第七話 「疑惑の鋭眼」
朝の光が離れ客殿に差し込む頃、
部屋の空気は重く沈んでいた。
絵の制作は終盤を迎え、
松の枝に留まる蒼鷹の毛並みや、
鋭い爪の描写へと入っていた。
小太郎は真剣な眼差しで
繊細な筆を動かしているが、
その横で作業を進める
信斎と源次の神経は、
極限まで研ぎ澄まされていた。
不意に、バタリと荒々しく襖が開いた。
「作業中、失礼する」
入ってきたのは、鬼頭厳十郎であった。
後ろには手下の用心棒を二人従えている。
その手には、いつもと違い、
抜き身に近い状態で握られた刀があった。
「鬼頭様……何かご用でしょうか?」
信斎は静かに筆を置き、
何事もないかのように
丁寧にお辞儀をした。
小太郎も驚いて手を止める。
「信斎殿。単刀直入に聞く」
鬼頭は信斎との距離を詰めることなく、
鋭い眼光で部屋の中を見回した。
「当主・徳兵衛様の体調が
急激に悪化している。
今朝は起き上がることもできず、
手足の激痛と
胃の腑を絞られるような痛みを
訴えておられる。
医師は『酒毒』だと言うが……解せぬ」
鬼頭の足が、道具箱の前で止まった。
「徳兵衛様が体調を崩し始めたのは、
この離れで毎夜、
お前たちの描く絵を
眺めるようになってからだ。……
この部屋の空気には、
妙な匂いが混ざっている。
膠の匂いではない。
以前、藩の鉱山で嗅いだことのある
……鉱物の毒の匂いだ」
小太郎が素直な疑問を口にした。
「鉱物の匂い……?
それは岩絵の具の匂いですよ!
日本画の絵の具は辰砂や緑青など、
鉱石を砕いて作るのですから、
匂いがして当たり前です!」
「黙っていろ、小僧!」
鬼頭が一喝した。
小太郎はビクッと肩を震わせる。
鬼頭は刀の柄に手をかけたまま、
信斎を睨みつけた。
「確かに絵の具は鉱物だ。
だが、その絵の具に何か
『余計なもの』を混ぜ込んでいる
としたらどうだ?
あるいは、
特定の調合で毒気を放つよう
仕組んでいるとしたら?」
「……鬼頭様」
信斎は至って冷静に、
深く静かな声で応じた。
「我らは幕府の御用を務める
狩野派の画師にございます。
そのような
浅ましい疑いをかけられるのは、
誠に遺憾。
道具箱でも、調合の鉢でも、
どうぞご改めくだされ。
何もやましいものはございませぬ」
「言われずとも改めさせてもらう」
鬼頭の合図で、手下の用心棒たちが
乱暴に画道具の箱を開け、小壺や筆、
絵の具の袋をひっくり返し始めた。
源次は無表情のままそれを見つめていた。
隠してある毒顔料――
「雌黄」も「鉛白」も「辰砂」も、
すべて絵師が日常的に使う顔料として
堂々と混ざられている。
特殊な比例計算で調合された
「毒の絵の具」は、
すでにすべて壁面に塗り込められた後だ。
この部屋の道具箱の中に、
証拠となるような「不自然な薬品」など
残されているはずもなかった。
「……何も出ません、鬼頭様」
手下が首を振る。
鬼頭は
苦々しい顔で道具類を見下ろしたが、
その疑念が晴れることはなかった。
長年、
修羅場を潜り抜けてきた剣豪の直感が、
「この絵師たちが黒だ」と
告げていたからだ。
「……出ぬか。だが、
わしの目は誤魔化せんぞ、信斎」
鬼頭は信斎の至近距離まで歩み寄ると、
低く殺気立った声で囁いた。
「今夜、徳兵衛様が
息を引き取るようなことがあれば……
証拠などなくとも、
お前たち一行の首をここで叩き落とす。
構わんな?」
「……勝手な言いがかりにございます。
ですが、
我らは逃げも隠れもいたしませぬ」
信斎が微動だにせず突き返すと、
鬼頭は舌打ちをして、
荒々しく部屋を去っていった。
襖が閉まると同時に、小太郎が
「な、何なんですかあの人は……!」と
怒りを露わにしたが、
信斎はそれを手で制した。
「騒ぐな、小太郎。作業を続けるぞ」
信斎は静かに筆を手に取ったが、
その瞳の奥には
冷ややかな決意が宿っていた。
(鬼頭厳十郎……
確証はなくとも斬るつもりか。
元・剣術指南役の勘を察してか、
これ以上生かしておくわけにはいかん)
信斎はすれ違いざま、
源次に視線で合図を送った。
今夜、絵が完成する前に――
あの用心棒の存在を消さねばならない。
この後 18:10 に投稿します。




