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13.ご主人様と呼べ


 朝を迎えた主人は、遠い目をしたまま椅子の背もたれに背を預けそれきり動こうとしていなかった。ぼんやりとした半開きの口から生気が抜けていくようにも見える有様で、ロジオンやタウは彼をどう扱っていいものやら分からず、困り果てていた。

「……ご主人様、昨夜捕まえたスパイについてですが」

 ロジオンが聞かせる必要のある事を伝えてみるも、反応は芳しくない。表情を崩さず、主人は気のない返答を返すだけだった。

「……どうした?」

「ええ。やはりエルドラント卿の手合いの者でした。タウの糸の仕組みを教えずにいたら、それだけで簡単に情報を吐きました」

 もがけばもがくほど糸は緊張し、囚われた者はどんどん締め上げられるのである。生きた者ならば痛みで音を上げて抵抗をやめるだろうが、ゾンビは痛みを知らない。生前の習慣で口癖のように悲鳴を上げる者も多いが、実際に痛みを感じはしないのだ。なのでさらにもがき続け、その結果五体が四散するという、生きている時よりもひどい結果にもなりかねない。しかしロジオンとタウとが捕えたそのスパイは、実際には糸が肌を裂いたところで抵抗をやめ簡単に情報を吐いたのだった。

「……で?」

「はい。どうも相当昔からこちらを探っていたようでして、筒抜けと言っても良い程だったそうです。あの女がここに来た事も、スパイを通じてすでに知っていたそうです」

 あの女、という単語に主人はようやく反応を返した。生気のない顔のまま視線をロジオンに向け、椅子に深く座り直す。

「……で、彼女は?」

 言われて、ロジオンは紙切れを取り出した。彼女の部屋に置かれた、彼女の書置きだ。主人はそれを受け取ると紙面に目を落とし、読み終わった頃に「そうか」とだけ呟いた。

「車もないのか?」

「え、ええ。もうすでにこの城を発ったようです」

「そうか。結局、思い出づくりの一つも出来なかったな」

「ええと、まあ、そうなりますかね」

 見当違いな主人の落胆に、ロジオンは先ほどまでとは別の意味で返答に困った。どうにか機嫌を直してもらおうと、ロジオンは言葉を選びながら主人に話しかけ始める。

「ご主人様の魅力が分かる方は、そう多くないのです。そもそも、人の魅力などという曖昧なものを、多くの人間がその基準を共有して理解できるというのがむしろ異常です。人には個性がありますから。基準など、あったとしてもまやかしに過ぎません。飾らない、素のあなたを見せてこそあなたの魅力を知るに最も適した、と言いますか、最もあなたにふさわしいご婦人と巡り合うにふさわしい行いだと私は思います」

「その結果、私はまたふられたんだが」

「分不相応だったんです。あの女ははずれです。当たりを引くまでの、長い長い道のりをまた一歩進めた事を喜びましょう。あなたはまた、あなたにふさわしい方に巡り合える確率を高める事ができたのです」

 労わるようにそう言って、ロジオンは主人の肩に手を置いた。馴れ馴れしいとも取られる真似ではあったが、主人にとってはいい慰めになったようだ。

「……そう、だな。脈が無かった、だから別れた。それだけか」

「分かっていただけましたか」

 ようやく主人が調子を取り戻し始めたのを見て、ロジオンはふうと一息ついた。ふと彼がタウを見ると、タウは大きな目をきらきらさせ、羨望の眼差しを彼へと向けていた。今にも手を叩かんばかりに、胸元で握った両の拳を小刻みに振っている。ロジオンは彼女が主人への接し方に困っているのを知っていたので、さりげなく彼女に近づき、背を丸めてそっと耳打ちした。

「後でコツを教えてやる」

 タウは神妙な顔になって、こくりと頷いた。


「報告します」

 透き通るような、そして良く通る声がエリックの耳に流れ込む。エリックは座ったまま、お気に入りのオルゴールでも聞くように黙ってその女の声に聞き入っていた。

「ウィルスン卿に忍び込ませた2096から、本日の定時連絡がありませんでした。おそらくは囚われたものと思われます」

 日頃聞くものとは違う報告に、エリックが口を開く。

「そうか。勘付かれぬよう、特に用心深い者を送ったはずだが?」

「はい。ですが、現に今日帰ってきた伝書鳩には報告書がつけられていませんでした。いかがなさいましょう」

 問いかけるような言葉とは裏腹に、その口調は耳慣れた返答を待つものだった。エリックもまた、言い飽きた返事を口にする。

「放置。戻ってきたなら、即刻処分だ」

「かしこまりました」

 そう言って、エリザは軽く頭を下げた。そして踵を返し、その場を去る。

 エリックがいるのは自身の治める城の中心、彼がウィルスン卿と呼ぶ者の住む城の倍以上の規模を持つ城の最上階に位置する玉座の間である。入口から玉座までを結ぶように真っ赤な絨毯が敷かれ、その両側にはいくつもの燭台が規則正しく並べられている。窓が全て赤いカーテンで塞がれているにも関わらず、吹き抜けによって高くなった天井から吊り下げられたシャンデリアと全ての燭台に灯された炎との光を白い壁が照らし返し、そのおかげで玉座の間は真昼のように明るかった。玉座の間の建築様式や構造、調度品の配置に至るまで全てが計算しつくされており、城の主の美意識の高さが誰の目から見ても明らかであった。

「私の従者に愚図はいらん。傷の一つでもつけられていれば、なおさらだ。片目の、ぼろのゾンビを使うウィルスンの気がしれんな」

 エリックはそう一人ごち、勝ち誇ったように口元を歪めた。

「まあ、奴の動向は笑いに事欠かん。新しいスパイを送り込むか。……ん?」

 ふと、エリックの耳が遠い場所の音を捉えた。吸血鬼の聴力があって初めて聞こえるその音は、窓の外、城から一番近い山の向こう側から響いてきた。荒地を駆けるタイヤの、砂利や泥を跳ね飛ばしながら突き進む荒々しい音だ。音のする方向は、ちょうど彼が、ウィルソンと呼ぶ吸血鬼の根城のある方向と同じだった。

「エリザ」

 その一声で、すぐにエリザが入口から姿を現した。指示を待つ彼女に、エリックは言う。

「全員に、今夜の警備は甘くしろと通達しておけ」


 主人は自分の手にしているものを、眉根を寄せて睨んでいた。これまでずっと減りそうで減らないでいた三枚の手札を見る目は恨めしいもので、主人はその目でちらりと、手札の向こうに見えるロジオンに目をやった。

「さっさと引いてくださいよ」

 ロジオンはそう言って、自分の持つ手札を軽く振ってみせた。たった一枚のそのカードは、裏面こそ向けられているが、主人の持つジョーカーとは違うのは明らかだ。

「だってお前、それを引いたら一抜けするだろ」

「そういうゲームでしょうが。タウが退屈してますから、はやくしてください」

 ロジオンの言うように、主人の隣に座るタウは自分の分である一枚のカードを伏せて置き、両手の指を軽く組んだ状態で人差し指同士を何度もつつき合わせていた。マスクをしている為、眠そうな目に感情や心理が強く表れて見えた。

「ぬうぅ。何だか私、さっそくタウに舐められているような……」

「それは絶対気のせいですよ」

「嘘にしたって、せめてこっちを見て言えロジオン」

 そっぽを向くロジオンを睨む主人。やがて観念したように、彼はしぶしぶロジオンのカードを手に取った。ロジオンの手が空き、主人の手札の中でスペードの6とクラブの6が並ぶ。

「あがりです」

 手を軽く開いて見せるロジオンの前に、主人は先ほど出来たペアを忌々しそうに投げ出した。机の上を滑る二枚のカードはロジオンに迫り、机の縁すれすれで止まる。

「ほれタウ、早く引け」

 主人が二枚になった手札を、タウの眼前に押し付けるようにして差し出した。タウは視界を隠すように迫る二枚のカードに、迷惑そうに目を細めながらも空いた手でどちらかを掴もうとその手を伸ばす。

 当然ながら、二枚のカードはタウに裏側を向けたままだ。だがタウには、主人の手札のどちらがババか手に取るように分かった。

 タウの手が右、つまり主人から見れば左のカードの上に来る。彼女のその手の指がカードの縁に触れた時、主人の口の端がわずかに上がった。タウがそれを見て指を離し、彼女から見て左のカードに指を付けた。途端に主人の口角が露骨に下がり、眉間に皺が刻まれた。

 タウの指が主人から見て右、ハートのクイーンに触れていたのが再びジョーカーに戻り主人はまた口角を上げる。引け、引け、と彼が念じている前で、タウは指でカードに触れたまま、考え込むようにじっとする。主人が期待する結果を待ちわびるのが唇の動きに表れ続け、少しの間の後、タウの手が素早く動いた。

 主人が引き抜かれたカードを一瞬目で追い、すぐその後に手札を見る。ハートのクイーンを見るつもりで向けたその目は、しかしピエロのあざ笑う顔を見て大きく見開かれた。事実を確認しようとタウを見ると、彼女の手から二枚の手札が滑り落ち、机に落ちた二枚のカードはクイーンのペアを成していた。タウが広げた両手を軽く振ってみせるのを見て主人は脱力し、大きくうな垂れた。

「ぐぬぅ、また負けた……」

 ジョーカーを持ったまま恨めし気に呻く主人を、ロジオンはもはや飽きたと言わんばかりの目で見下ろした。

「……それにしても、暇ですね」

 ロジオンの呟きに、主人は視線を彼に向けた。

「暇とは何だ、暇とは。ゲストが帰ったからといって、お前の仕事が減る訳じゃないんだぞ」

「肩の荷はすとんと下りましたがね」

 主人の嫌味を軽く流し、それはそうと、とロジオンが口を開く。

「縛り上げたスパイについてですが、いかがなさいましょうか?」

「んー?ああ、今は地下牢にいるんだったな」

「ええ。エルドラント卿がスパイを捉えられているのに気付くのも時間の問題でしょう。それに、彼は傷の付いたゾンビは簡単に切り捨ててしまう方です」

 傷の、という言葉を聞いて、タウがびくりと肩を震わせた。マスク越しに、避けた頬の間に並ぶ歯茎に触れる。

 主人は彼女のそんな様子に気付かず、下唇を突きだしてロジオンの語る内容に遺憾の意を示した。

「ひどい話だな」

「ええ、全く」

「そもそも、何でエルドラント卿は私なぞにスパイを送ってきたのだ?面白いものなどないと思うんだが」

「少なくともあなたの目には映らないでしょうね」

 ロジオンは冷めた目で主人をまじまじと見ながらそう答えた。主人はその真意には気付かず、ようやく顔を上げて腕を組み、少しの間考え込んだ。

「……あー、分からん。まあいい、今はそのスパイとやらをどうするかだ」

「帰した所で用済みですからね。流石に夢見が悪くなりますよ」

「だったらいっそ、山にでも離すか?」

「あなたも何気にえぐいですね。私はいっそ、こちらに引き入れたらどうかとも思っています」

「何?」

 主人がロジオンを見て、彼の正気を疑うように眉根をひそめた。タウも驚いたようにロジオンを見る。

「一体なぜそう思った?」

「この一帯にはもう死体は埋まってません。タウがここにいる事自体奇跡と言ってもいい。ですが、やはり人手は欲しいのですよ」

「私とお前だけでも長く過ごせたぞ?急いで増やす必要はないだろ」

「これから先は事情が変わるかもしれません。あの女がやってきて、その後すぐにエルドラント卿がやってきました。望まぬ客の来訪がこの先どんどん増えるのではと、私は危惧しているのです」

 ロジオンのあの女、の言い方に主人はむっとする。

「彼女は別にいいだろう」

「では、エルドラント卿は?こちらの動向をまめに伝えるスパイを送るような方とまた直接お会いしたいと?」

「そんな事は言っていない。私のプライベートは切り売りする程安くはないんだ」

「今現在、無料で違法に見られてますよ。あなたが苦手とする方に」

「むむむ」

 主人は反論をやめ、顎に指を当てて考え込み始めた。

「……確かに、お前の言う事はもっともだ。だがまあ、実際にそのスパイを見てから考えてもよかろう」

「ご英断感謝します」

 主人は立ち上がり、部屋を出た。ロジオンとタウもまた、彼の後を追う。

 しばらく経った頃、三人はスパイを収監した地下牢の前に到着した。主人が手にした燭台を軽く掲げて牢に光を向けると、牢の中で人影が、凹凸の激しい石の床を急いで這って光から離れるのが見えた。光を嫌って逃げるその様は、姿は見えないまでも、そのスパイの性格を何より雄弁に語っていた。三本の蝋燭に灯った炎の光は、牢の外からでは牢の壁に張り付いたと思わしきスパイの姿を照らす事はできなかった。

「何だ、奥ゆかしい奴だな」

「その感想はないでしょう」

 主人の言葉に呆れを見せたロジオンは、その直後いきなり牢の檻を蹴りつけた。がんという大きな衝撃音と余韻で鉄の震える音とが石の壁に反響し、牢の中でひっ、と上ずった声が上がった。主人もわずかに驚きを見せ、タウがびくりと身を竦ませる。

「おら、出て来い!お客様じゃねえんだ、とっとと面ァ見せろ!」

 ロジオンが恫喝と共に再び牢を蹴る。大きく反響する声と音とが牢の奥にいる者とタウとをますます震え上がらせた。返事が返らない事に、ロジオンがチッと舌打ちする。

「ビビッてんのか、アァ!?」

 再びの脅しに牢の奥にいる者はすっかり縮み上がってしまい、タウも裏切られたような顔でロジオンを見上げるばかりだ。

 いきり立つロジオンに、主人が声をかける。

「もう少し、言葉を選んだらどうだ?」

 まるで動じた様子も見せない主人。ロジオンは彼のそんな様子に対し、すぐに普段の調子に戻った。

「生憎と、捕虜の扱いは習ってないので。それより、こいつまるで話す気がありませんよ」

「お前が脅かすからだろう。いいから下がれ」

 主人が腕をロジオンの前に伸ばして彼を下がらせる。渋い顔をするロジオンを牢から離すと、主人は牢に一歩近づき、牢の中の影に話しかけ始めた。

「ああ、怯えなくてよい。私達は君に危害を加える気はない」

 主人の落ち着いた物腰に、物陰にいるゾンビはようやく平静を取り戻す事ができたらしく、弱々しい声が牢の中から上がった。

「そ、そんなの、信じられるか……」

「まあ無理もない」

 か細い男の声に、主人はロジオンを嫌味な目で一瞥し、同意するようにふふっ、と笑った。

「私は穏健派だ。暴力沙汰は好かんし、一方的になぶるような真似も嫌いだ。ここまで言えば、安心できるかな?」

 こう言われ、ゾンビは影の中から早口でこうまくし立ててきた。

「こ、こっちはアンタの事を逐一エリック様に報告してきたんだぞ。報復の一つや二つ、あってもおかしくないだろ!」

「ああ、そういえば。ふーむ、ならどうしたものか……」

 少し前に山に離すなどと言っていた事をまるで忘れた口ぶりで、主人は顎に指を当て考え込み始めた。

「捕虜とはつまり人質みたいなものだろうが、エルドラント卿にとってはもはや人質にはならんだろうしな。交渉の材料にならんとなると、どうしたものか……」

 困り果てたように眉根を寄せる主人に、ロジオンがわざとらしく咳き込んでみせる。

「んんっ、ごほん!」

「おお、そうだ、そうだった。いい考えがあるな」

 主人がロジオンを振り返って何度も頷き、改めて影の中に問いかけた。

「どうだ、私に鞍替えしないか?」

「は、はあ?」

 思わぬ言葉だったのか、ゾンビが頓狂な声を上げる。その反応に主人は口角を上げた。

「私の知る限り、エルドラント卿は見た目重視で、且つ能力主義のはずだ。こうして私に捕まった以上、君に帰る理由はもはやない。むざむざ帰って、無能呼ばわりされた挙句につるはしで頭を砕かれたくはあるまい」

 覚えがあるのか、ゾンビがびくりと身を震わせた。

「私は違う。私の言う事に従いさえすれば、容姿や能力にはこだわらん。有能に越した事はないが、何分わがままの言えん身でな。人手が欲しい、どうだ?」

 ゾンビは、何も言わなかった。ただその沈黙の質は、馬鹿な話だ、と最初から聞き流してのものではないのは明らかだ。後押しするように、ロジオンが口を開く。

「私を見ろ、タウを見ろ。ご主人様の言う事が嘘ではないのは分かるだろ」

 片目のゾンビの言葉に、口元を隠した少女のゾンビが頷く。牢の影にいるゾンビは、押し殺したように息を漏らした。

 主人の言うエルドラント卿の行動を、ゾンビは否定できない。事実、エリックにとって不要、あるいは不適切と判断されたゾンビが処分される様子を何度も見てきた。だからこそゾンビはエリックに忠誠を誓っていたのだが、処分される立場となった今、主人の申し出を受ける方が幾分マシのように思えた。

 やがてゾンビは観念したようにうな垂れ、沈んだ声でため息をついた。

「……分かった。あんたに付く。他の生き方はもう選べんしな。だから、安全を保障してくれ」

 ようやく得られた承諾に、主人はしたり顔になってうんうんと頷いた。

「賢明だ。ところで、名は何という?」

「2096」

「フタマルキューロク?」

 耳慣れぬ単語を口にする主人に、ロジオンが説明する。

「番号ですよ。エルドラント卿はそれだけ多くのゾンビを保有しているのでしょう。おそらくはこれまでに処分されたのも含めての番号でしょうし、こいつの後にまだ何人いるかも分かりませんが」

「それはいかんな、調子が狂う。だったら、生前はどんな名だった?」

「人間だった頃の名は忘れた」

「なんだ、面白くない。まるで道具だな」

 三人のゾンビが、この言葉に主人を見る。主人は視線に気付かぬまま、腕を組んでふむ、と考えた。

「ならばついでだ、私の傘下に入ったからには、新たに名前をつけてやろう。そうだ、ラズミーヒンでどうだ?」

 そう言って、主人はロジオンを見やった。途端にロジオンが渋面を作る。彼がこれまで浮かべたものより、はるかに皺の深い表情だった。

「……私の前で、こいつにその名を?」

「何が不満だ、ラズミーヒンは良い奴だぞ」

 主人の言葉はますます彼を不快にさせた。

 今から100年以上前に書かれた、小説家ドフトエフスキーの著書の一つに『罪と罰』という作品がある。意図しての殺人と意図せずの殺人をほぼ同時に行ってしまった男の苦悩を描いた傑作小説だ。その主人公の名はロジオンで、その親友の名こそがラズミーヒンである。ゾンビのロジオンの名は生前からのもので、彼の名はまさにその小説から来ている。小説中のラズミーヒンは、熱に浮かされ寝込むロジオンを心配して様子を見に来て以来様々な面倒を処理しており、ロジオンがそんな彼を自分の妹や知り合った女性に「ラズミーヒンは良い奴だ」と語る場面が何度も出てくるのである。

 ゾンビのロジオンからすれば小説のロジオンはただの人殺しにしか思えず、生前には同じ名前であるというだけで言われのない誹りを受けた事もある。なので、『罪と罰』を連想させるようなこの取り合わせは、彼にとっては不快この上なかった。

「個人的に嫌な思い出があるんです」

「いつの話だ。100年は前だろう」

 主人にこう言われ、ロジオンは何も言えなくなった。自分が粘着質な性格であるように思われるのも心外で、彼は渋々矛を収めた。その反応に主人は満足げに頷く。

「お前はどうだ?嫌か?」

 話を振られたゾンビは、え、と声を漏らす。

「どうって、俺の意見を聞いているのか?」

「他に誰がいる?」

 ゾンビは明らかに戸惑っているようで答えに窮していたが、やがてああ、と肯定を返した。

「他にいい名も思い浮かばん、勝手にしてくれ」

「決まりだな。じゃあラズミーヒン、牢から出るんだ」

「それについてだが、一つ頼みを聞いてほしい」

 ラズミーヒンと名付けられたゾンビが影から出ずに声を上げた。

「貴様、まだ客の気で」

「やめろロジオン。出来る事なら聞いてやろう。何だ?」

「何分人目を避けて過ごした日々が長い。顔を見られる事に慣れていないのだ。だから、しばらくはこうして物陰からあんたたちと話をさせてほしい」

「何だ、顔に自信がないのか?引け目はいらんぞ」

 主人が自慢するように自分の頬を軽く撫でて笑うのを、ロジオンがあえて無視して口を開く。

「こちらの見てない所でお前が何をするか分からん。信用できんな」

「それは重々承知している。だがどうしても落ち着かないんだ。じろじろ見られると、自分でも何をしでかすか分からなくなる。俺も信用されたいんだ、だから頼む」

 ロジオンはチッと舌打ちし、主人の方を見る。主人が仕方ない、と言わんばかりに肩をすくめてみせたのを見、ロジオンは再びラズミーヒンのいる影に向かって声を上げた。

「いいだろう。だが覚えておけ、余計な考えを抱こうものなら、身の安全は保障されんとな」

「分かった、分かったよ。もう逆らう気はない。だからアンタ、脅かすのはやめてくれ」

 ラズミーヒンが情けない声で音を上げたので、主人がどうどう、とロジオンをなだめながら彼の前に出る。ラズミーヒンをかばう立ち位置で、主人は彼の方を見た。

「まあ、よかろう。どうせ一度は見た顔だ。いちいち確認せずともいい」

「分かってくれればそれでいい。後はアンタに従うよ」

「アンタとは何だ、ご主人様と呼べ」

「まあまあロジオン、その辺りはまた後日な。従うというのならそれでよかろう。タウ、牢の鍵を開けてやれ」

 タウは頷き、持っていた鍵で牢の錠を解いてやった。牢の扉が軋む音を立てながら開く。しかし、ラズミーヒンに腰を上げる様子はなかった。

「アンタ達は先に外に出ていてくれ。俺は後から出る」

「何のつもりだ?」

 ロジオンの睨みつける視線に、今度は動じる様子を見せずに彼は言う。

「何分、新参だ。俺にはまだアンタ達と肩を並べて歩く資格はない」

「闇討ちする資格もないのを覚えておけよ」

 ロジオンはラズミーヒンのいる影の方を見たまま、手だけでタウに先に行くように促した。タウがそれを見て、逃げるようにその場を後にする。

「私は最後に行きます。ご主人様も先にどうぞ」

「そこまで警戒せんでもよかろうに」

 主人はやれやれ、と肩を竦めて歩き始め、ロジオンは影を睨んだまま主人に続いた。


「奴は本当に私達に従うんでしょうか?」

 三人で来た道を戻りながら、ロジオンは前を行く主人にそう零した。主人はそれを受け、呑気に答える。

「刃向ったら刃向っただ。お前に任す」

「また投げやりな。……ところで」

 ロジオンがちらりと後ろを歩くタウを見る。タウはロジオンに見られたのに気付くと、歩調を遅らせ、ロジオンから距離を取っていった。俯きロジオンの方を見るその目は、地下牢に行くまでにロジオンに向けられていたものとは違う。

「タウからなぜかひどく怯えた目で見られるんですが」

「自業自得だ。それにしても、引き入れようと言ったお前があんな態度を取るとはな」

「どちらが上かは、最初にはっきりさせておくべきです」

「私はお前の主人でホントに良かったよ」

 そっけなく言った主人がふと窓に目を向ける。言うまでもなくすべての窓には蓋がされているのだが、主人の目はある窓の蓋に向けられた。蓋を成す板と板との隙間に、白く平たいものが差しこまれているのだ。地下に行く時にも三人はその窓の前を通っていたのだが、その時にはなかった。

「何だ、あれは?」

 主人が早足で窓に近づき、白いものを摘み出す。それは畳まれた白い紙で、折れ目の縁には丸められた跡があった。

「どうかされましたか?」

「どうも手紙らしい」

 主人は駆け寄ってきた二人の前でそれを軽く振ってみせた。

「おそらくは伝書鳩で送られた手紙でしょう。しかしあいつ、何時の間に……」

 ラズミーヒンの仕業と見たロジオンが後ろを見て舌を巻く。三人が地下を出るまで牢にいたはずの男が、三人に気付かれる事なく先回りし、送られた手紙を三人の前に置いているのだ。そして自分に送られたであろう手紙を三人の前に出すという行為はつまり、ラズミーヒンが主人に忠誠を誓った事の表れとも言える。

「流石今までこそこそ動いていただけある」

「よきかなよきかな。まあ、エルドラント卿からの手紙だろうから中身は期待できんがな。全く、ラズミーヒンにどんな手紙を送ってるんだか……」

 主人は迷惑そうな口ぶりで言っているが、他人の手紙を見るという行為に胸を弾ませているのは明らかで、ロジオンとタウはそんな彼に冷めた目を向ける。ただ手紙の内容は気になり、ロジオンは主人の肩越しに、タウは主人の横から開かれていく手紙を覗き込んだ。開き切った手紙の書面に、三人は一斉に目を落とす。

 一行目に書かれた文に、三人の背筋は一瞬で凍りついた。

『ウィルスン卿へ』

 主人は筆跡からこの文が、エリックがエリザに書かせたものだというのがすぐに分かった。

 糸の罠でラズミーヒンが捕えられてから、文書を書かせるような真似はしていない。つまりラズミーヒンは、自分が捕まった事をエルドラント卿に報告していないのだ。にも関わらず主人に向けた文章が書かれているという事はつまり、すでにこちらの行動を読んでいたという事になる。

 主人は動悸を、ゾンビの二人は喉の奥がめくれるような不快感を抑えながら続きを読む。


『拝啓 謹んで申し上げます。この手紙を読んでらっしゃるという事は、おそらくあなたは私の部下の2096をすでに捕まえてらっしゃるのでしょう。もしそうならば、そのゾンビはあなた様の好きになさって結構です。これまで伝え聞いたあなたのお話はどれも楽しいものばかりで、私にとって非常に有意義なものでした。近い内にまたお伺いしたいと思いますので、今後とも長いお付き合いをよろしくお願い申し上げます。

 敬具

 エリック・エルドラント』


『PS. お客様をこちらでお預かりしています』



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