第五話 「塗られし網」
制作は二週目に入っていた。
離れ客殿の内部は、日に日に
熱気と絵具の匂いを濃くしていった。
秋の深まりとともに
寒さが押し寄せていたが、
作業のために部屋の障子や
窓はすべて締め切られている。
「小太郎、構図の骨組みは実に見事だ。
次は『松の幹』の着色に入る」
信斎の声に、
汗を拭いながら小太郎が力強く頷いた。
「はい! 幹のゴツゴツした質感と、
何百年も生き抜いてきた重厚感を
表現したいです!」
「ならば、下地に『雌黄』と『鉛白』を
十分に吸わせた絵の具を用いる。
深い陰影を出すための
古来からの技法だ」
信斎は源次が練り上げた
「毒顔料」の鉢を小太郎の手元に置いた。
何も知らぬ小太郎は、
その特製絵具に筆を浸し、
丁寧かつ力強い筆致で
壁面に塗り重ねていく。
小太郎の
ズバ抜けた描写力が加わることで、
毒の塗料は単なる化学物質ではなく、
息をのむほど重厚で美しい
「老松の影」へと姿を変えていった。
(見事だ、小太郎……。
お前が真剣に筆を走らせるほど、
死の網は強固になる)
信斎は心の中で呟きながら、自らは
最上層に重ねる金箔の準備に入った。
下地に仕込まれたヒ素と鉛。
その上から、信斎は意図的に
「ごく微細な隙間
(目に見えぬ通気孔)」を残す
特殊な押し方で金箔を貼っていく。
部屋が乾燥し、人が動くたびに、
下地から目に見えない毒の微粒子が
散布される仕掛けだ。
その日の昼下がり、
足音高く徳兵衛が離れを訪れた。
後ろには、
いつものように鬼頭厳十郎が控えている。
「おお……! おお、これは……!」
未完成ながら、
金箔の地に浮かび上がりつつある巨松と
蒼鷹の姿を目にした徳兵衛は、
口をぐうっと開けて歓声を上げた。
「素晴らしい! まだ途中だというのに、
この重厚感、この神々しさ!
やはり江戸最高の狩野派に頼んで
正解であった!」
「お気に召して何よりにございます。
ですが徳兵衛様、
完成まではまだ数日を要します。
どうぞお近くでご覧くだされ」
信斎は恭しく手招きし、部屋の最も奥――
源次が重点的に「毒」を塗り込めた
壁の真正面へと徳兵衛を誘導した。
「どれどれ……ふむ、この松の幹の凹凸、
まるで生きているかのようではないか」
徳兵衛は信斎に促されるまま、
松の幹に顔を近づけた。
締め切られた室内には、
かすかに熱がこもっている。
徳兵衛が「ふうふう」と
荒い息を吐きながら絵を見つめるたび、
まだ完全に乾ききっていない壁面から、
目に見えぬ微粒子が
彼の鼻孔と口へと吸い込まれていく。
「徳兵衛様、
この離れは誠に造りが堅牢で、
風が吹き込みませぬ。
絵具の乾きを早めるため、
夜間は火鉢を入れ、
お部屋を温めておかれることを
お勧めいたします」
「ほう、火鉢とな?」
「はい。適度な熱を加えることで、
金の輝きが増し、
絵具がしっかりと壁に馴染むのです。
完成した折には、
火鉢を焚いたこの温かなお部屋で、
心ゆくまでお酒を嗜まれるのが
最も贅沢な鑑賞法かと」
信斎の言葉に、徳兵衛は
「なるほど!」と手を打った。
「そいつはいいことを聞いた!
わしは寒がりでな。
完成の暁には、毎夜ここに
上等の火鉢を持ち込ませ、
酒を飲みながら
一人でこの絵を眺めることにしよう!」
「ははっ。それこそが、
画師として最高の喜びにございます」
信斎は平伏し、
口元に僅かな冷笑を浮かべた。
火鉢の熱――それこそが、
辰砂(水銀)を気化させ、
気管から劇薬を注入するための
最後の「鍵」となる。
標的自身が、
自らの手で死のスイッチを入れるのだ。
ふと視線を上げると、
部屋の入り口に立つ鬼頭厳十郎が、
腕を組んだまま鋭い眼光で
信斎を見つめていた。
鬼頭の鼻が、かすかにピクリと動く。
(……やはり、この男は気づき始めている)
密閉された部屋に充満する、
わずかな異臭。
毒の網は完成しつつあるが、
同時に鋭利な刃を持つ用心棒の疑惑も、
急速に膨らみ始めていた。
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