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揺れる鼓動  作者: 秋花
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五話

 動悸が乱れていた。息がつまりそうなほどの巨大な感情が、全身を熱くさせて交錯していた。

 今にも燃え上がらんとするそれを嚥下すると、私は締め付ける胸を抑えながら壁にもたれかかる。コンクリートに固められた白灰色の壁が私の背を白く汚した。

 彼女の叫び声が耳から離れなかった。暴れださんばかりの心臓の鼓動が耳から離れなかった。抱き上げた際に少女の慎ましやかな胸に押し付けた耳を通して私を堕としたあの音が――忘れられなかった。

 哀れなほどに弱弱しい彼女。なぜ、私は彼女の存在に気づけなかったのだろう。


 ああ、これが運命なのだ。私は、貴女と出会うために生まれてきた。


 吐息が温く世界を湿らせて、私の体を震わせる。恍惚に頬が歪む。

 相も変わらず地球を照らす太陽の光に隠れて、新しい仲間が己を脈動させて祝福してくれた。


「ふふ、ふ……あははは……!」


 溢れんばかりの笑い声が、影の中で風に運ばれて広がった。


 きっと、これは恋なのだと思った。だって自分の心臓が、あの部屋の中にいるみたいにずっと近くで、大きく鳴っているんだ。







 ◇


「では、これでSHR(ショートホームルーム)を終わりにします」


 号令を終えると、今まで話したことのない女生徒たちが心配そうな顔でわたしに駆け寄ってきた。

 いつも男子とも話している明るいグループだ。わたしに積極的に話しかけようともしない。こそこそとこちらを傍観しているメンバーだった。


「南条さん、だいじょうぶ?」


 心底心配しているといった表情をわたしに向けて、彼女は机越しにわたしを見下ろした。化粧を施された彼女の桃色の唇を通り過ぎて、焦げ茶色の瞳を見上げる。

 周りの少女たちも自分のことでもないのに悲痛そうに眉を歪めていた。


「お母さんのこと……残念だったね」

「辛いよね……あたしだったら耐えられないかな」

「がんばってね! 何かあったら頼ってきてくれていいからね!」


 わたしは首を傾げかけてしまった。

 何を頑張るというのだろう。何を辛いと言うのだろう。わたしは一粒の涙も流していないというのに。

 疑問を投げつけたかったが、それでは彼女たちの好意に失礼なので、わたしは薄く笑ってありがとうとだけ答えた。上手く笑えただろうか。少しだけ心配だった。


「――ねえ、南条さんお母さんの死体見たんでしょう? どうだった?」


 一瞬だけ、呼吸が止まった。

 問いをぶつけてきた少女は悪気がなさそうに笑って、わたしの瞳を覗き込んでいる。


「由美ッ!」


 彼女の友人であろう少女が激した声で笑っている彼女を非難した。


「だって気になるじゃない。ね、南条さん。どうだった? 血はいっぱい出てた? 犯人は見た?」

「由美、やめなって」

「犯人? なんで?」

「だって、南条さんが第一発見者だったわけでしょ? 見たかもじゃん」

「そうなの? 南条さん」

「え……っと……」


 好奇心に満ちた少女たちの瞳から視線を逃がす。しかし、刺さるような好奇の目のは未だに私に降り注がれていた。答えを待っているのだ。答えなければ。しかし、過去を紡ごうとした唇は震えて音を出すことを拒否している。

 いつの間にか握りこんでいた拳も震えていた。止まれ、止まれ。下唇を噛んで必死に臆病な心を追い出そうとする。だが、わたしの心に反して、震えは悪化する一方で収まる気配はない。

 下を向いたまま、わたしは口を開いた。


「ごめん……なさい。よく覚えてないの」

「えー、そんなこと言わないで――いった、なに」


 彼女の肩を強く掴んだ人物がいたらしく、彼女は不機嫌そうに後ろを振り向いた。茶に染めてある背中までの長髪が円を描くように宙を舞った。

 生涯色づけたことのないだろう鴉の濡れ羽色をした流れるような髪。仮面のように貼り付けられた無表情。光のない暗い瞳。暗室にずっと閉じこもっていたかのような青白い肌。そんな暗い色彩の中で浮いている熟れた林檎のように真っ赤な唇が開かれた。


「……不謹慎なのがわからないのですか? 藤島さん」


 ――担任、だった。







「南条さん」


 昇降口で通学靴を履いていると、下駄箱に体を向けているわたしの横から声をかけられた。


「──……西谷くん?」


 振り向くと、そこにいたのは普遍を人の形にしたようなクラスメイト──西谷くんだった。彼はクラスの中でも、唯一わたしが下を向かないで言葉を通わせることのできる男子生徒だ。冷え性なのか、外を出歩いているだけで吹き出てくる汗など知らないと言わんばかりに、手首までをすっぽりと被う学校指定の白いシャツを着ている。


「どうかしたの?」

「その、心配だったから」


 彼はじっと下を向いて静かに言葉を発した。眼鏡が小窓から差し込んでくる夕日の光に反射していて、その奥にある色は見えない。

 母のことだろうか。


「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だから」

「本当に? そんなにいたがっているのに?」


 彼が一歩こちらに近づいて、無垢な色をした黒い瞳が晒された。

 いたい。居たい。痛い。

 時々彼は抽象的な言葉を用いて人と対話する。詩的な言葉には疎いわたしは、いつも疑問符を浮かべてしまうことが多々あった。だが、このときばかりは何を指してのものなのか、はっきりとわかる。

 ――初めて、彼の瞳を直視した。彼が顔を上げたのだ。

 今まで気がつかなかったが、彼は非常に端正な顔立ちをしているようだった。


「……西谷くんは、今起きて立っているここが現実だって確信、ある?」


 自分でもおかしいのだと思う。だけど、言葉にしないではいられない。なぜだか、今の彼ならばわたしの言葉を聞いてくれる気がして、口が軽くなる。

 蝉の声が聞こえる。ぼとぼとと、そこらに死骸を落とす彼らの命の灯火が、太陽の光が沈むように霞んでは潰えていく。


「わたしはね、ないんだ。

 寝て、目が覚めたら全部がなかったことになる気がするの。

 痛いことも、辛かったことも、笑っていたことも楽しかったことも。泣いたこともいなくなってしまった事実も。誰かがいた跡も、全てが霧みたいに朧で霞んでなくなる。

 それって悲しいことなのかな。それとも幸せなのかな。

 ……そうだね。歩こうか。……送ってくれるの? ありがとう。

 たぶんね、お母さんが死んじゃったっていう実感がないんだと思う。今いるここは夢なのか。現実なのか。実は全てが夢で、目が覚めたらまたお母さんとの言い合いが始まる白昼夢が、ずっと脳の裏側に張りついているみたい。

 前はね、このちっちゃな心臓が気まぐれに呼吸を止めて、もう目開けられないときがくるんじゃないかって毎日が怖くて怖くてたまらなかった。でも、今はそんなことどうでもいいんだ」


 強い風が吹けば、風に巻かれ。くもの巣に引っかかれば暴れることもせずに溶かされ啜られるのを待つ。抵抗もせずに、痛みを受け入れて。まるで、胡蝶の夢でも見ているかのよう。

 わたしは母を失ったと同時に、逆らい抵抗するという思考が欠けてしまったのかもしれない。


「ねえ、西谷くん。西谷くんにはわかるかな。世界が突然変わってしまったの」


 わたしの世界がどこにいってしまったのか。はたまた最初からなかったのか。自分の足元が曖昧になってしまったみたいに、周りがふわふわしてる。膨大な時間であったはずなのに、形のあった世界は全てががらんどうで、あっという間に崩れていく。

 目蓋を閉じるたびに世界が崩壊していくのだ。一歩進むたびに辺りが見えなくなるのだ。


「まるで、パラレルワールドにでも紛れ込んでしまったみたい」


 わたしは、いったいどこにいるのだろう。

 母が消えて、前が見えなくて、わたしはどこへ行けるのだろう。


「南条さんは、どうしたいの?」


 正直に言おうか迷って、わたしは首を振った。


「わからない。どうしたいのか、どうしていたいのかも」


 わたしの目の前に広がる世界は随分と変わってしまった。わたしの中の母はまだ生きているのに、わたしが今生きている世界では、母はいない。ツギハギだらけの矛盾に満ちた生活にわたしは生を見出せない。わたしが本当にいる現実はここなのだろうかと、不安でしょうがないのだ。


「そう。なら、早く見つけなきゃね」

「見つかるかな」

「見つかるよ。きっとすぐ傍にある」

「……傍に?」


 顔を向けると、にこりと西谷くんは笑って足を止めた。

 十字路だ。彼は右に、わたしは真っ直ぐに進まなければならない。


「それじゃあ、俺はこっちだから」

「うん。――さようなら、西谷くん」

「またね、南条さん」


 互いに手を振って、わたしたちは別れた。













 軋む心臓を押さえつけながら、ノブを回して居間へと入る。泥のような息を吐き出して、強ばらせていた全身を軟化させる。大丈夫、何もない。窓は閉め切っているし、カーテンははためいてもいない。

 安堵してドアの先にあるテーブルの上を見ると、そこには無造作に置かれたコンビニ弁当があった。大きな魚のフライを中心に、黒胡麻の撒かれた米や添え物の役割を果たしているポテトやから揚げがプラスチックのカバーを透かして確認できる。今は家にいない父が、手ずから用意してくれたものだった。

 ため息を吐く。量が多いし、好みではない。なにより、医者にも止めるように言われているのだ。こういいう食事は。


『ああ、そうだ。南条さん』


 わたしを囲っていた女生徒たちを散らした担任が、用は済んだとばかりに立ち去ろうとしていた足を止めた後にこんなことを言っていたことを思い出す。


『近頃のあなたは顔色が悪い。まともに食事も摂っていないのでしょう。料理が苦手なのであれば私が教授することも可能ですが、どうなさいますか?』


 慌てて首を振ったものの、確かにこのままではわたしの体がもたない。

 なにとなく冷蔵庫を開けると、異臭が混じった冷気が鼻腔を潜った。賞味期限は過ぎたのに数日は放置したであろう食材の臭いがした。そういえば、母が逝去してから一度も開いていないように思える。

 父が母の痕跡という痕跡を全て片してしまった今、最後の砦がここなのかもしれなかった。


 一番上の段にある黄色い果物が目に入る。手にとってみると、それの生産日は母が亡くなった日だった。また、それはわたしの好物である常夏の果物だった。


 白いシルクの色をした冷蔵庫を閉じる。フォークを一本食器入れから取り出して、キッチンから出る。


 ばかな人だ。優しくするなら、子を思う心を思い出すなら、もう少し早くにすべきだったのに。


 椅子を引いて座ると、蓋に一線を引いている柔らかなテープを人差し指の爪で裂いていく。かぽ、と間抜けな音を立てて、すでに切り分けられた中の果物が数日ぶりに外気に触れた。

 小気味の良い感触を以って、パイナップルの一欠けらに三つ又を突き刺す。口の中に差し入れて、歯を立てフォークから解放してやると、噛む度に甘酸っぱい味が口の中に広がった。

 もぐもぐ。もぐもぐ。さくり。もぐもぐ。もぐもぐ。


 ―― 静樹 ――


 熱が出たときには、お母さんがわざわざ買ってきて食べさせてくれた。ひやりと、熱する口の中で酸味が弾けるのを思い出す。

 水面に出来る波紋のごとく、母の表情が次から次へと浮かび上がった。


 静樹。静樹。静樹。――。


 もう、その名を母の愛を以って呼んでくれる人はいないのだ。


「――っ」


 もう、言い争う母はいない。

 もう、自分のために泣く母はいない。

 もう、わたしのために泣く母はいない。

 もう、わたしを思ってこれを買ってくれる母はいない。


 母は、いない。どこにも見えない。二度と、帰ってこない。


 煮えるような熱い二つの塊から、何かが零れて頬を滑った。


「ぅ、ぅぅぅ……」


 歯間から漏れ出す嗚咽が唇を曲げようと、咀嚼する歯は止まらない。

 わたしは噛みしめているのだ。残痕を。想いを。――母の、死を。

 だから止めてはならない。時間を動かさなければならない。いつまでも足を止めてはならない。新たな世界で、わたしは柔軟であらねばならない。

 視界が歪む。目が悪いわけでもないのに、目の前のフルーツが黄色く滲んで形を成さなくなった。ぽたぽたと、スカートの上に黒く滲んだ染みを作り上げていく。


「お、かあ……っさん……!」


 子どものように泣いた。誰もいない家で、一人を思って孤独に泣いた。

 もしかしたら父も母の遺品を整理していたとき、ただ一人で涙したのかもしれない。

 二人の家族が孤独に死者を悼む。一人は妻を、一人は母を。二人の見えるものは違うけれど、確かに同じ形相だ。孤独ではないのだ。二人、確実にそこにある。たった二人の家族が、いなくなってしまったただ一人を思って泣いている。


 わたしは、母が死んでからようやく初めて涙を流した。





 ――そして次の日、藤島由美が学校に登校することはなかった。

 また後日、心臓の抉られた藤島由美の体が発見された。

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