第1話 野良の殿方
【リツ視点】
最後に見たのは病室の天井だった。
白くて四角くて、染みがひとつある天井。小学5年の冬から7年、ほとんど毎日あれを見上げていたと思う。染みの形は日によって犬にも雲にも見えた。最後の日は、なぜか麻雀の牌に見えた。
高校の制服はクローゼットに掛けたままだった。入学式の写真を撮るために一度だけ袖を通して、それきり。18歳。友達は0人。ネトゲのフレンドは212人。
——次は、学校に行けたらいいな。
そんなことを思いながら目を閉じた。
*
次に見たのは空だった。
天井じゃない。どこまでも青くて雲が流れていて、端っこがない。
背中の下で草がちくちくする。土の匂いと、甘い花の匂い。風が頬をなでていく。
僕はゆっくりと体を起こした。
見渡す限りの草原だった。遠くに森と、雪をかぶった山が見える。電線も道路も建物もない。
とりあえず深呼吸をしてみる。
吸える。
胸の奥まで空気がすうっと入ってくる。肺の底に引っかかるものがない。咳も出ないし、点滴の管もない。腕を見ると注射の痕が1つもなかった。
手を握って開く。指にちゃんと力が入る。
立ち上がってもふらつかない。
水たまりを覗き込むと、知らない少年が僕を見返していた。黒い髪に黒い目。15歳くらいだろうか。顔立ちは昔の僕に似ているけれど、頬がこけていない。
「……これ、もしかして」
知っている。本で何百回も読んだやつだ。
僕は右手を前に突き出して、厳かに唱えた。
「ステータス、オープン」
何も出なかった。
念のため、小声で「メニュー」とも言ってみた。
やっぱり何も出なかった。
草原を風が吹き抜けていく。
恥ずかしい。誰も見ていなくて本当によかった。
でもステータス画面なんかどうでもいい。神様の説明もいらない。大事なのは、たったひとつだけだ。
体が軽い。
気づいたら走り出していた。
草を蹴る。風が顔に当たる。心臓がどくどく鳴る。苦しくない。いや、苦しい。でもこれは知らない苦しさだ。ちゃんと走っている人の苦しさだ。
「あははっ」
声が出た。
額から流れた汗が目に入ってしみる。それすらうれしい。
暑くなってきたので、白いシャツの袖を肘までまくった。首元のボタンも2つ外す。胸元に風が入り込んで、最高に気持ちがいい。
丘をひとつ越えたところで、僕は足を止めた。
馬がいる。
栗毛の大きな馬で、その背に女の人が乗っていた。銀色の鎧に紺色のマント。腰には剣。長い金髪をひとつに結んでいる。
騎士だ。本物の。
彼女は僕を見たまま固まっていた。表情がまったく動かない。
頭の中で、前世のネトゲの記憶がものすごい速さで再生される。初対面の相手には、まず挨拶。とにかく感じよく。
「あ、こんにちは! よろです!」
騎士さんは何も言わなかった。
しまった。「よろです」は略しすぎたかもしれない。
僕は駆け寄って右手を差し出した。握手だ。外国では初対面の人とまず握手をすると本で読んだ。
「日野律です。律儀の律です。礼儀には自信があります!」
騎士さんは僕の右手をじっと見ていた。
たっぷり5秒は見ていた。
反応がないので、僕のほうから彼女の手を取った。手袋をしていない素手だった。少し冷たくて、指の付け根が硬い。剣を握る人の手だ。
「よろしくお願いします」
ぎゅっと握って上下に振る。
騎士さんはやっぱり無表情だった。
なぜか馬のほうが、ぶるるっと鼻を鳴らして2歩下がった。
「……殿方」
低い声だった。
「お1人、ですか」
「はい。気がついたらここにいて。どこなのかもよく分からないんです」
騎士さんは一度だけ目を閉じた。それから馬を降りると、自分のマントを外して僕の肩にばさりとかけた。前をきっちり合わせて、首元の留め金まで留めてくれる。
「え、あの」
「羽織っていてください」
「僕、全然寒くないですよ。むしろ暑いくらいで」
「羽織っていてください」
2回言われた。
きっと汗をかいた体が冷えないように気をつかってくれたのだ。無表情だけど優しい人なんだと思う。
「私はルーメリア女王国騎士団、東部警備隊のイルゼと申します。あなたを保護します。砦までご同行を」
「はい。よろしくお願いします、イルゼさん」
名前を呼んだ瞬間、イルゼさんの肩がほんのわずかに揺れた気がした。気のせいかもしれない。
*
砦までは馬に乗せてもらうことになった。
乗馬なんて本でしか読んだことがない。イルゼさんの後ろにまたがると、思っていたより地面が遠かった。
「しっかり、鞍の前の持ち手を」
「すみません、どこですか」
分からなかったので、僕はイルゼさんの腰に両腕を回した。
「これで大丈夫です!」
返事はなかった。
イルゼさんの背中は、鎧ごしでも分かるくらいかちこちに固まっている。馬を扱うのはきっとものすごく集中力のいる仕事なのだ。邪魔をしないよう黙っていることにした。
10秒でがまんできなくなった。
「すごいですね、馬って。これ、ゲームで言うマウントってやつですよね。移動速度が上がるやつ」
「……まうんと」
「あ、僕の故郷の言葉です」
イルゼさんはそれ以上何も聞かなかった。
会話が続かない。
前世でもそうだった。チャットならいくらでも話せたのだ。ギルドの初心者に狩り場を教えるのも、対戦相手に挨拶するのも得意だった。なのに面と向かうと、何を言えばいいのか分からなくなる。
たぶんイルゼさんは、僕を変なやつだと思っている。
せっかく健康な体をもらったのに、友達作りは前世のままらしい。
*
砦は灰色の石でできた大きな建物だった。
門をくぐると、中庭で訓練をしていた騎士さんたちがいっせいにこちらを見た。20人くらいいて、全員が女の人だ。
そして全員が動きを止めた。
木剣を振り上げたまま止まっている人。水を飲みかけたまま止まっている人。小脇に抱えていた兜がごとんと落ちて、石畳を転がっていく。
誰も拾わない。
「こんにちは! お世話になります!」
僕はマントの下から手を出して振った。袖はまくったままだった。
全員がいっせいに目をそらした。
右を向く人。左を向く人。空を見上げる人。1人は壁のほうを向いて、そのまま壁に額をつけた。
「……イルゼさん。僕、何かしましたか」
「いいえ」
「顔に何かついてますか」
「いいえ」
「みなさん、目をそらしたような」
「規律です」
規律。
さすが騎士団だ。初対面の人をじろじろ見てはいけない決まりなのかもしれない。
僕は砦の客間に通された。石の壁に木のベッドと机がひとつずつ。窓からはさっきの草原が見える。
ベッドに腰かけて大きく息を吐く。
今日1日で僕は走った。汗をかいた。馬に乗った。初めて会った人と握手をした。
全部、前世ではできなかったことだ。
ただ1つだけ気になる。
この世界の人たちは、みんなとてもクールだ。誰も笑わないし目も合わせてくれない。病院の看護師さんたちのほうが、よっぽどにこにこしていた。
「……嫌われてはいない、よね」
答える人はいない。
明日はもう少しちゃんと話そう。友達を作るには、まず笑顔と挨拶からと本で読んだ。
僕はこの世界での最初の目標を決めた。
友達を作る。
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【イルゼ視点】
東部警備隊、イルゼ。26歳。
騎士学校を首席で卒業し、「淑女の平静」の型は師範代の免状を持っている。
淑女の平静とは、殿方の前でいかなる動揺も表情に出さぬ心得である。この国に殿方はおよそ100人に1人しかいない。その尊い御身の前で目を輝かせたり息を荒くしたり、ましてや頬を染めたりするのは、淑女として最も恥ずべき振る舞いとされる。
私は今日まで、それを一度も破ったことがない。
破らなかった。今日も、たぶん。
*
巡回中のことだった。
ハイネ平原の丘の向こうから、何かが走ってくるのが見えた。
魔物か。私は剣の柄に手をかけた。
違った。人だった。
黒髪の少年である。
少年。
この国で少年を外で見かけることはまずない。殿方は幼いうちから殿方館で大切に育てられ、外出には許可証と護衛が要る。窓の外を眺めるだけでも侍女がつくと聞く。
その殿方が、草原をたった1人で走っていた。
走っていた。
殿方が。
しかも声を上げて笑っていた。
額には汗。汗である。殿方の汗というものを、私は生まれて初めて見た。書物によれば殿方は汗をかかぬよう日陰で静かに過ごすもので、汗ばむことすら「はしたない」とされる。
さらに袖が肘までまくれていた。
腕が出ていた。
首元のボタンが2つ外れていて、鎖骨が見えていた。
落ち着け、イルゼ。お前は王国騎士だ。平静の型その1。4つ数えて吸い、4つ数えて吐く。
愛馬のグラーフが、私の代わりに鼻息を荒くしていた。
殿方は私に気づくと、まっすぐ駆けてきて言った。
「あ、こんにちは! よろです!」
よろ。
よろ、です。
聞いたことのない言葉だった。考えろ。古語か。「よろ」はもしや「夜露」ではないか。古い恋歌に「夜露に濡れるまで君を待つ」という一節がある。つまり初対面で「夜まで共に」と——。
平静の型その2。心の中で騎士の誓いを唱える。我が剣は女王陛下と民のために。我が剣は。
唱えているうちに、殿方は右手を差し出していた。
「日野律です。律儀の律です。礼儀には自信があります!」
リツ。お名前はリツ様。
りちぎのりつ、の意味は分からない。おそらく殿方の故郷の言葉なのだろう。
ただ「礼儀には自信があります」の部分は、はっきり聞き取れた。
どこが。
腕を出して鎖骨を出して汗を流して、初対面の騎士に「夜露」と言った殿方の、どこが。
私が言葉を失っている間も、リツ様は手を引っこめなかった。むしろ私の手のほうへ伸びてきた。
まさか、と思った。
まさか、だった。
リツ様は私の手を取った。
素手で。
この国の古い慣わしでは、殿方が自ら女性の手を素手で取るのは婚約の申し込みを意味する。殿方の手袋が「貞淑の証」と呼ばれるのはそのためである。
それを握って、上下に振った。2回も。
「よろしくお願いします」
婚約の申し込みの直後の、よろしくお願いします。
平静の型その3。そんなものはない。型は2つまでしかない。私は師範代なので知っている。
グラーフが2歩下がった。賢い馬だ。私も下がりたかった。
かろうじて声を出す。
「……殿方。お1人、ですか」
「はい。気がついたらここにいて」
護衛もなく許可証もなく、身元も分からない。記録にある限り、この国で「野良の殿方」が見つかった例はない。
私はまず、己のなすべきことをした。マントを外してリツ様に着せかけ、前を合わせて首元の留め金を留めた。
腕と鎖骨を世間から隠すためである。
あと、私の正気を守るためでもあった。
「僕、全然寒くないですよ。むしろ暑いくらいで」
知っている。見れば分かる。だから困っているのだ。
「羽織っていてください」
「でも」
「羽織っていてください」
名を名乗って保護を申し出ると、リツ様はにっこり笑った。
「はい。よろしくお願いします、イルゼさん」
名前を呼ばれた。
殿方が女性の名を口にするのは、親しい間柄に限られる。初対面で名を呼ぶ殿方など、恋歌の中にしか出てこない。
私の肩が少し揺れた。
少しだけだ。平静は保った。保ったと、報告書には書くつもりでいる。
*
砦までの道のりのことは、あまり書きたくない。
リツ様は鞍の持ち手の場所が分からないとおっしゃり、私の腰に両腕を回された。
殿方の腕が、私の腰に。
鎧を着ていて本当によかった。鎧がなければ、私は今ごろ騎士ではなく、ただの湯気になっていたと思う。
砦に着くまでに、騎士の誓いを心の中で37回唱えた。途中から文句が「我が剣は女王陛下と、リツ様の腕のために」になりかけたので、38回目からは数えるのをやめた。
「これ、ゲームで言うマウントってやつですよね」
「……まうんと」
「僕の故郷の言葉です」
まうんと。これも分からない。報告書にはとりあえず書いておく。
*
砦に着いてからのことは、もっと書きたくない。
門をくぐった瞬間、中庭の部下20名の平静が音を立てて崩れた。
当然である。私のマントを羽織っているとはいえ、その下からまくったままの腕が出ていたのだ。しかもリツ様は、その腕で手を振った。
「こんにちは! お世話になります!」
副官のドーラが兜を落とした。訓練生のミアは壁に額をつけて動かなくなった。あとで聞くと「壁と一体化すれば見なかったことになると思った」そうだ。
「……イルゼさん。僕、何かしましたか」
何もかもです。
「いいえ」
「みなさん、目をそらしたような」
「規律です」
嘘ではない。淑女の平静は騎士団の規律の第1条である。そして今日、その規律は砦の中庭で全滅した。
*
夜、私は執務室で報告書を書いた。
1枚目は破った。「殿方の鎖骨は、思っていたより」という一文で筆が止まったからだ。
2枚目も破った。「婚約の申し込みと解される行為があったが、当方としては前向きに」まで書いたところで我に返った。
3枚目を提出した。
*
報告書
件名:身元不明の殿方の保護について
報告者:東部警備隊 イルゼ
発見場所:ハイネ平原
発見時の状態:走行中(※誤記ではない)
氏名:リツ(本人の申告による)
備考1:本人は「りちぎのりつ」を自称。礼儀には自信があるとのこと。
備考2:保護の際、当該殿方より素手による握手あり。婚約の申し込みに該当するか、ご判断を仰ぎたい。
備考3:「よろ」「まうんと」など意味の分からない言葉を話す。故郷の言葉とのこと。
備考4:本日、砦の騎士20名のうち18名が淑女の平静を維持できず。
*
書き終えて、私は自分の右手を見た。
リツ様に握られた手だ。
夕食の前に手を洗うべきだった。騎士としてそれが正しい。
私は手袋をはめた。
今夜は、このまま寝ることにする。
お読みいただき、ありがとうございます。
この作品は、私が小説を書き始めた初期の頃に作ったものです。
内容がうまくまとまらず死蔵していたものですが、少しだけ手直しして公開することにしました。拙い点も多々あると思いますが、少しでも楽しんで頂けたら幸いです。




