしくない事実を口にする。
「話してない。わたし、先生と話してないよ」
あの細い影は――あの女のものだったのだ。
待っていただいた皆様、ご無沙汰してます秋花です。
残り二話は十二月中に投稿しますゆえ、また少しばかり待つことになるでしょうが、お付き合いしてくだされば幸いです。




